考えすぎ -252ページ目

世界は自分に詰まっている

今、僕が知る限りの世界全体は、全部、自分のなかに詰まっている。
だって、世界を捉えているのは自分なんだから。
自分の知らないことはたくさんあるけど、それは自分が選ばなかっただけのことだ。

五感から入ってきた情報のうち、自分にとって必要なものだけを選び取っていく。・・・そういうことを、脳は無意識のうちに処理しているらしい。実際、脳はほとんどのことを覚えていて、日頃、「忘れた」とか「覚えなかった」と感じるのは、単に思い出せないでいるだけのことだそうだ。

突然、ひどく懐かしい感覚を呼び起こされることがある。
なくしていたものを取り戻したような気分。
でも、実は思い出せないでいただけなのかもしれない。
思い出せないでいた、ということすらも思い出せないまま。

世界が突然、がらりと変わることがある。
それは、世界に対する自分の捉え方が変わったからだろう。
それとも、世界そのものが本当に変わってしまったからだろうか?
自分自身がこんなにも刻一刻と変化してしまうのでは、それを自分で確かめることは難しそうだ。

西洋哲学史

『終わりに』の書き直しです。

やっぱり難しいです。
反則かもしれませんが、これからも何度か書き直していきます。
自分の考えに自分で反論しているさまを他人にわかるように書くのは非常に難しいです。
ショートした回路をつかまえようとしているような感じです。
この回路は、至る所でループしているし。

言霊使い

中学の頃から、自分のなかで、いろいろ悩んできた。
自分なりに、相当苦しかった。
今では大分慣れて来たけど、ほとんど解決できない悩みばかりだから、今でも思い出すと苦しい。

死が怖い。
いつか死んでしまうのなら、すべてがむなしい。
と、こんなことばかり言って、自分は何の役にも立たない。
役に立たないくせに、人に迷惑ばかりかけている。
人に迷惑をかけないようにしようとしても、いつも裏目に出る。
人の気持ちがわかってないからだ。
それに、努力しようとしても自分が弱いから、結局、迷惑をかける。

こうやって思考の悪循環に陥ることなら、まず誰にも負けない自信があった。
・・・っていうのは、今だから言えることで、
当時は「誰にも負けない自信がある」なんて言ってる余裕はなかった。
言ったとしても、それは自分に対する嘲笑、自虐だった。

自分の頭のなかで言葉をこねくり回していただけかもしれないけど、
それなりに必死に考えていた。
だから、言葉でものを伝えることについては、そこそこ自信があった。
これは割と、文字通りの自信だった。

自分の心のなかのことを、随分いろんな人に喋った。
そして喋りながら、この悩みがいかに解決できないものかを訴えた。
話を聞いてもらった後、こんな不毛な話をただ聞かされた相手の気持ちを思い、その貴重な時間を奪ってしまったことを思うと、再び、自己嫌悪の渦に飲み込まれていた。

でも、こんな頑固でひねくれていた自分の心に、
時々、直接響いてくる言葉があった。
それは、ここで再現できるものではなくて、
その状況、そのタイミングで言われたからこそ響いてきた言葉だった。
自分がいくら頭で考え抜いたことでも、その言葉には敵わなかった。
まるで、すべてを見透かされているようだった。
しかも、自己嫌悪なんてしていられなくなるような言葉だった。

そういう言葉の使い方がしたい、とその時、強く思った。

どんなに研ぎ澄まされた学問も、
どんなに偉大な小説家が書く物語も、
その時、自分の心に直接響いてきたその人の言葉ほどは、
心には響かない。
所詮、万人に向けられた言葉は死んでいるのだ。
目の前にいる人から発せられる、生きた言葉には到底かなわない。
だから自分も、そういう生きた言葉を発したい。
自分にできるやり方で。

暖かいのも悪くない

この2、3日、妙に寒い。
でも、比較的暖かくなってきた。

中学、高校の6年間と、大学に入ってからもしばらくの間は、
冬が好きだった。
冬、寒風吹きすさぶ中を歩いていると、
「生きている」
という感じがした。
外は寒いが、こうして自分は体温を持って、生きている。
そういう感じが好きだった。

今でも、その感覚は好きだ。

でも最近は、夏も悪くない、と思うようになってきた。
おそらく、以前のようにあえて「生きている自分」を実感してみるまでもなく、
そのことがちゃんと実感できているからだろう。
だから、夏の熱気を跳ね返しつつ、むしろ吸収できるようになった。
・・・そんなところだと思う。

夏が嫌いだったあの頃は、
ただひたすら、夏の熱気にもうろうとしながら、うんざりしていた。
今は、ちょっと夏も楽しみだ。

恵まれている

自分は恵まれている。
日本に生まれた、ということだけでも充分そう言えると思う。

恵まれているからこそ持てる、心の余裕がある。
恵まれているからこそ持てる、思いやりの気持ちがある。
だから、
「思いやりがない」
と言って、簡単に他人を批難することはできない。
そういう批難こそが、最も思いやりの気持ちに欠けた姿かもしれないからだ。

