考えすぎ
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恩返しの危険性

恩返しを「当たり前」にしないほうがいい。


恩返しをしたくなる気持ちは、わかる。

私も親をはじめ恩返しをしたい人がたくさんいるけど、とても返しきれない。

だから考え直して、恩送りすることにしたのが正直なところ。


・・・こう考え直すことにした。

もし、恩返しばかりしていたら、後から世界に来た人たちが苦労するんじゃないか。

もし、恩返しのことだけ考えていたら、いつの間にか誰かに操られてしまうかもしれない。

もし、恩返しに忠実な人々がいたら、その人たちは親ばかり大事にして子孫が繁栄しなかったろう。


でも最近、気付いたんだ。

むしろ、恩返しは「危険」なのかもしれない、って。

恩返しをする、ということは、世話になった人を大事にすること。

それ自体は少しもいけないことじゃないけど、

それに囚われることは危険だと思う。

なぜなら、

恩を受けた相手だけを大事にしてしまうから。

それ以外の相手を蔑ろにしてしまうから。


そもそも恩をくれたのは、その人じゃない。

その人を通して、この世界がくれたのだ。

だから、この世界に還していけばいい。この世界を繋いでいく別の人を通して。

それが恩送り。


恩返しは、続けていると排他的な思想を身に付けてしまいかねない。

恩送りなら、感謝の気持ちを保ちながら世界と調和する道を拓いていける。

だから、恩送り。

恩返しじゃなくて、恩送り。


恩返しの罠に気を付けよう。

恩返しをするのも、されるのも、度重なるときっと危ない。

言葉遣い

言葉は補助輪。

本質は決して語り得ないけれども、

そこに到達するために、言葉の力を借りるのが人間流。


言葉は、お金と同じで、

使いかたを誤れば、いとも簡単に不自然になる。

だから自然な言葉遣いを心がけていきましょう。

そして、縛られずに生きましょう。


不自然な言葉遣いも時には必要でしょう。

品のある言葉を使うようにしましょう。

そこには言霊が宿っているのですから。

認識あっての“存在”

認識は、どこまでも「コト」であり、「モノ」になることはないし、「モノ」に介入することさえ出来ない。

認識が関与できるのは、ひとえに「コト」だけであり、

その意味において、存在もまた「コト」である。

また、「モノ」とは存在の言い換えであって、

私たちが想定するところの「モノ」とは実際のところ「コト」であり、

「モノ」それ自体が実在しているわけではない。


上述したことは、見ようによってはナンセンスな言葉遊びや、せいぜいパラドックスでしかないが、

「量子の観測」において科学的に確認されている事実でもある。

「存在が実在しているかどうか」という根源的な問いが、

「神が実在しているかどうか」というのと変わらない、不可知な問いであることが、

既に科学的に示されてしまっているのだ。


存在が実在するか否かに関わらず、

私たちは私たちが認識するような世界という「コト」を生きている。

認識あっての“存在”であり、

“存在”に対する敬意は、同時にその“存在”を“存在”たらしめる認識に対する敬意となる。

詰まるところ認識がすべてであって、

beingがその核であり、doingはbeingを支える補助的な認識行為である。

もちろん、doingがなければbeingも認識できなくなり、being単体でその認識は成立しないから、

どちらのほうが重要か、という問いはナンセンスである。

確かなのは、doingがbeingを体現している、というシンプルな事実のみである。

問題を増やすことによって回る“経済”

そもそも、
“ストレス解消”系のサービスや商品が氾濫している状況
が異常なのであって、
それらが「付加価値」と称されて経済が回っていること自体がおかしいのだ。

現行社会システムにおける経済は、
“適切に管理された範囲内で問題を増やしたほうが経済がよく回る”システムになっている。
このシステムそのものに、エラーは無いのかもしれない。
しかし、生命システムにとっての「問題を減らしたい」という本能的欲求に照らせば、
これは根本的なシステムエラーだ
と呼ばざるを得ない。

わざわざ問題を増やし、それらの解決策を作ることによって回る“経済”に、
いったいどれほどの意味があるのだろうか。
そのような営みでは、「経済社会」そのものは潤うかもしれないが、
そのシステムによって山積した問題と対峙させられる、認識する主体(つまり私たち)は疲弊する一方だ。

