言霊使い | 考えすぎ

言霊使い

中学の頃から、自分のなかで、いろいろ悩んできた。
自分なりに、相当苦しかった。
今では大分慣れて来たけど、ほとんど解決できない悩みばかりだから、今でも思い出すと苦しい。

死が怖い。
いつか死んでしまうのなら、すべてがむなしい。
と、こんなことばかり言って、自分は何の役にも立たない。
役に立たないくせに、人に迷惑ばかりかけている。
人に迷惑をかけないようにしようとしても、いつも裏目に出る。
人の気持ちがわかってないからだ。
それに、努力しようとしても自分が弱いから、結局、迷惑をかける。

こうやって思考の悪循環に陥ることなら、まず誰にも負けない自信があった。
・・・っていうのは、今だから言えることで、
当時は「誰にも負けない自信がある」なんて言ってる余裕はなかった。
言ったとしても、それは自分に対する嘲笑、自虐だった。

自分の頭のなかで言葉をこねくり回していただけかもしれないけど、
それなりに必死に考えていた。
だから、言葉でものを伝えることについては、そこそこ自信があった。
これは割と、文字通りの自信だった。

自分の心のなかのことを、随分いろんな人に喋った。
そして喋りながら、この悩みがいかに解決できないものかを訴えた。
話を聞いてもらった後、こんな不毛な話をただ聞かされた相手の気持ちを思い、その貴重な時間を奪ってしまったことを思うと、再び、自己嫌悪の渦に飲み込まれていた。

でも、こんな頑固でひねくれていた自分の心に、
時々、直接響いてくる言葉があった。
それは、ここで再現できるものではなくて、
その状況、そのタイミングで言われたからこそ響いてきた言葉だった。
自分がいくら頭で考え抜いたことでも、その言葉には敵わなかった。
まるで、すべてを見透かされているようだった。
しかも、自己嫌悪なんてしていられなくなるような言葉だった。

そういう言葉の使い方がしたい、とその時、強く思った。

どんなに研ぎ澄まされた学問も、
どんなに偉大な小説家が書く物語も、
その時、自分の心に直接響いてきたその人の言葉ほどは、
心には響かない。
所詮、万人に向けられた言葉は死んでいるのだ。
目の前にいる人から発せられる、生きた言葉には到底かなわない。
だから自分も、そういう生きた言葉を発したい。
自分にできるやり方で。