たかあまのはらに
高天原
かむつまります
神留坐 
かむろき
神漏岐
かむろみの
神漏美
みこともちて
命以知氐
すめみおやかむいさなきのおほかみ
皇親神伊邪那岐大神
つくし
筑紫
ひむかの
日向
たちばなの
をとの
小門
あはきはらに
阿波岐原
みそきはらひたまふときに
禊祓
あれませる
生坐世留
はらへとのおほかみたち
祓戸大神等
もろもろまかことつみけかれを
諸々禍事罪穢
はらへたまひ
きよめたまふと
布登
まをすことのよしを
あまつかみ
くにつかみ
やほよろつのかみたちともに
八百万神等共
あめのふちこまの
斑駒
みみふりたてて
耳振立
きこしめせと
聞食世登
かしこみかしこみもまをす
美母

人生、夢が大切・・・

いつかきっと幸福になる・・・
高い目標に向かって・・・

素直な子供はそんなことは考えもしない。夢が大切とかいつかきっと、、、なんて言う子供はすでに不幸な子供である。大人はほとんど不幸なので、そういうものに人生を託したくなる。今、幸福な人はこの日々がずっと続いてもらいたいと思うはず。いつかきっと、、、なんてかんがえもしない。人類は夢の空手形にやられてしまった。いつか幸福になる必要はなく、今幸福になることが正しい。夢の空手形は企業や国や支配者にとっては最高のものである。今は何も与えなくていい。いつかね、、、そうそう努力してればいつかきっといいことがあるよ、、、と、気持ちが悪い話しである。
 最近の若者には、あまり夢がない、、、という批判を聞くことが多いが、それでいいのではないか。先の幸福よりも今、自分の手ごたえの中での実感や快適さを求めて何が悪いのだろう。今の生活を犠牲にしてでも働いてくれない、、、という企業サイドの不満でしかないと思う。もう企業などに命なんかかけては馬鹿らしすぎる時代に入っている。やりがいがあったり、それが好きだったりするならもちろんかまわないが、我慢して会社のために自分を犠牲になどする必要などない。つまらない上司は、君には夢はないのか、、、などと部下をしかるかもしれないが、気にしないことだ。何ひとつ今の自分に満足していない上司などに夢など言われても、そんな夢など欲しくもない。なぜ夢が悪いかというと、夢は利用されつくされている。すべての投資も夢からスタートする。人をだますのは夢が一番なのだ。夢を語れば、夢を見せれば、いくらでも働く、いくらでも金を出す、、そうやって地上のビジネスができ、ビルが建ち、人が働き、未来の金を持ってこれた。そしてそのほとんどが空手形となった。現実に立脚していたビジネスはかろうじて利益を上げ、今なお続いているが、夢の部分が多かった仕事はもう見る影もない。その最高度のものがデリバティブ取引だったわけで、無残なことになった。変額保険なんかも同様だろう。夢を見た人はこれから現実を見せられることになっていく。もともと現実で生きている人はギャップが少ないが、夢と現実のかい離が大きかった人は苦しいことになる。国で言えば、現実と夢のギャップが大きかった国から厳しいことになる。アメリカはそのトップランナーだ。すでに厳しい現実が民衆におそいかかりつつある。こうなると、夢というのが本当は罠であったことがわかる。なのに、まだ一般レベルでは、夢とかいつかきっと、、という考えが主流というお粗末さは、マスコミの影響によるものだろう。底流のヒスパニックだろうが黒人だろうが、今あるもので幸福になろうよ、、、、という生き方をしているアメリカ人はどうにかなるだろうが、夢に生きていた人は厳しい。日本でも同じだろう。ここは目を覚まし、現実立脚の観点から自分の人生を見直さねばならない時期にきている。夢をあきらめることには抵抗があるだろうが、夢をあきらめるというよりも、夢にだまされていた自分自身の解放と考えるとわかりやすい。そして今、自分にあるもので、自分の周囲にあるもので、今の自分自身で幸福になってしまう。いつかきっとを、今ここで、、、に変える。今ここでできないことは一生できない。今、ここで隣の人に微笑めばいい。今、ここで隣の人と親しくなればいい。今、ここで自分自身と和解し親しめばいい。夢があると、いつかきっとがあると、今の自分を許せなくなる。そして誰かが与えた価値観に縛られ、自分を失う。夢への期待値と自分の嫌い度は正比例している。今ここで、の意識と実践は必ず自分を愛することにつながっていく。夢で集めた金もいずれパーにされる時期が来よう。ひどい話しである。最初から口の悪い人、、はっきりものを言う人などは怖くない。夢を語り、ひとを集め、金を集める、、、そしてかっさらわれてこの時代は終えた。新しい手ごたえは、今、ここで、、、であり、夢を追うのではなく、現実を夢にしていく、今を天国に変えていくやり方。今くつろぐ、今わけあう、今助け合う、今笑う、今親しむ、今食べる、今息をする、、、仕事の後のビールも確かによいが、巧妙な夢のやり方にはもうだまされてはならない。

