明治3年(1870年)12月、鹿児島に到着した岩倉勅使は久光と西郷の上京(遷都後は東京に向かうことを意味する)を強く促した。その際、西郷は岩倉に長文の「意見書」を提出している。それは国政に関する西郷の意見を述べたもので、維新以後の彼の政治思想を窺い知る上で極めて重要な意義を持つ文書である。家近良樹著『西郷隆盛』によれば、その要点は以下の通り。

 

(1)皇国維持のためには陸海軍を保護しなければならず、その兵制を定める上で参考にすべきは西洋各国の制度である。

(2)朝廷の意向を全国に貫徹させるためには「朝廷に兵権」がなければならない。そのため、強大な藩から「精兵1万人」を献上させ、それを親兵とする。

(3)国家を支える人物は、任期として設定された4年に限らず、もっと長期間にまたがって任用すべきである。

(4)政府が掌握すべき権限は、「政度・紀律・賞罰・与奪等の権」に限り、その他の米価や金銀の相場あるいは商売等に関しては口を挟むべきではない。

(5)外国との交際では、「一事たりとも信義を誤り礼節を失」ってはならない。また相手が「兵威を以て約定外の事を」押しつけてきたら、「条理(を)分明に示愉し、少しも」怯(ひる)むべきではない。「もし戦の一字を恐れ、枉(ま)げて彼の説に従っては」国体が立たない。いずれにせよ、対外方針は、道に従って「斃(たお)れなば遺憾なきものに定むべ」きである。

(6)外国の「盛大を羨(うらや)む」あまり、「財力を省りみず」急進的な欧化政策に走ることは止めるべきである。

(7)政府の中枢に位置する者は、「驕奢(きょうしゃ)」つまり贅沢な生活を送ることは止め、質朴の風を守るべきである。

 

(1)で西郷は、政府の最重要課題は軍事力の強化と兵制の確立であり、そのためには西洋諸国の制度を参考にしなければならないと説く。彼は軍人として西洋諸国の近代的軍隊の優秀さを率直に認め、彼らに学んで軍事力の強化を図ることが、安全保障のために是非とも必要と考えたのだ。彼は、日本古来の価値観を打ち捨て、西洋の文物を礼賛する風潮に強い拒否感を抱く人物だったが、こと軍事に関する限りは進んで西洋諸国に学び、その軍制、戦術、組織論等々を取り入れた近代的陸海軍を創設し、軍事力の飛躍的向上を図る決意だったのである。

 

(2)は、そうした長期的課題とは別に、天皇と首都東京を守護する独自の兵力を至急確保する必要を説く。戊辰戦争を戦った「官軍」が任務を終えて元の藩兵に戻り、それぞれの国元に帰ってしまった後、東京を守るのは薩摩を中心とする諸藩が駐留させた数千の兵力にすぎなかった。明治3年(1870年)9月、薩摩藩が千人の部隊を東京から引き揚げ、交代の兵力派遣を拒否する事件が発生した。これに深刻な危機感を抱いた大久保は、岩倉、木戸と共に鹿児島への帰郷を決断し、勅命をもって久光と西郷を東京に呼び出そうとしたのである。西郷は岩倉、大久保の説得を容れて政府出仕を決意するに当たり、薩長土から1万の兵士を供出させ、これを政府直属の御親兵とすることを主張した。彼の要求は受け入れられ、3藩が供出した実数8千の御親兵の経費は以後国費をもって賄われ、後に近衛兵(このえへい)と改称される。西郷は、薩摩藩兵およそ3200人の「献兵」によって政府常備軍を創設すると共に、国軍兵士となった彼らの身分を保証し、薩摩藩の軍事費負担を政府に転嫁する一石三鳥の効果を狙ったのである。

 

(3)の有為の人材は任期に囚われず長期に亘って務めるべきだというのは、草創期で人材に限りある政府としては当然のことだろう。

 

(4)に示された政府の権限に関する西郷の見解は特に重要である。彼は、政府の権限は軍事と外交および立法、司法、治安維持等の狭い範囲に限定すべきであり、通貨としての金銀および米価等の相場や民間の産業に口を挟むべきではないと考えていた。それは「富国強兵」と共に「殖産興業」を目指して富岡製糸場を開き、新橋横浜間の鉄道敷設や通信網の整備など近代化への投資を積極的に進めていた大隈重信、伊藤博文、井上馨、前島密らの急進的改革論者らの産業政策とはまったく相容れないものだった。西郷は、政府が重要インフラ整備に投資を行うことによって民間資本を呼び込み、新たな産業を興して経済を発展させ、雇用を確保して国民所得を増やし、税収を上げることによって投下資本を回収し、次なる投資を準備するという資本主義的経済発展への洞察力を持ち合わさず、大隈一派の経済政策を、西洋文明の表面を模倣するために貴重な国費を無用に浪費し、政府官僚と商人との癒着、腐敗堕落の原因を成すものとして激しく非難したのである。

 

(5)の外交政策について西郷は、交渉力の源泉は強力な軍事力にあることを強く意識していた。それは圧倒的な軍事力を背景に理不尽な要求を押し通す西洋帝国主義国の外交官たちから幕末の武士たちが骨身に沁みて学び取った痛切な教訓だったであろう。西郷は、外交に信義礼節をもって臨まねばならぬのは勿論だが、旧幕府のように「戦の一字を恐れ、枉げて彼の説に従っては国体が立たない」のである。ゆえに政府の外交方針とは、もし西洋諸国が兵威をもって合意した以上の不当な要求を突きつけてきた時はこれに怯まず、道理ゆえの戦いに斃れるならば悔いはない、との覚悟を国民に促すものでなければならない、と主張するのである。

 

(6)および(7)は、大隈一派に対する西郷の強い嫌悪と反撥を表明するものである。生涯に亘って無私無欲を貫いてきたことを誇りとする西郷は、築地の広壮な旗本屋敷を拝領して「梁山泊」と号する和洋折衷の屋敷を構え、夜ごと井上馨や伊藤博文をはじめとする少壮官僚を呼び集めて政治を論じ、談論風発、宴たけなわにして払暁に及ぶ「大名暮らし」を噂される大隈を蛇蝎の如く嫌い、やがて三井家と組んで後に三井物産となる貿易会社「千収会社」を設立し、尾去沢銅山事件等の汚職にまみれてゆく井上を「三井の番頭さん」と呼んで憚らなかった。彼は、このような官僚の腐敗堕落を一掃することを政府出仕への条件とし、岩倉はこれを受け入れたのであった。

 

以上を要するに明治期の西郷とは、軍事力の強化を政府の最優先課題とし、大隈一派の経済政策を有害無益の浪費として敵視する旧幕時代さながらの軍人政治家であった。それは、封建制を脱して近代資本主義国家への転換を必然とする明治政府の最高権力者にはふさわしからざる資質であった。西郷がどれほど欧化主義を嫌悪し、大隈一派の経済政策を敵視しようと、明治期の日本が世界史上稀な転換を果たすには経済・金融分野における彼らの実務能力が是非とも必要だったのだ。だが西郷は、功罪相半ばする彼らの特質をよく見極め、巧みに使い分ける度量の持主とは言いがたかった。西郷と大隈たちとのミスマッチは、彼が出仕し、岩倉、木戸、大久保らが外遊に出発した後の留守政府において避けがたいトラブルとなって噴出するのである。