明治元年(1868年)12月、新政府を樹立して近代国家への歩みを始めた日本と、仏・米軍の侵略を徹底的反攻によって斥け、鎖国攘夷を貫いた朝鮮との間に発生した紛争は、5年後の明治6年(1873年)、朝鮮当局が日本を「無法之国」と断罪する掲示を日本公館前に出したことを機に日本政府内の反韓感情を沸点に押し上げることとなった。閣議では板垣が即時出兵論を主張し、大方の参議が同調して大勢を占める情勢となったが、西郷はこれに反対し、まず使節を派遣し、公理公道をもって談判すべきであり、その任には自分が当たりたいと主張して議論を振り出しに戻した。革命の象徴として圧倒的なカリスマを保持する西郷に使節志願の決意を告げられては、板垣といえども出兵論を押し通すわけにはいかなかったと思われる。閣議は北京出張中の副島外務卿の帰国を待って審議を再開することを決めて散会し、西郷は彼以外に一人の賛同者もいない使節派遣論をいかにして閣議決定に持ち込むかを熟慮する貴重な時間を稼ぐことができた。
西郷は次回の閣議に備え、参議たちの勢力図をじっくりと見返したであろう。出兵論の主唱者である板垣に同じ土佐閥の後藤が付くのは当然として、佐賀閥の大隈、大木、江藤はどう動くか。西郷は、非参議の副島が鍵を握ると考えた。彼は外交を主管する外務省の面目にかけて使節の任務を西郷に譲ることに抵抗し、出兵論に与するか、あるいは彼自らが使節に立つと主張するだろう。それでは西郷の勝ち目はないのだから、何としてもまず彼を説得して使節派遣に同意させねばならなかった。そうすれば副島の盟友である江藤も同調するだろう。大隈は西郷の最も強力な政敵だが、財政を重視する彼は戦争より使節を派遣して外交的解決を目指す道を選ぶだろう。大木は元々朝鮮問題に関心が薄く、佐賀閥の大勢に従うに違いない。西郷はそのように考えたのではないかと私は思うのである。
しかし、何といっても最大の難関は板垣である。彼の即時出兵論は、書契事件以来日本人の胸に燻る反韓感情を呼び覚まし、鎖国攘夷を固守する朝鮮に一撃を与えて中国的世界観の呪縛を解き、開国を促すことこそ日本の責務であり、国益に敵う措置であると考える「征韓派」の圧倒的な支持を得ている。彼を味方につけなければ、全員一致の閣議決定を受け、天皇の裁可を得た特命全権使節の資格をもって朝鮮に渡り、国家の名誉と尊厳を賭けた交渉に臨み、「公理公道」をもって談判に及ぶ、という西郷の目的が達成されることはないのであった。
では、いかなるロジックをもって板垣を説得し、即時出兵論を捨てて使節派遣論への転向を促すか、考えた末の結論が「使節暴殺論」であった、と私は考えるのである。
西郷の見るところ板垣の出兵論は、それを正当化するに足る「名分」を欠いていた。日本公館前に日本を「無法之国」と侮蔑する掲示を出した程度のことを理由とする派兵では、朝鮮側は断乎として撤兵を要求し、日本がこれを拒否して軍事衝突に発展した場合、邦人保護の趣旨は叶え難く、以後の両国関係にも重大な障碍を生むことになるであろう。板垣には、出兵の理由として申し分なく、討つべき日本の正当な怒りを掻き立て、討たれる朝鮮が服す外ない確乎たる名分を立てることが必要な筈だ。西郷はそう考えて明治6年(1873年)7月29日、板垣宛の手紙を書き始めた。
それは副島帰国の翌日、7月28日に開催され、西郷が病気のため欠席した閣議の内容を問い合わせ、出兵論の弱点を説き、それよりは使節派遣の方がよくはないか、と板垣を説得するものだった。西郷が力点を置いたのは、はたして出兵に充分な「名分」があるのか、ということだった。
日本が出兵すれば、朝鮮は必ず撤兵を要求し、これを拒否すれば戦端が開かれることになる。それは当初の「居留民保護」の趣旨に反するばかりか、今後の両国関係に障碍を生み出すであろう。それよりは使節派遣の方がよくはないか。そうすれば「相手が暴挙に及ぶことは目に見えている」のだから、「朝鮮討つべし、の名分は必ず立つことと存ずる」と西郷は断定した。
西郷は、戦争には確かな「名分」が絶対に必要だ、と考える戦略家だった。それなくしては個々の戦闘で勝利を収めても、停戦交渉での勝利は覚束ない、と彼は考えるのだ。板垣の出兵論は、その点が致命的に弱いと彼は主張し、それよりは「使節を派遣すれば必ず暴殺すると察せられるのだから、何卒私を遣わしてもらいたい」と懇願し、最後に「副島君のような立派な使節は務まらないが、死ぬくらいの事はできるだろうから、よろしくお願いしたい」と有名な一文を記して手紙を書き終えた。
ここで西郷は、「暴殺は致すべき儀」、暴殺はするに決まった事だと断定し、死を前提とした使節であることを明言している。この裏を読むことは無意味だと私は思う。
板垣はこの手紙に返事を出さなかった。おそらく彼は驚愕、惑乱し、西郷の真意を測りかねたであろう。
次いで西郷は8月上旬、副島の説得に取り掛かった。外務卿の彼から不承不承のではなく、心からの了解を得ておくことが西郷には絶対に必要であったに違いない。副島は予想通り、外務卿の自分が問題解決に当たりたい、と主張して説得は困難を極めたが、最後に副島が折れ、問題解決の役目を西郷に譲ることに同意した。同じ頃、西郷は三条太政大臣にも使節就任の希望を伝えたようである。
そして8月13日、閣議が開かれ、この席で西郷は初めて朝鮮派遣使節への就任を正式に願い出た。だが、板垣以下三条を含む出席者たちは、やはり西郷の真意を測りかね、どう反応してよいものか迷ったようである。それは無理もないことだったであろう。出席者たちは、そもそもなぜ外務卿でもない西郷が命懸けの朝鮮使節に立たねばならないのか、もしも西郷の身に危険が迫ればそれこそ一大事ではないか、そして現地情勢はそれほど緊迫しているのか、と戸惑うばかりで、西郷の熱意は空回りを免れなかったようである。
この結果に西郷は焦りを募らせ、翌8月14日付で板垣宛になお一層の協力を要請する手紙を書いている。それは「(西郷を)死なせては可哀想だなどと姑息の心を起こされては何事も叶わない」し、「(死ぬには)前後の差別あるのみ」先に死ぬか、後に死ぬかの違いがあるだけだ、と死を覚悟したかのような思い詰めた心情を吐露するものであった。西郷はこの時期、ほとんど死神の腕に捕らわれたような心境だったのではないだろうか。