「いま・この瞬間に生きる」ことが大切です、
ということがよく云われます。

それは、あらゆる時間軸を取り外した「永遠」というものが、
いま・この瞬間にあるからです。

また、高次元領域においては、
いま・この瞬間に、過去-現在-未来が、
ひとつに集約されているのであり、
その場所に立ち置かれたとき、
私たちは、多次元的存在であることを知るからです。

それは、私たち生命体が、もうじき、
完全移行する場所でもあります。

そのときに備えるために、また、
多次元的存在であることを自覚して、
そのように生きることを意図するためです。

それはまた、個人意識を超えた、
地球意識、さらには、宇宙意識へと至るものです。

そのようなことで、「いま・この瞬間に生きる」
ことを実践すれば、私たちは、
多次元宇宙へと入ってゆけます。

「いま・この瞬間に生きる」ことはまた、
霊能者を超えた、霊格者の視点に立つことです。

それは、霊性進化の道を歩む人格者
であろうとすることです。

しかし、「いま・この瞬間に生きる」ということは、
非常に難しいことです。

私たちは、ときに、過去を思い煩い、
未来に心配を抱き過ぎて、現在に留まることを
疎かにしてしまいがちです。

この、「いま・この瞬間に生きる」ことを、
明確に意識する方法は、
スピリチュアル・ガイドと繋がることです。

スピリチュアル・ガイドと繋がろうとすること、
スピリチュアル・ガイドと繋がっている瞬間が、
「いま・この瞬間に生きる」状態そのものです。

それは、頭の中の思考や想念に囚われずに、
直観や閃きに意識の焦点を当てている
「無」の状態です。

この状態に身を置くというのは、
例えば、自然の中に入って無心になり、
自然と一体化するように意識することです。

神社や寺、聖地などへ訪れて、
礼拝しているときなどもそうです。

そのとき、私たちは、無心になっていて、
何か心地よい感覚で満たされているはずです。

他には、神託を受けるための道具を活用しているときです。

オラクル・カードや、タロット・カード、
他のスピリチュアルな道具類を活用して、
スピリチュアル・ガイドと繋がろうとするときです。

なぜかと云えば、スピリチュアル・ガイドは、
過去-現在-未来がひとつに集約された
多次元宇宙に存在しています。

その多次元的存在と繋がろうとすることは、
自分自身も、多次元的存在の意識や
周波数に合わせて、繋がろうと試みることであり、
過去-現在-未来がひとつに集約された場所に、
身を置くことになるからです。

この状態が即、「いま・この瞬間に生きる」
という状態なのですから、このような感覚を、
頻繁に体験し続けて、いつでも、
その感覚を思い出せるようにすることが大切です。

