明治5年(1872年)11月、旧主久光から再三に亘って帰国を求められていた西郷はついに意を決し、問題の山積する政府を離れてひとり鹿児島へ向かった。彼への積年の憎悪と怨恨に燃え上がった旧主が復讐の機会を待ち望んでいることを承知の上で、これ以上問題を長引かせては、政府の決定を従順に受け入れた他藩の藩主たちに示しがつかず、政府を代表する立場の西郷と、革命に最大の貢献を果たしたと自他共に認める旧薩摩藩の最高権力者であった久光の間に深刻な不和が生じている事実を世間に知らしめ、不平士族の反抗を誘発する危険を意識したものと思われる。西郷は、旧主の面前では首相格の権威を脇に置き、一家臣の礼を尽くしてこれまでの無礼を詫び、東京への移住を(こいねが)う覚悟を決めたのである。

 

このこと自体は、西郷と同様に、家臣の身でありながら主君を藩主の座から退(しりぞ)ける廃藩置県を断行したことを負い目とする官僚たちには、やむを得ぬ当然の配慮として受け止められたであろう。何といっても薩摩藩は倒幕戦争に最大の武力を提供し、維新の「勲功第一」を朝廷に称される功績を挙げたにも関わらず、最高権力者の久光は大久保らによって不遇のまま捨て置かれた上に、今や薩摩藩77万石をそっくり返上せよと命じられているのである。その憤怒と怨恨を、大久保がはるか彼方の欧州に去った今となっては、積年の恨み重なる西郷一人に浴びせかけるのは当然というも愚かであり、ここで旧主を敵に回すわけにはいかない西郷には、ひたすら恭順の意を旧主に示す以外に打つ手がないことを、彼らは充分理解していたであろう。

 

私にとって不可解だったのは、その後西郷が5か月に亘って政府との連絡を絶ち、鹿児島に居続けたことである。その間、久光から帰京を厳に禁じられたとか、西郷自身が久光の上京を実現せぬ内は鹿児島を動かぬ、と決心したとかの事情があったことを明瞭に示す史料は現存せず、史家はそれまでの経過から理由を推測するしかないのだが、私は家近良樹氏の「(西郷が)旧主の久光に対する忠誠を示すためには、それなりの期間、鹿児島に留まることが必要だっただろう」という説が最も事実に近いのではないかと思うのである。久光には政府に西郷の罷免と自身の上京拒否を押し通すための人質として西郷を鹿児島に留める必要があり、西郷はこれに従わざるをえず、政府との連絡も自制して局面の変化を待つしかなかったと考えられるのだ。

 

その変化は、翌明治6年(1873年)1月、岩倉、木戸、大久保らの留守を(たの)んだ西郷までが鹿児島に去ったきり音信不通という状況に焦慮した三条太政大臣が滞欧中の木戸と大久保に帰国命令を発する、という形で出現した。それは3月19日、ベルリンに滞在中の使節団に届き、大久保はただちに帰国の途に就いたが、木戸はロシア訪問に固執し、その後に帰国することにした。

 

その間西郷は沈黙を保ったまま、鹿児島に居続けたのである。想像するに西郷は、もはや幻にすぎなくなった封建領主の座に執着する久光が、彼の命令に背いて藩を廃し、彼の身柄を薩摩から東京に移して監視下に置こうとする不忠の臣である西郷を激しく憎み、しきりにその罷免を要求する書簡を三条太政大臣や徳大寺宮内卿に送り付けていることを放置できず、久光に呼び出されるまま公務を放棄して帰郷し、これまでの不忠を詫び、上京の要請に応じるよう説得することを決心したのであろう。しかし、久光はそれを受け入れず、彼が東京へ引き揚げることも許したくない意向を暗に示して彼を鹿児島に留め置こうとした、と思われるのだ。

 

西郷不在の政府では、廃藩置県によって全国を一元統治する中央集権体制を確立した政府が初めての国家予算を編成する時期を迎えていた。そこに国家財政を預かる大蔵省と革命政策を遂行する各省との間で翌明治6年度(1873年)の予算を巡る内紛が勃発したのである。特に強硬だったのは、大蔵省から裁判権を移管し、全国に裁判所を設置しようとする司法省と全国に小学校を設置しようとする文部省であり、その「卿」すなわち今でいう「大臣」を務める江藤と大木は共に佐賀藩出身で長州藩出身の大蔵大輔井上馨と鋭く対立することとなったのだ。

 

この政府における各省間の利害の対立と長州対佐賀の藩閥抗争が絡む権力闘争を調整する政治的手腕を首相である西郷が発揮しえなかったことが事態を一層複雑にした。西郷とは、政治に私利私欲を持ち込まず、利を求める商人を近づけず、道義に(かな)う政治を行うことが政府の務めである、と信じる人であって、対立する諸勢力の利害と権力欲のバランスが辛うじて保たれるぎりぎりの妥協点を見出し、これを受け入れるよう各当事者を説得して全体の合意を形成する現実政治家とは到底いえない人物だったのである。                                                                                                        

 

殊に明治5年の大蔵省は、現在の財務省、金融庁、経産省の一部にまたがる広範囲の権限を有する巨大官庁であり、そのトップに君臨する井上大輔は「(いま)(きよ)(もり)」と称されるほどの強大な権勢を振るっていた。その大蔵省が所管していた東京以外の地方裁判権を移管する形で発足した司法省は、まず全国に裁判所を設置するための予算を請求したところ、その半額しか認められなかったのに対し、井上と同じく長州人の山県が提出した陸軍省に対してはほぼ全額を認めたことに江藤司法卿が憤激し、山県、井上の関与した汚職事件を徹底的に追及し、彼らを失脚に追い込む権力闘争に打って出たのである。

 

西郷は、旧主への忠誠義務を拒めない彼に封建領主の本質を剥き出しにして無理難題を突きつける久光と、巨額の国家予算を争い合う官僚たちの双方に失望を深め、久光が半独立国の王者のごとく君臨する鹿児島にも、政商との癒着・汚職に(ふけ)る長州閥と、彼らから国家財政の主導権を奪取しようとする江藤や大木の属する佐賀閥との権力闘争が渦巻く政府にも居場所を見出しえなくなった西郷はしだいに孤立感と厭世観を深めていったと推察されるのだ。

 

明治5年(1872年)11月から翌6年4月に及ぶ西郷の鹿児島滞在は、留守政府発足以来の経過を振り返り、以後の政治にどう向き合うべきかを深く考え直すべき期間となったことと思われるが、それは明治6年(1873年)3月、長引く西郷の不在に耐えかねた三条太政大臣が派遣した勅使、勝海舟の説得に久光が同意したことをもって終了し、西郷は同年4月17日に鹿児島を出発し、23日に東京に着いた。その西郷に朝鮮釜山の日本公館から発せられた日朝関係の緊迫化を告げる報告書が届いたのは、それからほぼ1か月後のことであった。

 

付記:筆者、近来珍しく諸事多忙を極めて原稿執筆に遅滞を来たし、昨日ようやく投稿した記事を本日読み返してみれば、余りに粗雑の感を免れず、急遽改訂版を投稿致しました。すでに目を通された方々にはあらためて御再読をお願い申し上げるほどのものとも思われず、只々お詫び申し上げる次第です。筆者敬白。