さてさて…
十年近く六位の無官生活に甘んじていた、まひろ(紫支部)の父為時(ためとき)でしたが
貞元(じょうげん)二年(977)に、突如追い風が吹いて来たのです
貞元二年は、藤原北家九条流(ほっけくじょうりゅう)の兼通(かねみち)と兼家(かねいえ)兄弟の骨肉の政治抗争に一つの決着が着いた時期でした
重病の床にあった関白兼通は、最後の力を振り絞って参内(さんだい)
円融帝(えんゆうてい)の御前にて最後の除目(じもく。人事会議)を主催しました
自身の後任の関白として、兼通は本命である同母弟兼家ではなく、従兄弟の左大臣頼忠(よりただ)を指名
兼家に対しては、兼帯していた右大将(うだいしょう)を剥奪したうえで、閑職である治部卿(じぶのきょう)に格下げする
という格下げ人事を行ったのです
歴史物語『大鏡』(おおかがみ)では、この兄弟対決の結末の場面を、実にドラマチックに描写しているのですが、真相は…
兼家を共通の敵と見なしていた、円融と兼通両者の合議による人事であったと思われます
兼通の死はその直後であったのですが、失意の兼家は暫く逼塞を余儀なくされてました
但しこの段階で、兼通との直接の利害関係がなかった新関白頼忠の政治判断により、二年後の天元(てんげん)元年(979)
兼家は復権を果し、右大臣に昇進しました
前回お話しましたが、『光る君へ』は兼家が復権を果たして、次女詮子(せんし)を円融帝に入内させる話が決まった所から
始まったのですが、冒頭に申し上げた為家の転機は、まさしくその時期と重なったのです
さて、本題に入りますが、貞元二年に為時は東宮師貞親王(とうぐうもろさだしんのう)の読書始(どくしょはじめ。初めて学問を始める儀式)の際に、副侍読(ふくじどく)を命じられたのです
侍読とは、天皇や東宮の側に仕えて学問を教授する学者を指すのですが、当時は大学寮(だいがくりょう)の博士やこれに比肩する学識を有するとされた人物が、この任にあたることになっていました
為時は中国の歴史や漢籍(かんせき)を専攻する、紀伝道(きでんどう)の文章生(もんじょうしょう)であり、未だ三十代(多分)ながら、その学識は高く評価されていて、それが六位無官ながらの異例の抜擢に繋がったと思われます
但し、『光る君へ』劇中では、兼家が師貞親王の動向を探らせる目的(勿論東宮に学問を教えることが仕事でしたが)で為時を推挙したという設定でしたが、恐らくこれはドラマ向けのフィクションであり、史実とは異なると思われます
件の為時の抜擢について、タケ海舟は、ある人物の働き掛けがあったと推測されます
そのある人物とは…
東宮師貞の乳母子(めのとご)であった、藤原惟茂(ふじわらのこれしげ)と思われます
以前、このブログでも触れましたが、惟茂は為時と同じく文章生で、そこから受爵(じゅしゃく)
円融朝で六位蔵人(ろくいくろうど)で式部少丞(しきぶしょうじょう)を拝命して、政界デビューを果たしていました
同じ文章生で尚且つ、天暦七年(953)生まれの惟茂は、天暦三年(949)頃誕生と思われる為時と年齢的にも近く、史料等では明らかでないのですが、両者は知己同士であった可能性があります
東宮師貞の乳母子という、極めて近しい間柄により、早くからその身辺に仕えていた惟茂も、やはり東宮侍読や東宮学士(とうぐうがくし)を務めていた経歴があり、大学寮で共に机を並べて紀伝道を学んだ経緯から…
自身に代わる侍読の役に為時を、花山に推挙したのかもしれませんね
真相は史実の陰に塞がれているのですが、両者の経歴や関係性を鑑みれば、あながち上記の様な仮説も成り立つかな~
とタケ海舟は思っています
さて、安和(あんな)元年(968)に播磨権少掾(はりまごんのしょうじょう)の官職を得て以来、九年ぶりの任官となった
為時でしたが、その七年後…
近侍していた師貞が践祚(せんそ)
晴れて花山帝(かざんてい)となった彼により、為家は更なる抜擢を受けることになったのです
そして、その更なる昇進についても、別のある人物の引立てがあったのです
続きは次回に致します