前回取り上げた『南洲翁遺訓』とは、西郷の死後12年を経た明治22年(1889年)、大日本帝国憲法制定に際して大赦が行われ、西南戦争を起こした西郷の名誉が回復されたことを機に翌23年(1890年)に刊行された書物で、生前の西郷に面会した庄内藩の士族が彼の言葉を聞き書きしたものである。その第8条に西郷は、西洋諸国の制度を導入するのは、日本の「国の本体」を定め、徳をもって風俗を整え、民を教化して、それらの長所を冷静に見極められるようになった後にすべきだとする慎重な姿勢を示し、当時の大プロジェクトであった電信や鉄道建設に対し、以下のような警告を発している。
「耳目を開發せんとて、電信を懸け、鐵道を敷き、蒸氣仕掛けの器械を造立し、人の耳目を聳動すれ共、何に故電信鐵道の無くては叶はぬぞ缺くべからざるものぞと云ふ處に目を注がず、猥りに外國の盛大を羨み、利害得失を論ぜず、家屋の構造より玩弄物に至る迄、一々外國を仰ぎ、奢侈の風を長じ、財用を浪費せば、國力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本身代限りの外有る間敷也」(『遺訓』第10条)
西郷の言わんとするところは、「見聞を広めるとして電信を懸け、鉄道を敷設し、蒸気機関車を製造(実際は「輸入」なのだが)して人の耳目を驚かせたところで、なぜ電信や鉄道がなくてはならぬのか、また欠くことができぬのかという処に目を向けず、闇雲に外国の繁栄を羨み、利害得失を問題とせず、建築から玩具に至るまで一々外国を仰ぎ見て贅沢を助長し、資産を浪費すれば、国力は疲弊し、人心は軽佻浮薄になり、結局日本は財政破綻に陥る外ないだろう」ということである。
西郷にとっての電信や鉄道とは、ただ西洋文明を賛美し、その最新にして巨大な産物を導入して世人の「耳目を聳動させる」ために巨額の国費を浪費する無益の事業であり、国家財政の破綻を招く愚行以外の何物でもないのであった。彼は、このような危機感の下に大隈重信が心血を注いだ新橋横浜間の鉄道建設を目の敵として徹底的に妨害した。
たしかに大隈は、鉄道建設の意義を広く国民に訴え、世論の支持を集めて着手したわけではなく、伊藤博文や渋沢栄一などの見聞から直感的に鉄道こそが近代国家への扉を開き、あらゆる産業の基盤となりうる事業である、との確信を抱き、軍備優先を主張する兵部省等の反対を押し切って強引に進めてきたのであった。彼は、西郷の意を受けた兵部省や薩摩藩が建設予定地に所有する敷地の買収はもちろん、測量のための立ち入りすらも厳に拒絶する徹底的な妨害にも屈せず、陸が駄目なら海岸線沿いの海上に土手を築いてその上にレールを敷けばいい、という奇策を採用し、現在のJR田町駅から品川駅まで約2.7キロの「高輪築堤」を築く勝負に出て、西郷の妨害を跳ね除けたのである。こうして開通した日本初の鉄道は、「資産の浪費」どころか、初年度から黒字を計上し、日本の産業発展を支える不可欠の資産となるのである。
大隈は、西郷とは対照的に、政府が直面する財政、通貨、税収、産業、金融等、多岐に渡る経済の諸問題を解決し、国家の経済基盤を確立するには拙速や失敗を恐れず、その場、その時点でベストと考えられる方法を一つずつ果断に実行するしかない、と考える人物だったようである。彼は、明治元年(1868年)12月、現在の外務次官に相当する外国官副知事に任命されたことから維新政府の財政に関与し、1881年の「明治14年の政変」で政府を追われるまで13年に亘って国家財政の中枢を担うことになった。
明治元年(1868年)1月に発足したばかりの維新政府は、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に逃げ帰った慶喜追討に向かう官軍を派遣する資金にも事欠く状態で、会計官御用掛の由利公正は近畿の富豪から会計御基立金として300万両を借り入れ、さらに「太政官札」という名の3000万両もの不換紙幣を発行して戊辰戦争の戦費に充てる決断を下す。それは最終的に4800万両、現在価値に換算して、ざっと5兆円は下らない巨額に膨らんでインフレを誘発し、さらに贋札が横行して信用が地に落ち、額面の半値以下でしか取引が成立しない状態にまで価値が下落する。
さらにその頃、旧幕府や戊辰戦争の戦費に窮した多くの諸藩が鋳造した贋金が市中に出回り、本物と偽物の区別がつかない外国商人が多額の損失を被る事件が続発し、憤激した英公使パークスが賠償を求めて強硬な談判に及ぶ外交問題に発展した。対外交渉の経験に乏しい由利は明治2年(1869年)2月に辞任、大隈が後任に就いたことから現在に続く日本独自の貨幣制度への歩みが始まるのである。
大隈は、問題の根本的な解決には旧幕府の貨幣の鋳造・流通を禁止して政府が新たな貨幣を鋳造し、これと兌換が可能な新紙幣を印刷、流通させて太政官札と交換する形で回収する外ない、と正しく認識したようである。だが問題は、日本には貨幣鋳造の需要を満たすだけの金がない、ということであった。そこで彼はまず太政官札の印刷に高度な機械を使用して偽造を防ぐ一方、東京、大阪で発行していた粗悪な貨幣の鋳造を中止し、旧金座・銀座を受け継いだ部局を閉鎖、職員を免職し、悪質な者を逮捕した。その上で諸藩に対し、これまでの罪を問わない代わりに今後の流通を一切禁止する布告を出して贋金の禍根を断つ硬軟両様の策を執った。
さらに大隈は明治3年(1870年)、最新の印刷設備を持つドイツの会社に太政官札に代わる「明治通宝」の印刷を発注すると共に大阪に造幣寮を建設、香港から最新式の鋳造機を輸入して4年(1871年)3月より、「円」を単位として10進法に基づく金・銀・銅貨の鋳造を開始、12月から万延二分判、一分銀、寛永通宝などとの交換が実施された。そして5年(1872年)4月、ドイツから届いた明治通宝の発行が開始されると国民はこれを「ゲルマン札」と呼んで歓迎し、太政官札や旧藩の発行した藩札は順次これに交換されていった。政府は不換紙幣である太政官札を同じく不換紙幣である明治通宝に交換することによって、金銀の保有量を減らすことなく紙幣が流通する経済への移行を果たしてゆくのである。
大隈の通貨改革は、明治6年(1873年)の段階ではここまでだが、この時点で西郷が表明した急速かつ過剰な西洋化への懸念と、大隈の採用した実利・実用重視の即決主義的対応を比べて見ると、両者の資質の違いがよく分かる。西郷は、日本が未だ革命後の「国の本体」を定めるに至らぬ内に西洋の制度や電信、鉄道から建築物や幼児の玩具に至るまで熱に浮かされたような西洋崇拝にとり憑かれていることに深刻な憂慮を示すのだが、大隈は封建制の遺制をただちに廃し、一日も早く通貨問題を解決し、通信と移動そして輸送のボトルネックを解消しなければ、「殖産興業」すなわち近代産業の発展は、その緒に就くことさえできない、と考えるのであった。この二人の間に穿たれた溝は余りに広く深かったのである。