さてさて…
従来の政治(まつりごと)とは一線を画した、花山帝(かざんてい)の新制(しんせい)は
当然ながら、有力公卿達の猛反発を受けるに至ったのです
昨日の『光る君へ』放送において
新制に猛反対する、三大臣(関白太政大臣頼忠・左大臣源雅信・右大臣藤原兼家)達は、朝廷で行われる重要会議等への出仕を
サポタージュする始末で、これに怒った花山帝は、蔵人頭(くろうどのとう)である藤原実資(ふじわらのさねすけ)に向かい
『関白や左大臣や右大臣が反対しようとも構わぬ、どんどんやるのだ』
と自己の信念を断固曲げない姿勢を表明していました
このままでは、花山の治世は長続きしないと考えたのか、実資は帝の側近筆頭たる藤原義懐(ふじわらのよしかね)に対して
『理想だけでは政治は出来ぬ』と怒りを露わにしたのですが、効果は全くなく…
花山とその側近グループvs三大臣勢力の図式を、より一層尖鋭化させる事態となっていました
こうした中、花山帝は有能な文人貴族(学者)の積極的な登用を行っていたのですが、帝の登用名簿に掲載されていた一人が…
紫式部こと、まひろの父親である藤原為時(ふじわらのためとき)でした
式部並びに為時の家系は、兼家(かねいえ)・道長(みちなが)父子と同じ、藤原北家冬嗣流(ふゆつぐりゅう)でした
但し道長の家系が、冬嗣の嫡男で人臣初の摂政になった良房(よしふさ)以降
基経(もとつね)→忠平(ただひら)→師輔(もろすけ)→兼家(かねいえ)→道隆(みちたか)・道兼(みちかね)・道長へと続く
代々摂関や大臣等の公卿を輩出し続ける、九条流(くじょうりゅう)であったのに対して
為時父娘のそれは、良房の同母弟である良門(よしかど)を祖とする良門流に属していました
良門自身は、公卿になる前に早世してしまったのですが、彼の子供達のうち、高藤(たかふじ)・利基(としもと)兄弟の系統が平安前期の廟堂で活躍していました
特に前者は、高藤の娘胤子(いんし)が宇多帝(うだてい)に入内(じゅだい)して、醍醐帝(だいごてい)の生母となったため、
高藤とその子供である定方(さだかた)は醍醐帝の外戚として、それぞれ内大臣、右大臣として政治の中枢に位置していました
定方の子供である、朝忠(あさただ)・朝成(あさひら)も公卿の座を維持していたのですが、帝とのミウチ関係が薄くなるに
つれて、彼等の昇進もまた滞る様になり、朝忠・朝成の弟である朝頼(あさより)の子である為輔(ためすけ)が権中納言(ごんちゅうなごん)に昇進したのを最後に…
その家系の公卿が途絶えたのです
因みに、この為輔の子供が、後にまひろ(紫式部)の夫となる、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)であります
後者である利基の系統に目を向けますと、利基自身は公卿になれなかったのですが、彼の子である兼輔(かねすけ)が権中納言に昇進を果しました
世に『堤中納言』(つつみちゅうなごん)と呼ばれた兼輔は、三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)の一人に数えられる程の和歌の達人であり、『古今和歌集』(こきんわかしゅう)等の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)に多くの歌が入集されています
加えて、彼の娘である桑子(そうし)が醍醐帝の更衣(こうい)に召され、章明親王(のりあきらしんのう)を産んでおり
為輔一代に限れば、公私共に実りのある生涯を送ったと思われます
但し、父が公卿になっても、その子供達が同じ地位を維持出来るという程、平安時代の宮廷社会は甘くはなく…
為輔の子供雅正(まさただ)は、従五位下周防守(じゅごいげすおうのかみ)で終わっています
因みに、この雅正が、紫式部の父方祖父に当たる訳で、その三男が式部の父親の為時でした
娘である式部と同じく、為時の生年も不詳なのですが、概ね天暦(てんりゃく)三年(949)前後の誕生と思われます
若年の為時は、菅原道真(すがわらのみちざね)の孫である文時(ふみとき)に師事して紀伝道(きでんどう)を学んだ後に
朝廷の教育機関である大学寮(だいがくりょう)の文章生(もんじょうしょう)に進みました
学者の卵になった為時は…
安和(あんな)元年(968)に、播磨国(はりまのくに)の三等官である播磨権少掾(はりまごんのしょうじょう)に任官したのですが…
その後、約十年近く、為時は無官の六位の時期を過ごしています
なお、『光る君へ』本編は、為時の第一次無職時代より始まっているのですが、毎年二度行われる官職人事を決める除目(じもく)では…
自分が任官を希望する官職についての推薦状(自薦・他薦)を提出するのですが、第一回放送では
式部少丞(しきぶしょうじょう)への任官を希望する為時の推薦状(申文:もうしぶみ)が円融帝(えんゆうてい)の面前にて読み上げられていました
この推薦状には、最近の式部省(しきぶしょう)に任官された官人たちの能力不足等を批判する内容が記されており
これを聞いた円融帝が…
『朕(ちん。帝の一人称)の決めた人事に異議を申すのか』と却って機嫌を損ねてしまった為に、為時は官職を逸した場面が描かれていました
尚、劇中では、親友の藤原宣孝が、為時に対して、『何もせずに待っていては、いつ迄経っても、任官出来ないぞ』
と忠告され、その薦めに従い、道長の父兼家に任官の斡旋を頼む手紙を届ける場面がありましたが、これは恐らく史実でなくドラマ上の創作であると思われます
とは言っても、自己の縁故や人脈を頼り、公卿等の有力者に任官の口入を依頼することは少なからずあった筈で
それだけ、当時の六位以下の下級官人達にとっては、任官は狭き門であったことが知悉出来ます
失意の淵に沈んでいた為時でしたが、貞元(じょうげん)二年(977)に転機が訪れるのです
この続きは次回に致します