明治6年(1873年)10月末、東京を去って故郷鹿児島に向かった時、西郷は運命の爪にがっしりと両肩を掴まれたと言っていいであろう。旧主久光が廃藩置県に公然と反撥し、元家臣の大山綱良を県令の地位に就かせ、あたかも旧薩摩藩がそのまま続いているかのような鹿児島県に西郷が帰郷し、彼の部下だった数百名の陸軍士官や近衛兵たちが彼の後を追って続々と帰郷する事態を目の当たりにした県民は、これからは東京に移転した久光に代わって、西郷が鹿児島県の事実上の主となるのだと理解したことであろう。帰国軍人の多くは定職にも就かず、大久保と彼が率いることになった政府を憎悪して夜ごと反政府の気勢を上げ、西郷を擁して再び上京し、大久保の手から政権を奪還する日の到来を待ち望む不平士族の集団と化してゆくのである。
大久保と衝突して政府を去ったとはいえ、反政府内乱を起こす気など毛頭なかった西郷は、無為徒食の危険な不平集団と化しつつある帰国軍人たちの現状を憂慮し、何とかして彼らに新たな目標を与え、誇りある職に就いて安定した生活を営ませる方策を見出さねばならない責任を感じていた。なぜなら、元々薩摩藩士だった彼らを東京に連れてゆき、陸軍士官や近衛兵に仕立て上げたのは外ならぬ西郷だったからである。彼らは西郷が政争に敗れて去った後の陸軍に残り、山県や大久保に仕えることを潔(いさぎよ)しとせず、どこまでも西郷と行動を共にする覚悟で職を擲(なげう)って帰ってきたのである。その彼らが危険な反政府・不平士族集団の傾向を強めてゆくのを黙って見過ごすことは、倒幕の大業を果たした伝説的な英雄として、おそらく日本史上最大の国民的人望を集める存在となっていた西郷には決して許されないことだったのである。
西郷が見出した答えが私学校の設立であった。彼が自らの賞典禄2000石を投じると県令の大山、陸軍少将の桐野がこれに続き、鹿児島の安定を誰よりも願って止まない大久保までが西郷に次ぐ1800石の賞典禄を寄進して明治7年(1874年)6月、私学校が開校する。だがそれは西郷の志や大久保の切なる期待に反して過激化する不平士族の軍事拠点と化し、彼らの暴走を制御しえなくなった西郷は彼らによって史上最大の反政府内乱の首謀者に担ぎ上げられてゆくのである。
西郷がこの運命に導かれてゆく直接のきっかけは明治4年(1871年)1月、勅使岩倉具視が鹿児島を訪れ、西郷の政府出仕と久光の上京を命じる勅命を伝えたことにある。病中の久光は藩主忠義を代理として西郷と共に上京させることを承知し、西郷は出仕の条件として政治改革を要求する意見書を提出した。それは当時の西郷の政治理念を表すものだった(詳細は「意見書」に見る西郷の政治資質を参照願いたい)。
ここで西郷は、政府の人員削減を主張し、急速な西洋化を戒めて「蒸気仕掛けの大業、鉄道作の類、一切廃止」を主張し、「兵制を充実する道を勤むべし」と、鉄道建設に反対し、軍備強化を重視する姿勢を表している。西郷は、政府の権限は「政度・紀律・賞罰・与奪等」に限定すべきであり、米価や金銀の相場あるいは商売等に口を挟むべきではない、という信念を持っていた。彼によれば、政府の急務とは何よりも軍事力の強化であり、それを背景として外国の理不尽な要求に屈しない毅然たる外交を展開することだったのである。それには西洋の優れた兵制、兵器の導入を必要とするのは当然だが、それ以外の不要不急の産物あるいは産業の導入に限りある国費を浪費し、盲目的な西洋崇拝に陥ることには断乎反対であり、そもそも政府が民間の産業に口を挟むこと自体が間違いなのであった。
そのような西郷の政治信念が「富国強兵」、「殖産興業」という維新政府が掲げた近代化政策と一致するのは「強兵」のみで、それ以外の資本主義化政策とはまったく相容れないものだった。革命の象徴であった西郷は、軍事を重視して経済を顧みず、官僚と商人の癒着を嫌悪し、盲目的な西洋化に断乎反対し、君臣の義と朋友の信を尊ぶ武士道の価値観を捨てることができない人物だったのである。西郷が死力を尽くして切り開いた明治の世に、彼自身が最も生きにくかったのはむしろ当然のことだったであろう。
西郷は岩倉が彼の意見書を全面的に受け入れる意思を表したことを機に上京の意思を固め、明治4年1月、岩倉、大久保と共に鹿児島を出て山口に入り、木戸を交えて会談を行い、薩長土3藩が供出する8千の兵を御親兵として東京に送り、新政府の軍事基盤とすることを決定する。西郷はこの兵力を背景として7月、廃藩置県を決行し、久光ただ一人を除く全藩主を威圧してクーデターを成功させる。それが革命派の軍事指揮官としての西郷の最後の晴れ姿となった。
同年11月12日、岩倉使節団は、西郷に後事を託して横浜を出港し、翌5年9月末までおよそ10か月半の予定で米欧諸国を歴訪する旅へと出発した。もし彼らがこの旅程通りに帰国していれば「明治六年政変」は発生せず、西郷は無事に政権を使節団に返還し、東京に留まって史上初の「元老」となるか、または鹿児島に帰って兎狩りと温泉の日々を満喫する隠居生活のどちらかがありえたかもしれない。そのどちらにせよ、おそらく西南戦争は避けられたであろう。
だが現実には、使節団が最初の訪問地アメリカで予定外の条約改正交渉に踏み込んだ結果、交渉は完全な失敗に終わり、8か月の時を空費して実に1年もの旅程延長を余儀なくされ、明治6年(1873年)9月、ようやく全員の帰国を果たすことになる。この使節団の「かくも長き不在」が1年10か月に及んだことが留守政府の総責任者である西郷を追い詰め、彼に朝鮮派遣使節を志願させ、その地でかねての戦死願望を叶える決意を固めさせることになるのである。
その西郷が留守政府の発足後、最初に直面した問題が直後の明治4年12月、島津久光が願い出た鹿児島県令への就任志願であった。これが久光の意に背いて廃藩置県を断行した西郷への露骨な嫌がらせであることは明白だった。そもそも廃藩置県とは、封建領主の領地であった藩を政府に返還させ、藩主を潘政の責任者である「知藩事」に任命した「版籍奉還」をさらに進め、知藩事を全員解任して政府が新たに任命・派遣する「県令」が県政を担当する体制に移すために発動したクーデターである。久光はそれを百も承知で、事実上の薩摩藩主であった彼を正式に県令に任命することを元家臣である西郷に求めた(久光の意識では「命じた」であっただろう)のである。これを認めれば他県に示しがつかず、廃藩置県そのものが崩壊しかねない一大事であった。
薩摩藩士の意識を捨てられない西郷は旧主の願いを斥ければ不忠の誹(そし)りを免れず、受け入れれば廃藩置県の成果が崩れ去るジレンマに苦慮し、久光の意を受けた鹿児島県参事の大山綱良が派遣した使者を説諭し、持参した建白書の提出を断念させる役割を三条太政大臣に依頼し、辛うじて事なきを得た。だが、これは始りに過ぎず、西郷一人を標的に定めた久光の執拗な攻撃は最終的に彼が東京への移住を決断する明治6年4月まで延々と繰り返されるのである。