明治5年(1872年)11月、西郷は久光の要求を容れて鹿児島に帰郷し、彼と対面することを決断したが、それによって自分に向けられた旧主の怒りと憎しみが幾分なりとも静まり、今は鹿児島県となった旧薩摩藩の支配権を諦め、東京への移住が受け入れられる可能性はほとんどないことを覚悟せざるをえなかったに違いない。久光の望みはただ一つ鎌倉以来数百年に及ぶ薩摩藩77万石の政治権力を維持することにあったのだが、この段階ではそれはほとんど実現不能となったことを彼としても認めざるをえなかったと思われる。そうなると、家臣の身で主君をないがしろにして首相となり、主家の領地を取り上げようとする逆臣西郷への怒りと憎しみは爆発点に達し、何としても彼を自分の面前に召し出し、積もり積もった鬱憤を叩きつけねば収まらない心情に立ち至ったのだと推察される。
西郷は彼への憎悪と怨念に燃え上がった久光に何らの反論も弁明も試みることなく彼の罵言に耐え、命じられるままに謝罪状を提出し、ひたすらに恭順の意を示して怒りの静まる時を待とうとした。だが久光は軟化の姿勢を示さず、西郷もまた何の成果もえられぬまま、すごすごと東京に帰るわけにはいかないと考えたか、以後翌明治6年(1873年)4月まで双方が膠着状態を保ったまま、西郷は5か月に及ぶ鹿児島滞在を余儀なくされる。その間、西郷には彼の半生を賭けた革命とは何だったのか、と思いを巡らせる時間がおそらく嫌というほどあっただろう。
西郷は明治元年(1868年)9月、戊辰戦争が会津藩の降伏により官軍勝利の裡に終結したことをもって軍人としての役目を終え、郷里で隠居の余生を送ろうと考えたようである。だが、時代は彼の隠遁を許さず、初めは薩摩藩政に、次いで政府に彼を引き出して廃藩置県を断行させ、木戸や大久保らが岩倉使節団に加わって出発した後の留守政府の首相の役割を負わせることとなった。彼の政治思想が問われるのは、それからのことである。
西郷は、幕府からの政権交代を実現し、廃藩置県によって中央集権体制を確立した後の政府はそれ以上の急激な変革を避け、幕府から受け継ぐべきもの、西洋から学ぶべきものの見極めをつけ、時間を掛けて双方の長所が生きる国家のあり方を検討すべきである、と考えたようである。だが一夜にして藩を全廃し、一挙に中央集権体制に移行した政府は否応なく旧幕時代の法制度を廃し、大急ぎで新体制にふさわしい新たな制度設計を進めねばならず、府県裁判所の設置、田畑永代売買の解禁、学制の頒布、地租改正の布告、太陽暦の採用、徴兵告諭等の革命政策を続々と打ち出し、国家事業としての新橋横浜間の鉄道建設、電信の開設等を進めてゆく。
この過程で西郷は、近代化に潜む日本人の精神の危機を強く意識していったようである。彼は維新政府の首相格とはいえ、その本質は儒教と武士道の倫理に忠実な薩摩武士であった。彼は、自らが断行した廃藩置県が必然的に封建制の残滓を一掃し、新時代を切り開くための大胆な改革を必要とする事情を理解しながらも、維新政府が日本独自の倫理や価値観さらには美意識を尊重した政治を展開することを期待していたであろうと思われる。
だが、やがて西郷は、45歳の彼より一回りも若い30代前半の大隈や井上らの革命第二世代というべき経済官僚たちが、滅びゆく武家の倫理に縛られるよりも天皇の官僚として行き詰った旧幕時代の制度を一新し、世界の標準を形成する西洋諸国の知恵と経験に学んでその成果を積極的に導入し、日本国家のあり方を根底から変革してゆこうとする姿を目の当たりにすることになる。
その先陣を切る役割を果たしたのが大隈重信だったことは衆目の一致するところだろう。彼は贋金が横行し、政府発行の「太政官札」という不換紙幣の価値が下落するなど混乱を極めた明治初期の通貨危機をすばやく収拾し、幕府の複雑な貨幣制度を改めて円を単位とする10進法の貨幣制度を採用し、政府の財政基盤を確立することに貢献した有能な経済官僚であったが、西郷は築地に広壮な屋敷を構え、「梁山泊」と号して夜ごと井上、伊藤らの部下を集めて酒宴を開き、国政を論じて大言壮語する彼を「節義廉恥の志操」すなわち節度・義理・廉潔・恥を知る心を欠く者として嫌悪すること甚だしかったという。
西郷は、この大隈が巨額の外債を募って開始した新橋横浜間の鉄道建設事業に強く反対し、現在の田町・品川間に薩摩藩や兵部省が保有していた土地の買収はおろか測量の為の立ち入りすら拒否する徹底的な妨害工作を展開した。窮した大隈は陸上のレール敷設を諦め、海岸線に沿って浅瀬を埋め立てて土手を築き、その上にレールを敷く奇策を採用して明治5年(1872年)9月、ようやく工事を完成し、開業式当日、西郷と同じ客車に乗り合わせて横浜まで約1時間の試乗体験を共有することになった。
西郷にとってこの事業は、巨額・高利の外債によって西洋文明の象徴たる蒸気機関車の牽引する列車を走らせ、虚栄心を満たそうとする無益な浪費にすぎなかったようである。今の日本に是非とも導入しなければならない西洋の製品や技術とはこのようなものではなく、国家を守るために不可欠の軍艦や大砲でなければならない筈だ、と不満を禁じえない思いを抱いていたであろう。
だが、西郷の思いとはうらはらに、この日本初の鉄道事業は、開業翌年の1873年(明治6年)、乗客数1日平均4347人、年間の旅客収入42万円(1万円=約1億円として現在価値に換算すれば約42億円)と貨物収入2万円(同2億円)、そこから直接経費の23万円(同23億円)を差し引いて21万円(21億円)の利益を挙げて「鉄道は儲かる」という認識を広め、以後続々と新線の建設計画が進められることとなった。
この結末は西郷の心中に苦い敗北感を刻みこんだであろう。黒い鋼鉄の塊のような蒸気機関車が石炭の燃える黒い煙と白い蒸気を吐き、満員の乗客を乗せた車両を牽引して新橋から横浜までを1時間足らずで駆け抜ける情景が日本国民に与えた衝撃は、まさに古今未曽有という外ないものだったであろう、と私は想像するのである。それは何よりも雄弁に産業革命を経た西洋諸国の近代重工業が製造し、運営する鉄道事業というものが持つ壮大な輸送力、想像を絶する速度、都市間交通の根本的変化を人々に見せつけるものであったに違いない。こうなっては、もはや鉄道のない時代に戻ることはありえず、西洋文明の侵略を危惧する自分の警告が人々の耳に響くことは望むべくもないだろう、と西郷は観念せざるをえなかったであろう。