これを、
経済社会からの搾取
と呼ばずに何と呼ぼうか。

「いいよ」

「いいよ」

と言っても、本当は良くないと思っている時、

ってあるよね。


訊かれた弾みで、つい、

「いいよ」

と言ってしまう時もある。


言葉なんて、そんなもの。

だから、言ったか言わないかの争いなんて全然本質的じゃない。


言ったか言わないかの争いが起きた時には、

その争いとどう向き合っていくか、とか、

そこにどういう関わりかたをして、どんな言葉を返すのか、ということのほうが

実際には、とても大事だったりする。


たぶん、世の中で言語化されている物事のうち、

言語化されている内容そのものが重要なことなんて、

本当は、1%も無いんじゃないか。

みんな、(それこそ言葉に出しては)言わないだけで、

内心そう思っているし、そうだって薄々わかっているんじゃないのかな・・・?


もし、そうでなかったら、

「気が利く」とか、

「阿吽の呼吸」とかって評価されたり賞賛されることがある、ってことも

説明がつかないんじゃないかと思うんだ。

何よりもつらいこと

何よりもつらいのは、魂の居場所がないことだ。

脱・所有

所有ではない、それは占有権だ。

「ある事象が偶然か必然かは、認識次第」についての科学的アプローチ

ある事象について、

それが偶然か必然か、と問うこと自体が

じつは、ナンセンスなのかもしれない。


量子力学では、

「量子の状態が確定するのは、観測された時」

であることが確認されている。

量子は、この世界のあらゆる物理的存在を構成する要素であるから、

「存在の状態が確定するのは、観測された時」

と言い換えることもできる。

そして、観測とは認識する手段のひとつであることから、

「存在の状態が確定するのは、認識された時」

とも言い換えられる。


科学的にそのことが確認されているのなら、

「ある事象が偶然か必然かは、認識次第」

である、という仮説を科学的に立てることも可能だろう。

既に、ロケットに時計を乗せて地上と宇宙空間を行き来する実験によって、

「重力場を移動すると時間が伸び縮みする」

ことが知られている。

単純に時計の針の動きが遅れたり速くなったりするのではなくて、“空間ごと時間が伸び縮み”しているという。

原理的には、宇宙空間で過ごしてから地球に戻ってくると、

多少なりとも“未来の時間にタイムトリップ”したことになる。

ただし、現在の宇宙飛行士が行き来するレベルでは

体感的にも人生に支障がない程度の、ほんの僅かな時間のタイムトリップでしかないけれども。


科学技術を駆使して、たとえ僅かな時間でもタイムトリップさせられる装置が完成すれば、

「ある事象が偶然か必然かは、認識次第」であるかどうか、

ということも科学的に検証可能になる。


科学は万能ではない。

しかし、反証可能性や再現性を確保できる範囲を広げることができれば、

その分だけ科学でカバーできる範囲も広がっていく。

これまでは西洋発祥の科学が中心だったが、近年では東洋思想に基づく実学が注目され、

科学的に扱われ始めている。


ABC予想の望月証明によって、数学の在り方も変わろうとしているように見える。

今後10〜20年あまりで、「科学的」の意味するところが根本的に転換していくかもしれない。

従来の意味の「科学的」を包含する形で、

より適切な認識で(もちろん認識を共有できるだけの根拠を携えて)これまでとは違う次元での「科学的」が生まれていくのだ。

なぜ言語化するのか

言語化の意義。

それは、ひとえに
その対象にフォーカスして認識できるようにすること
である。

すなわち、言語化とは
あるひとまとまりの概念を継続的に認識しようとする営み
のことである。

世界の目として生きている私たち

世界は今も夢をみている。
まだ世界が自覚していない夢を自覚しようとして、そのために
こうして今、私たちが認識しているのだ。

私たちが協力すれば、世界は統一されていくし、
私たちがいがみ合えば、世界は分裂していく。
その様子さえも自覚したくて、世界は私たちを自ら生み出した。

私たちは皆、世界の一部。
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