明治5年(1872年)10月14日、新橋駅頭で行われた鉄道開業式に出席し、大隈と同じ車両に乗り合わせて横浜へと出発した西郷の胸中には、この日の到来を阻止しえなかった敗北感と共に、これからは大蔵省に巣くう官僚たちが国家の資金、あるいは外国からの借款を投入して、あらゆる資材を輸入し、外国人技術者を呼び寄せて、このような大事業を続々と計画、実行し、「殖産興業」の名の下に商人たちの事業を強力に支援する時代が始まるのだ、という予感に包まれていたであろう。それは、民間の商売に口を挟むのは政府の為すべきことではない、と固く信じる西郷にとって、元は武士であった官僚と商人が手を取り合って西洋式の新事業に国費を傾け、彼らの利益を最大化する「商人国家」へと日本を変えようとする企みに外ならなかったのである。
とはいえ西郷は、西洋の制度や機械文明の価値を一切認めない狭量の人物であったわけではなく、軍人としての彼は西洋諸国の陸海軍の優秀性を率直に認め、彼らに学んで古めかしい武士の戦法を一新し、西洋諸国と対峙しうる陸海軍を一日も早く創設することを政府の最重要課題と位置付ける軍事優先論者であり、限りある国富を電信や鉄道など有用性の疑わしい事業に投入する愚を中止し、軍備強化に充分な予算を注ぎ込むべきだと主張したが力及ばず、日本初の鉄道建設に賭ける大隈の執念の前に一敗地に塗れたのであった。
しかし、政府の若手官僚たちは、迷うことなく資本主義化、近代化への道を突き進んでいった。それはまったく当然のことである。明治4年(1871年)7月、外でもない西郷が主導した廃藩置県によって一夜にして260もの藩が全廃され、それまで諸藩が個別に領地領民を統治してきた制度を廃し、唯一の合法政府となった維新政府が全国を直接統治する体制に転換したことを機に、各省は一斉に全国民を対象とする新制度、新政策を打ち出す必要に迫られることになった。その際に、彼らが範とすべきモデルは西洋諸国が経験してきた近代化政策以外にありえないことは誰の目にも明らかだったのである。
大蔵省はまず、諸藩の徴収していた年貢を直接政府に納めさせる制度の構築に取り掛かった。それが「地租改正」と呼ばれる作業である。それは諸藩に年貢を納めている者、実際に田畑を耕作する者の調査から始められた。江戸時代の土地所有権は藩主、名主、百姓の間で曖昧だったので、土地ごとに所有者を確定させる必要があったのだ。明治4年(1871年)12月、政府は年貢を負担していた者、実際に耕作している者を所有者に認定し、土地の位置・面積・地価、所有者名を記載した「地券」を発行した。これによって土地は売買可能な私有財産となり、所有権が公認されて近代的な土地所有が成立する。続いて明治5年(1872年)から全国的に土地調査を開始して所有関係を確定し、各地で地価の試算を始めた。それ以後は、年ごとの収穫物を藩主と百姓が分け合うのではなく、土地の地価を定め、一定の税率(それは当初3%と決定された)を設定して所有者である農民から政府が「地租」と名づけた土地税を太政官札で徴収するのである。農民は自己の所有物となった農地を売却することはもちろん、自己の裁量で何をどれだけ植えるかを自由に決められることとなった。
大蔵省はこの段階で史上初の翌6年度(1873年)国家予算を編成することになったが、地租改正が緒に就いたばかりで依然として主力は「旧来の年貢」であった。このため財政は極めて苦しく、不足分は太政官札の増刷・発行による他ない実情であった。それはインフレを招く危険な劇薬であるゆえに、大蔵省は各省に対し、緊縮予算を強く要求せざるを得なかったが、諸藩の分国制度を廃し、全国一律の制度をすぐにも公布しなければ政務自体が成り立たない事情は各省共通で、予算の膨張は不可避であった。文部省は封建制下の藩校や寺子屋それに私塾に代わる小学校を全国に建設しなければならず、司法省は同様に裁判所を設置しなければ、政務そのものが始まらないのである。かくて大蔵省と各省の予算配分を巡る激突は不可避となる。西郷は、この事態をどのように見ていたのだろうか?
西郷は、諸勢力の利害が複雑に絡み合い、尋常の手段では解決困難となった諸問題を、軍事力の発動によって一挙に解決する卓越した手腕を示して革命のクライマックスというべき廃藩置県クーデターを成功させたのだが、その代償として、彼の率いる留守政府は、武士道に代表される日本独自の倫理や価値観と西洋の思想や制度との調和を図る漸進主義的改革を進める時間的余裕を失って、封建的分国制度を全廃し、中央集権的統一制度へと一挙に転換する必要に迫られたのである。各省は迷うことなく西洋諸国の例に倣って各々の担当領域において画期的な近代化政策を立案し、予算案を作成する。そして大蔵省は財政困難を理由に各省に緊縮方針を告げ、両者は厳しい対立関係に陥ることとなる。
問題は、事実上の首相であった西郷が、この予算配分を巡る政府内の対立を解消するために何らかの指導力を発揮した形跡がほとんど窺えないことにある。井上大蔵大輔と江藤司法卿との対立が長州閥対佐賀閥の藩閥抗争の様相を呈する頃、井上と彼の同郷の友である山県の汚職が発覚し、江藤が井上と山県の疑惑を徹底的に捜査して二人を失脚させようと謀る泥沼の権力闘争に落ちてゆくのだが、このような権力を笠に着た官僚の腐敗汚職や藩閥抗争を嫌う西郷は、事態がここまで醜悪な様相を見せ始めた明治5年(1872年)11月、旧主久光の呼び出しを受け入れて鹿児島に帰郷してしまうのである。
予算を巡る政府内対立は、財政均衡を守りたい大蔵省と中央集権体制下の制度設計を急ぐ各省の財政需要の衝突が惹き起こした不可避の問題であって、誰かが調停に乗り出さねばならないのだが、西郷にはその気も、誰かに代行させる気もなかったようである。それはなぜか、西郷は今や留守政府を挙げて進めてゆく形勢となった近代化政策をどう受け止めていたのか、西郷の謎は翌6年の政変に向けてさらに深まってゆくのである。