無愛想のブログ


私たちは、あらゆる聖地や神社に赴き、
礼拝に向かいます。

それは、御祭神という神々を、拝むためでしょうか。

M・ドーリル博士著『療法の真義』の中に、
次のような記述があります。


イエスが、「あなたがたは、
あなたがたの心をつくし、思いをつくし、
魂を捧げて、あなたがたの神を愛しなさい」
と言われた言葉ほど偉大なる言葉は無いのである。

多数の人々は、これは、
神を拝むことだと思っているのである。

わたしは、拝むということを信じないのである。

もし、我々が、神の一部であるならば、
神を拝むということは、我々自身を拝む、
ということなのである。

拝もうと欲することや拝まれたいと望むことは
不均衡の状なのである。



私たちは、神社に礼拝に行くとき、
神社拝殿の中心に置かれてある鏡を、
真正面に見据えて、自分自身の姿を拝みます。

それは、自分自身が、
神の分身であることに気づくためです。

人は、神の分身、分霊です。

ですから、神を拝むことは、
自分自身を拝むことです。

それは、自分自身を強く信じることです。

アセンデッド・マスターと呼ばれる神人たちは、
このことをよく理解して実行している存在たちであり、
彼ら彼女たちは、宇宙の法則の名のもとに、
その最善なるところにおいて、自分自身を、
絶対的に信じる存在たちです。

それは、自分自身の内側深くに秘められている、
光のパワーの強さを信じることです。

彼ら彼女らは、そのことについて、
片時も疑わないのです。

彼ら彼女らは、私たちに対しても、
そのようであるようにと伝えています。

物質界という「この世界」で暮らしている、
私たちにとっては、辛抱と忍耐の伴う作業ですが、
それは、あらゆる扉が開かれてゆく道です。

しかし、聖地や神社には、確かに、
御祭神たちに会いに行くという側面があります。

それは、私たち一人ひとりが、
自分自身を強く信じることを思い出させるための、
彼ら彼女らからのサポートであり、
相互に助け合うものであるという、
光のネットワークにおける共同作業です。