西郷にとっての明治5年(1872年)は、生涯屈指の苦難の1年となった。その最大の原因は前年11月、岩倉、木戸、大久保の三巨頭が揃って米欧諸国回覧の旅に出た後の政府の舵取り役を引き受けたことにある。この大使節団を構想・推進した大久保は無私無欲の西郷ならば、その圧倒的な人望と巨大なカリスマによって留守中の政局を平穏に保ち、帰国後は権力に固執することなく、すんなりと政権を返還してくれるだろうと考えたのである。

 

だが大久保の甘い目論見(もくろみ)は、最初の訪問国アメリカであっけなく崩れ去る。サンフランシスコからワシントンまでの長い道中で受けたアメリカ市民の大歓迎を日本への特別の好意と誤解した使節団は予定外の条約改正交渉に踏み出して「大敗北」を喫し、8か月もの月日を空費したために当初の旅程を1年以上延長せざるを得ぬこととなる。そのツケは留守政府の首相格を務める西郷に回り、彼が使節団に代わって莫大な代償を支払う羽目になるのである。

 

最初に請求書を突きつけたのは西郷と大久保の旧主久光であった。彼は西郷や大久保らが発動した廃藩置県によって薩摩藩の領有権を奪われたことに激怒して政府の任命する県令の赴任を拒否し、自らを県令に任命せよ、と留守政府に要求したのである。これに対し西郷は革命政府の首相として、久光の反革命的、復古主義的要求を断乎拒否すべきであったと思われるが、武士道の徒である西郷には旧主久光の請願を拒否することは忍び難い思いがあった。それは革命政府の行政行為として正当であっても、主君に忠誠を尽くすべき家臣の身では、公然たる叛逆に外ならなかったのである。

 

その矛盾は本来、前年の廃藩置県によって消滅した筈であった。藩が廃絶されて政府の直轄する県となり、藩主は東京に移って天皇に仕える「華族」となって藩士との主従関係は解消され、武士は「士族」と名を改められて国家から家禄を支給される臣民となったのである。だが、ひとり島津久光のみはこれらの措置を歯牙にも懸けず、自らが鹿児島県令となって側近たちを県の要職に就け、事実上の薩摩藩政を継続する意思を鮮明にして、これに反対する逆臣の西郷を罷免するよう政府の名目上の代表者である三条太政大臣に要求したのである。それは旧藩主の近臣を県政から排除し、他県出身の官吏を県令に任命する政府の方針への正面からの挑戦に外ならなかった。

 

これによって西郷は、近代国家への疾走を開始した革命政府の首相として、彼の旧主である旧封建領主からの事実上の領地回復要求を拒絶すべき役割と、彼の思想と行動原理の核心を成す武士道の要求する主君への絶対的忠誠との矛盾という根源的な問題に直面することになったのである。

 

西郷は、久光といえども従わねばならぬ天皇の権威を借り、「西国巡幸」の名目で天皇を鹿児島に連れ出して久光との会見を演出したが、それは反って久光の怒りを掻き立てて事態を一層困難にする失敗に終わった。ちょうどその頃、東京で山城屋事件が発覚し、これに憤激した近衛兵の「沸騰」事件が発生したために西郷は、久光問題を暫く措き、陸軍の動揺を鎮めて山県を軍に留める工作に専念することを選択した。

 

だがそれは、時を同じくして発生した政府内部の大蔵省と各省との予算を巡る紛争と複雑に絡み合って、西郷の下した山県擁護の裁断の正当性を揺るがせる結果を招く。司法省の予算請求額を半減し、山県の陸軍省予算をほぼ全額認めた井上の露骨な藩閥優先主義に憤激した江藤は、西郷の裁断を無視する形で山城屋事件の徹底的調査を開始したのである。

 

西郷にとって、事の成り行きは極めて不本意であったに違いない。彼は日本国の事実上の首相として、どのような解決策を採ることが国家にとって最善の道であるかを熟慮した結果、その時点で最も国益を損じることの少ない方法を執ったのであり、その判断と結果に確乎たる自信を持っていたと思われる。ところが江藤はパリから届いた山城屋の豪遊情報を機として、山県と山城屋の罪状を明らかにすることを決意したのである。江藤はたとえ陸軍中将であろうとも法の裁きから逃れることはできない、という法の前の平等原則を盾にしたのだが、その裏には山県の汚職を追及して井上に打撃を与える欲求が潜んでいる、と見る者が少なからずいたであろう。

 

江藤の信じる法の前の平等とか、法の支配という観念を西郷がどのように受け止めたかはよくわからない。だが、現在価値に換算して約200億円といわれる巨額の陸軍資金を無担保で山城屋に貸し付けた形を取ったものの、その実態は陸軍が保有していた15万ドルの銀貨の価値下落をカバーするための「運用」を山城屋に依頼し、彼がその資金を生糸相場に投入して失敗したことが発端だったことを考えれば、疑惑の徹底的究明を志した江藤の法治主義は極めて正当であり、この部分についての山県の責任を問わなかった西郷の法意識は、近代国家の司法制度を確立しなければならぬと考える江藤のそれとはまったく相容れない、西郷の主観に基づく極めて人治主義的な裁断だったのである。

 

西郷はまた、官僚たちが近代化への課題を克服するための国家予算を編成する過程で大蔵省が直面した国家財政の限界に対し、各省が提出した予算の請求額が過大である、と判定したことから発生した省庁間の対立をいかに調整するかといった問題や、大蔵省の予算査定には露骨な藩閥優先主義による明らかな不公平があり、これを各省に受け入れ可能なものに是正しなければならない、という実務的な問題に対しても、適切な答えを出しえなかった。それは行政経験の乏しい西郷の能くするところではなかったのである。

 

こうして官僚の汚職疑惑や予算査定の妥当性への疑問から発生した政府内部の対立に、西郷が近代国家への移行を目指す新興国家の指導者として適切かつ合法的な処断を下したとは言い難く、山県の軍政家としての卓抜な能力を失わないために、彼が重視する「道義」の観点からもかなり疑わしい判断を下した西郷は、江藤の山県追及が厳しさを増す状況に、中立かつ公正な調停者として解決に乗り出す名分を失い、ただ傍観するしかない立場に追い込まれてゆく。そして西郷は、最終的にこの問題から手を引いて久光との対面を果たすことによって、もう一つの行き詰った難問の答を見つけ出すことを選択するのである。