努力することはよいことだと思われているが、確かにそうではあろう。ただ、努力と三昧とは違う。三昧には個を成立させ、成熟させるものがあるが、努力には個をゆがめる危険がある。努力に無理があると、必ずと言っていいほど、そこには復讐心がともなう。勉強ができる人になぜ復讐心が強いかのそれが本当の理由である。また悪いことにそういう人があらゆるものをリードする立場に立ってしまっている。中にはあまり努力しないで勉強ができるとか、勉強が楽しい、、、という流れで自然に勉強ができてしまう、、、という人も結構いる。そういう人にはやはり何か安心できるやさしさがあったりする。とにかく人間はあまり無理をすると本来のものをゆがめてしまうことが多くなるわけだ。霊的に考えると、人間は霊の入れ物という面がある。物質は霊を求め、霊は物質を求めるという大法則があるためだが、人間は高度の霊を収める入れ物としてできている。ほっておいたら、自然と善人に行きついてしまう生き物である。しかし幾多の苦労、努力、苦悩を味わうと、それらと関係の深い霊の入れ物に自分をしてしまう。誰が悪いというものではなくて、自然にそうなっていく。そういう場合でも人間本来の形と違うので、間違った霊の入れ物になると、本人も苦しい。そのため、人間の最大の努力というのは、自分の体を悪霊の入れ物にするために払われる努力が最大の努力とも言える。悪人になるためには、実はたゆまない努力がいるということなのだ。これはこれで大変なことなのだ。たとえば、笑う、、、という行為は免疫力を高め、あらゆる病気を治してしまう可能性があるが、そのためには心底笑う必要がある。人間、心に何か重いものがあるとなかなか笑えなくなる。しかしそれでも本当のところでは笑いたい、、という気持ちがある。しかし何かおかしなことに触れて、つい笑ってしまったら、これまでの自分を捨てなくてはならなくなる、、、本当は捨てちゃえばいいのだが、意地があるのでどうしても捨てられない。しかしそこをうまくついて、さらにおかしなことを見せつければ、ついに我慢しきれずに笑いだしてしまうことがある。その時、ついに笑ってしまった人の魂は解放され、楽になる。そしてもう二度とあの苦しみの自分に戻れなくなる。官僚の横暴や悪意や陰湿さは努力の苦しさとそのために湧き出した復讐心に担保されている。誰が冷たい官僚を笑い殺せるか、、、誰が悪人を笑わせることができるか、、、そこに行きつかないと実は世の中は変えられない。悪人を殺せば良い世が来るどころか、彼らの思うつぼである。悪はさらに悪であることを力づけられる。悪は本筋の命にはつながっていないから、横取りしてしかエネルギーを奪えない。なので、まともで普通で善意の人間がいなければ生きていけないという根本矛盾を抱えている。なので最終的にはやっと花をつけたら、咲いたまま枯れる運命を持っている。新たな憎しみをエネルギーにしなければ生きていけない。そしてその流れの構造を基本的に断絶させ、一瞬にして本の太古の自然な状態に戻すものが笑いである。私は悪の行動原理に近い神経症を青年期に深くまじめに体験しているのでよくわかるのだが、偶然に大笑いをしてしまったことがあった。その時、自分を苦しませていた神経症のあらゆる症状がすべて一瞬にして消えてしまったのを知って驚いたことがある。その時はすべてのメカニズムを本当に理解したわけではなかったので、しがみつくべく神経症の苦しさと症状はすぐに復活してしまったが、この体験は心のメカニズムをそののち理解する大きな助けとなった。考えてみれば岩戸開きも笑いと歌と踊りであった。神話は確かによくできている。悪人にももちろん笑いはある。それは優越のタカ笑いであり、嘲笑の笑いであり、冷笑である。腹の底からおかしくて楽しくて本当に大笑いしてしまったら、自分をすべて忘れてその現象のおかしさに大笑いしてしまったら、悪人は存在の基盤を一瞬にして失ってしまう。私たちも苦労して怒っているときは、絶対に笑おうとしない。笑ってしまったら自分が負けたようになってしまう、、、そんな意地が働く。そして笑うことよりも不幸を選択する。その権化が悪魔であり、彼らは人一倍努力している。なので、この世の支配者になっても確かにおかしくない権利は一面ではあるのかもしれない。なにせ、一番苦しいことを、一番無理なことを、何年も何世代にもわたって努力してきているのだから。快適さ、解放感、笑い、、、なぜ現代からそうしたものが急速に消えていったのか、、、、テレビを見れば、そこにある笑いは冷笑と嘲笑の笑いである。15年ほど前まではまだお笑いでももう少し、本当に面白いものがあったが、最近ではやっぱり変わってきている。腹の底からわらったことが最近ない、、、そういう人が多いと思うが、おそらく何かで苦労されて努力することを求められているのだろう。そうなれば、きっと何かに復讐したい、、、人間が嫌いだ、、、という気持ちとセットされていると思う。古き良きアメリカの時代のホームドラマは笑わせるものが多かった。そんなものでもどんなに大勢のアメリカ人を幸福にしていたことか。しかし一度苦しみ、つらい努力を重ねる、、そうなったら、どんなに面白いものを見ても知っても笑えなくなる。笑えるようになるには、その前の心をほぐしたり、自然なものを受け入れるような体験が必要なのだろう。文化の本当の役割は生きる際に出くわす幾多の苦労を、悪にせずに笑いによって流し、あらゆる努力以前の三昧によって生きる道を作ることにあるのではないか。文化の時代が復活する。この世の危険から身を守る簡単な方法は腹の底から笑うことだ。それができないときは、それができるように生活を変えていくことだ。何かが間違っているからだ。おそらくそれは正しいと思っていた努力にある可能性が高い。努力しなければならないものより、三昧になれるものを探す。無理な努力による苦しみから離れる。その上で周囲を笑わせることができるようになれば、あなたは神から愛される人になる。時代を変える人になる。悪とは笑えないということだ。



