明治4年(1871年)11月、岩倉使節団出発の後を受けて留守政府の首相格となった西郷を苦しめた二つの問題の内、久光の上京は明治6年(1873年)4月末に実現した。彼は髷を結い、大小の刀を差して武士の正装に身を固めた250人もの供を引き連れて東京の街を行進する一大デモンストレーションを敢行して東京市民を驚かせ、全国の守旧派の喝采を浴びた。彼の下には鹿児島はもちろん、熊本や佐賀など他藩の士族が駆け付け、多くの建白書が届けられたという。
この事態を予期していた西郷は千葉方面で天皇を擁する近衛兵の大演習を実施してこれに対抗した。天皇を演習地に連れ出して守護し、東京に何らかの異変が起きれば戦闘態勢を整えた部隊を東京に急派して叛徒を鎮圧する万全の態勢を執ったのである。篠つく雨の中、西郷が天皇の幕営の前に「佇立徹宵(立ったまま夜を明かす)」して守護したと伝わるのはこの時のことである。以後、久光の強硬姿勢は失速し、1か月後、彼の下に結集して旧体制の復活を夢見ていた随行の鹿児島士族たちは失望を露わにし、悄然として東京を去っていった。この一連の出来事は、久光の支配する旧薩摩藩の反政府勢力への西郷の警戒心が極めて正当であったことを世に示した。薩摩人の彼はその危険を早くから察知して久光の暴発を防ぐためにあらゆる手段を尽くし、彼の上京に際し最大限の防御策を実行して危険を未然に防いだのである。
一方で、西郷が鹿児島へ去った明治5年末以来の政府の混乱も終息に向かいつつあった。文部、司法に加え、工部省との対立まで抱え込んだ井上は5年12月より長期欠勤して執務を放棄し、大蔵省は機能停止状態に陥った。すると翌6年1月、今度は江藤司法卿が辞表を提出、これに衝撃を受けた三条は辞表を却下し、予算の再検討に着手することを決定した。そして4月、政府は帰京した西郷を加えてそれまで曖昧だった太政大臣、左右大臣、参議、各省の卿や大輔の役割、責任、権限の明確化を図ることとした。
政府はまず、土佐の後藤象二郎、佐賀の江藤新平、大木喬任の3名を参議に登用、西郷、板垣、大隈と併せて6名の体制とし、次いで5月2日、立法、行政および司法の一部を含む、ほとんどすべての国政権限を新設の「内閣」に集中させ、その「議官」には参議を兼任させることとした。こうして「内閣議官」となった参議たちは「閣議」を開催して国政を審議し、その決定事項を太政大臣が天皇に上奏し、裁可を得ることをもって正式決定とする体制を確立し、これまで独立的に政務を執行してきた各省は参議の指揮命令権に服することとした。これにより、「参議の地位と権限が飛躍的に強められ、国家統治の実権は事実上参議の手に集中するかたちとなった」(毛利敏彦著『明治六年政変』)。予算編成権を失った大蔵省の権限は大幅に削減され、参議に登用されなかった井上は財政の主導権を失ったことに落胆して辞表を提出、やがて政府を去るのである。
西郷は、明治4年(1871年)11月の留守政府発足以来、最大の努力を傾けてきた久光の暴走抑止、重大な汚職事件を惹き起こした山県の救済、そして彼の辞職を求めて沸騰した近衛兵の暴発抑止に専念し、ようやく成功を収めたが、井上や山県の汚職追及と財政の主導権争いを絡めた佐賀と長州の激烈な権力闘争の解決にはほとんど為す術を持たない限界を現すこととなった。それは結局、留守政府と岩倉使節団との間で交わした約定書に反して登用した3名の新任参議を含む6名の参議が政策の決定権を独占する「参議独裁制」を確立し、政争に敗れた井上を辞職させて長州閥を壊滅に追い込む形で決着したのである。だが、まもなく帰国する岩倉に長州閥の木戸、伊藤そして大久保を加えた岩倉使節団のメンバーたちは、やがて勃発する「明治六年政変」に際し、内治優先派を結成し、板垣、江藤、後藤それに西郷、副島を交えた征韓派と激突する構図を形成することになるのである。
そのような激動の政局が待ち構えているとは知る由もない大久保は、明治6年(1873年)5月26日に横浜に到着し、西郷との面会の機会を得た。西郷は、出発時の約束通り大久保の帰国を機に辞職したいと申し出たが、それは「富国強兵」を旗印に近代化政策を押し進める決意を固めて帰国した大久保には到底受け入れられない要望であった。軍事の最高権威であり、士族層の圧倒的信望を集める西郷の存在なくして「強兵」の目的達成はありえず、ここで西郷に去られては、せっかく抑え込んだ士族の不満がいつ何時爆発し、政権の求心力が低下するかも測り難いのであった。大久保は懸命に西郷を慰留し、ようやく彼を翻意させることに成功した。
だが大久保は、彼をベルリンから呼び戻す理由となった政治問題の多くがすでに解決済みか、またはその見込みが立ち、彼の出る幕がなくなった現実を思い知らされる。西郷と久光は上京を果たし、政府の内紛は井上の辞職と江藤ら3名の参議登用によって終結し、台湾事件の解決には副島外務卿が北京へ出張中であった。それではいかに三条の帰国命令を受けたとはいえ、ようやく新体制を整えたばかりの政府に大久保ほどの大物を迎え入れることは難しかったであろう。アメリカで外交無知を露呈して大失敗を犯した責任を痛感する大久保は、留守政府との摩擦を回避し、使節団全員が帰国する秋を待つことにして東京を離れ、ひとり関西に去っていった。
こうして政府に留まった西郷は、革命後の日本への深い危惧の念を抱いていた。それはあまりにも西洋崇拝の度が過ぎ、その制度・文物を過剰かつ無批判に導入しすぎていないか、ということである。本来、その前に「我が国の本体を据ゑ風教を張り、然して後徐かに彼の長所を斟酌する」べきなのである。まず自国のあり方をしっかり定め、それを国民に説き聞かせる体制を整えた上で、それに益する他国の長所をじっくり検討して取り入れることが肝要だということである。
「国の本体」とは、他国に学びようのない、その国固有の倫理・価値の体系である。これに益するかしないかをよく確かめた上で「物事」を導入するのでなければ、「国体は衰頽し、風教は萎靡して匡救す可からず」国体は衰え、徳も廃れて、救いようがなくなってしまい、「終に彼の制を受くるに至らんとす」しまいに欧米の支配を受けることになってしまうのだ(以上、『南洲翁遺訓』第8条より)。
確かにそれは正当な危機感というものである。初めて見る西洋近代の産物の壮麗美妙に圧倒され、熱狂的かつ無批判に受け入れようとする軽薄を戒め、果たしてそれらが「国の本体」に資する「長所」を蔵する物であるかないかをよく見極めねばならぬ、という主張は、当時の日本人への貴重な警告というべきであっただろう。だが、そこには近代文明が持つ世界に共通する「普遍的な価値」への理解が欠けているとも感じられるのである。西郷が「国体」と「風教」に合う物のみを厳選して諸外国の「長所」を見極めようとする時、こぼれ落ちる物があまりに多すぎ、スピード感に欠けるのではないかということであった。