もちろん、たとえ恵まれない境遇にあったとしても、
心の余裕や思いやりの気持ちを持ち続けている人はいるだろう。
でも、この自分もそういう人間だとは、とても言い切れない。
言い切れないどころか、自分の場合、単に恵まれていたから曲りなりにもそういう生き方が辛うじてできてきただけのような気がする。

恵まれている人と、恵まれていない人がいる。

自分の恵まれていない部分について、その部分で恵まれている人にはなかなかわかってもらえないことが多い。
同じように、自分の恵まれている部分について、ほかの誰かが恵まれていなかったとしても、その本当の恵まれなさは、きっと自分にはわからない。

だから、悩み続けるしかない。
そして、こんな自分にも関わらず恵まれてきたことの、意味や価値を見つけ出さなくてはならない。
ある面で恵まれてきた、この自分だからこそできることは何か。
自分がその面で恵まれてきたのは何のためか。

こう思うのは、「恵まれている」という名のコンプレックスのせいかもしれない。
・・・こんな贅沢な言い回しが、果たして許されるのかわからないが。

自分って何?

先日、『自分って何?』 というブログを見つけて、
また後で読みに来たくなったから読者登録をさせてもらったところ、
今日、なんと、そのことがそのブログで記事になっていました。

曰く、
この『考えすぎ』や『ダムの決壊』を見て、『自分って何?』 に類するものだと感じた、
ということで・・・驚きました。
ブログというのは、こうやって繋がっていくものなのか、と思いました。

「やっぱり宣伝しなきゃね。消費社会だから。」
という、ある人に言われた言葉を思い出しました。

それを伝えることが本当に大事だと思うなら、
ちゃんと自分から宣伝していかなきゃ。
・・・そういう気持ちになってきました。

自己中心的ということ

最近の若者は自己中心的だ、と言われる。
確かにそうかもしれない。
でも、そのあたりに昨今の凶悪犯罪の原因を探ろうとするのは、少しおかしい気がする。

自分中心に物事を捉えるにしても、
自分の利益を一番に考えるにしても。
心の底から本当にそう思い、そう生きようとするなら、簡単に犯罪など起こせるはずがない。
よほど、やむを得ない事情でもない限り。

世の中には、自分の思い通りにならないことなんて山ほどある。
というか、自分の思い通りになることなんて、ほとんどない。
自分自身のことですら、思い通りにはならないことが多いくらいだ。
しかし、自己中心的であろうとすればするほど、そういう事態に直面しやすい。そして、苦しくなりやすい。

この苦しさに耐えられず、自分を見失った時、むしろ犯罪が起こるのだろう。

世の中に流されていれば、苦しくない。
しかし、自己中心的であると、苦しい。現実とのギャップや摩擦は大きくなるし、自分にとって必要なものは自分で手に入れるしかない。
それでも、その苦しさに耐え続け、あくまで自分のために生きることを続けるならば、その自分のために、そう簡単には犯罪など起こせないはずだ。

犯罪を起こしてしまうのは、例えば、
何が自分のためになるかを考えられなくなったときだ。
それは、自己中心的なんかではなくて、自分を見失った瞬間なのだと思う。

それまで自己中心的だった人間のほうが、
その苦しさに耐えかねて、自分を丸ごと捨ててしまいやすい(つまり、凶悪犯罪に走りやすい)、ということなら言えるかもしれないが、
それは、
「自己中心的だから犯罪を起こす」
ということとは違うはずだ。
犯罪を起こしてしまうのは、むしろ、本当の意味での自分のためのことをちゃんと考えられていないからだ。

・・・と言ってみましたが、どうなんでしょうね。
なんか、詭弁みたいな感じもしますね。

仕事とは人間関係だ

一応、先月までで終えたアルバイトですが、その延長として、
昨日と今日、しっかり働いてきました。

仕事とは人間関係だ。
・・・つくづく、そう思います。
実際には、仕事の種類にもよるんでしょうけど。

(注:これは、ライブドア批判ではありません)


・・・ライブドアって、金儲け主義なんですかね。
よくわかりません。
でも、自立してもいないくせに偉そうなことばかり言っている自分のことを思うと、
収入を得るために努力することは単純に素晴らしいことだと感じます。
自分に欠けているから、そう感じてしまうんでしょうか。

夢破れ

久々に、『詩』 を更新しました。

「夢破れ」という言葉から、芋づる式に作られてしまった感じの詩です。

でも、詩って何ですか?
いまだに、さっぱりわかりません。
今日まこっちゃが書いた、「夢破れ」は詩ですか?

私は「歩く生態系」

自分の手を眺めたら、急に、自分が生態系のような気がしてきた。
実際、生態系なのだ。

普段、ここに生きているのは自分だけだと当然のように思っていたが、
実は、無数の命をその中に抱えていた。
そう思うと、自分はまるで、小さな地球だった。