無愛想のブログ


私たちは、あらゆる聖地や神社に赴き、
礼拝に向かいます。

それは、御祭神という神々を、拝むためでしょうか。

M・ドーリル博士著『療法の真義』の中に、
次のような記述があります。


イエスが、「あなたがたは、
あなたがたの心をつくし、思いをつくし、
魂を捧げて、あなたがたの神を愛しなさい」
と言われた言葉ほど偉大なる言葉は無いのである。

多数の人々は、これは、
神を拝むことだと思っているのである。

わたしは、拝むということを信じないのである。

もし、我々が、神の一部であるならば、
神を拝むということは、我々自身を拝む、
ということなのである。

拝もうと欲することや拝まれたいと望むことは
不均衡の状なのである。



私たちは、神社に礼拝に行くとき、
神社拝殿の中心に置かれてある鏡を、
真正面に見据えて、自分自身の姿を拝みます。

それは、自分自身が、
神の分身であることに気づくためです。

人は、神の分身、分霊です。

ですから、神を拝むことは、
自分自身を拝むことです。

それは、自分自身を強く信じることです。

アセンデッド・マスターと呼ばれる神人たちは、
このことをよく理解して実行している存在たちであり、
彼ら彼女たちは、宇宙の法則の名のもとに、
その最善なるところにおいて、自分自身を、
絶対的に信じる存在たちです。

それは、自分自身の内側深くに秘められている、
光のパワーの強さを信じることです。

彼ら彼女らは、そのことについて、
片時も疑わないのです。

彼ら彼女らは、私たちに対しても、
そのようであるようにと伝えています。

物質界という「この世界」で暮らしている、
私たちにとっては、辛抱と忍耐の伴う作業ですが、
それは、あらゆる扉が開かれてゆく道です。

しかし、聖地や神社には、確かに、
御祭神たちに会いに行くという側面があります。

それは、私たち一人ひとりが、
自分自身を強く信じることを思い出させるための、
彼ら彼女らからのサポートであり、
相互に助け合うものであるという、
光のネットワークにおける共同作業です。

“私たち地球人類は、動物種ではありません。
人は神の性質を宿している生命体であり、
人は神とは、根源的に光を宿す生命体であるということです。

私たちの魂は、光そのものであり、
そこには、一点の曇りもなく、
地球物質界に生命を受けたものはすべて、
輝きに満ちた光そのものであり、誰もが、
祝福されて生まれて来たということは真実です。

ですから、怖れや不安に心を動かすことなく、
適切な行動を取って、各自、
与えられた任務と役割に徹してください。”



“私たち地球人類は、遺伝子、
その核からの変容が起こり始める、
非常に最良な時期を迎えています。

私たちに出来ることは、これを逆らわずに、
受け入れるということのみです。

なぜならば、私たち地球人類は、
霊性進化の次なる段階に差し掛かっているのであり、
それは、多次元宇宙を自由自在に羽ばたいてゆくための、
DNA(遺伝子)全解除です。

これを受け入れた後では、私たち生命体の身体は、
半霊半物質体と呼ばれる状態へと変容を果たして、
永らく、離ればなれとなっていて出会えないでいた、
宇宙での、魂の友人たちとの再会を果たすことになります。

そのことにより、私たち地球人類は、顕在意識において、
決して孤独ではないということを、超感覚的に理解することになります。”



“いま・この時期に、私たち地球人類が、
最優先する必要のあることは、
変化、変容を受け入れることです。

平凡で退屈な日常生活のサイクルといったものは、
これ以上続かなくなります。

いま・この時期からは、あらゆる危機を乗り越えることにあり、
それは、冒険心や好奇心、知的探究心を追求することにあります。

物事の観方を、ことごとく変えてゆき、
より最善なる方向へ、発想を転換してゆくことにあります。

それは、一にも二にも、「内なる声」を通してやって来ますから、
外界の出来事、事象などに、心を惑わせるのではなく、
平安で静謐なる自分自身の内側で待機をし続ける
という心構えが、常に、必要となります。

現実のヴィジョンを創り出すのは、自分自身です。

いま・この瞬間に、外界で、何事が起きていようとも、
次の瞬間に、外界において、どんな事象を表現してゆくのか、
どんな出来事を映し出してゆくのかは、何をおいても、
自分自身しかいないのです。

このような現実化は、以前にも増して、
加速度が進んでいますから、心の在り方によっては、
素早く、現実の世界に成就してゆくこととなります。

ですから、自分自身の思考と想念と感情とを、
常に、自分自身で見張る、監視するという作業を怠らずに、
それが、適切でないと観じるのであれば、即座にして、
より、最善で、適切な状態へと置き換えることです。

これを、各自が、一分一秒でも早く行なうのであれば、
その方の人生生活において、劇的な変化が起きることは、
言葉では語り尽くせないほどに、素晴らしい結果を
もたらすことになるでしょう。

これは、理想論でも、綺麗事でもありません。

必ず、そのようになるのです。

それが、宇宙の法則の名のもとに、正しく、
その流れに乗り、生きてゆくという、
最も簡単な秘訣です。”



「終末の世の様相と明日への宣言」(浜本末造著)から



何も求めることなく「ただやる」「ただ尽す」それが魂の働きである。

生も死も考えない。生きていて良し、死んでよし、報われて良し。「ただやる、尽す」それだけであり、それが真の信仰であり、真行である。



生かされていると思うことも、生かされていないと思うこともない。

今生きている、今働いている、ただそれだけである。



そして今・今・自分が魂の命ずるままに働くことである。心を魂に支配させるだけである。一所懸命やる。生命を賭ける。それでいて一所懸命やっているとも、生命を賭けているとも思わない。

「ただやる」それだけである。



病気になった。なおろうとも、悪くなろうとも思わない。なおっても、悪くなっても、それをだまって受ければ良い。そこまで徹したらどんな難病でみなおってしまう。

「そんな事が出来るものか」と思う人が勝手に苦しめばよい。出来るか出来ぬか、やってみれば結果は直ぐ判る。







ただやる、ただやる、ただ程高価なものはない。結果を求めないでやる。

これが出来ればどんな思凝(しこり)でも融けてしまう。


即ち今に生き切り、過去と未来に死に切るのである。


むかし、どこかの神様が3000年と50年、合計、3050年目に解放された、、、という話しを聞いたことがあったが、まさに現代も同じことが起き出す。金からの解放、善悪感からの解放、喜びを伴わない義務意識からの解放、あらゆる苦痛からの解放、、、という意味では本当に自由になっていく。ただし、誰もこれをやれとはすすめてくれないので、自分を解放するのは自分しかない、、、という面は強固にあります。隣にいる人は天国に住み、その隣の人はまだ地獄をうごめいている、、、そういう時代になっていく。金や地位などで人間が楽になれるような甘っちょろいこれからではないので、とにかく自由になった方がいい。本質と異なる重荷を背負っていると、だんだんと苦しくなってくる。これまでは、金を得るためなら、多少の苦労もいとわない、、、というのが普通の生き方だったが、これからはそうではなく、自分の本質と異なる生き方をしていると、どんなに地位があってもダメ、金があってもダメ、、、となる。影の部分が消えていくので、直の自分との対面しかなく、事実に沿った生き方からしか喜びを生まない。金儲けが悪いと言っているのではなく、それで本気で喜びが感じられる場合もあり、それはそれでかまわないし、そうするのがいいと思う。しかし多くの人間は不安や将来の不安から金を欲しがる人が多く、金儲けが本当に好きという人は意外に少ない。私は30代から40代の前半ころまでは、本当に好きだったのでわかるのだが、なんだ、意外にお金儲けが好きな人って少ないと感じることが多かった。人によって喜びは違うのだ。本に囲まれているだけで幸福を感じる人もいるし、散歩が人生そのものであるという人もいる。なんだっていい。その人の本質に合っていればいい。それを中心にして人生を組み立てなおすには、これからは本当に素晴らしい環境が整う。私はこういうことを理想から言っているのではない。そうしないと人生の手ごたえも、また、その人が求めるものも得られなくなると思うので、語っている。地球も窮屈を脱ぎ出す気配があるし、天変地異も起こるかもしれないが、それもいいことなのだと思う。地球の気持ちを感じていれば、どうすれば天変地異から守られるかももしかしたらわかるというのが、実は人間なのかもしれない。地球も生き物だろうから、そこで暮らす人間や動物は地球の子供のようなものだ。地球も窮屈から抜け出す際には、語りかければ教えてもらえるかもしれない。地球さん、あなたの愛する子供を助けてね、、、という素直な気持ちだろうか。よくわからないが、その時になれば、きっと自然にそういう状況に即した気持ちが湧いてくるのだと思う。それが答えとしか言いようがない。要するにお任せである。赤ちゃんはもっと右の道を進めとも左に行けとも言わない。お母さんを全面的に信頼しているからである。地球も同じ。必ず助けてもらえる。死ぬることがあったとしても、それもきっとわけあってのことなのだろうから、あきらめるしかない。自由とはそういうことだ。
病気を抱えている方、幼い頃から
持病を抱えている方なども、多く
いらっしゃるかと想われます。

そのような状態は、健康とは
ほど遠い位置にありますので、
アセンションなど、夢のまた夢だと、
想われてしまうかもしれません。

結論から申し上げますと、
それらの病気を抱えている方でも、
アセンションが可能となっています。

ここで、大切なのは、心と魂の状態です。

このブログの中では、M・ドーリル博士著、
『療法の真義』からも、幾つか、
引用させて頂いておりますが、
目を向けるべきなのは、心と魂の状態です。

心の中にネガティヴ思考が巣食っていることが、
あらゆる、ほとんどの病気の根源となっています。

ですから、心と魂の浄化が第一である、
ということが云われています。

そのためには、病気のことで、
必要以上に話し合ってはいけないし、
想ったり、考えてもいけない
ということが云われています。

このことはまた、病気という概念に、
「同調してはいけない」ということでもあります。

それに同調してしまうことで、
その周波数に合わさっている状態を
維持していることになります。

そうはいっても、病気で苦しんでいるというのに、
ポジティヴ思考になどなれない、
というのが通常の見方です。

そのような、何らかの病気を抱えていながら、
あるいは、何らかの持病を抱えていながらにして、
心と魂の浄化を進めていくための方法は3つあります。

これは、3つで1セットのものであり、
どれかひとつが欠けてしまいますと、
効果が半減してしまいます。

1つ目は、「自分自身の中心軸に留まる」ことに、
意識を集中して専念させることです。

2つ目は、「光のネットワークに繋がる」ことであり、
これは、「自分自身の中心軸に留まる」ことで
成されるのであり、この1つ目と2つ目とは、
密接な相互関係にあると云えるでしょう。

このことは、特に、このブログの過去記事、
「自分自身の中心軸を簡単に見つけ出す方法」や、
「マントラを最大限に活用して、光のネットワークに繋がる」
などを参考にしてください。

3つ目は、「頭の中の思考と想念、感情を止める」
ことですが、これは非常に難しい項目となっています。

頭の中の思考を止める、心の中の想念を止める、
これらは、頭の中の、そして、心の中のおしゃべりを、
ストップさせるということです。

頭の中を、心の中を、何も考えずに、
何も想わずに、空っぽな状態にする、
「無」の状態にするということです。

感情を止めるというのは、感情を動かさないことであり、
何が起きても動じない、何を見ても、耳にしても、
感情を揺らさない、感情移入しないということです。

これらは、テレビを観ていても、ラジオを聴いていても、
その他の何かを行なっていても構わないのですが、
そのように訓練をし続ける必要が充分にあります。

このような状態を、出来るだけ長く持続させます。

その中で、さらに、1つ目と2つ目の項目を実践します。


かなりの根気のいる作業ではありますが、
必ずしや、有効な結果に繋がってゆきます。

その間、掛かりつけの病院からの処方箋を
飲み続けることは全く問題はありませんし、
むしろ、西洋治療も、漢方治療であっても、
治療の一環として必要なことでしょう。

このような方々が、アセンションの
完了プロセスに入ってゆきますと、
好転反応は極めて大きいかもしれませんが、
そのまま、治療薬を飲み続けながら、
あるいは、投入しながら、安静に
過ごされるといいでしょう。

好転反応とは、確実に、
病気が快方、改善する方向へ進むための、
修理、修繕過程です。

決して怖れずに、自分自身は、
体内から、すべての病気が根絶する、
道しるべを辿っているのだと、
強く意識して、イメージをし続けることが重要です。

なお、ここに書かれてある
方法だけがすべてではありません。

他の光の諸先生がたも、すでに、
幾つかの方法を示しているか、もしくは、
これからも、様々な方法を見つけ出してゆくはずです。

それは、各光の先生がた独自の方法であり、
自分自身にとって、最も相応しく、日々、
実行し続けられると想われる方法で、
実践を試みられるのがよろしいのではないでしょうか。