地方の活性化について
これから数十年間、地方は急激な人口減少に見舞われます。こうした中で、地域活性化にどう取り組んでいくか、本当に深刻な問題です。しかも、この課題は、きのう今日になって噴出した問題ではありません。
少し時代を遡りますが、私が中学生だった昭和39年(東京オリンピックの年)、愛媛県の東予地区が新産業都市に指定されました。「東予新産業都市」という言葉は、当時の愛媛県民にとって地域の輝かしい未来を象徴する言葉であったに違いありません。その後の詳しい経緯は承知していませんが、この都市計画には相応の効果もあったものと思われます。しかし、「東予新産業都市」という言葉が輝いた時代はそう長くは続きませんでした。
その後、世界はベトナム戦争の泥沼に突入しましたが、日本経済はむしろその特需にも支えられ好景気を続けます。昭和45年には大阪万博の開催、日本は絶頂でした。そうした中で、昭和47年、1972年に発表されたのが、田中角栄元首相による「日本列島改造論」でした。私が大学2年生のときです。
東予新産業都市という言葉の輝きが長く続かなかったという意味は、日本列島改造論というアイデアが出て来たことと表裏一体です。じつは、この頃には既に、地域の過密・過疎が大きな社会問題として取り上げられるようになっていました。であるからこそ、「国土の均衡ある発展」をうたい文句にした日本列島改造論が脚光を浴びたのです。
したがって、その発想は必ずしも間違っていなかったし、もしロッキード事件がなければその後の行方が変わっていたかも知れません。しかし、結果はどうなったか。東京への一極集中です。その流れは、今にしてもなお変わっていません。
結局、我々は、高度成長期の右肩上がりに慣れきってしまい、すべては経済が解決してくれると思い込んでしまった。そして、コミュニティのあり方といっためんどくさい議論を置き去りにしてきたのかもしれません。その結果、何をものさしにして地域の活性化を図ろうとするのか、ポリシーがはっきりしないまま現在まで来てしまったということなのだと思います。そのことこそが、最大の問題なのかもしれません。
いずれにしても、企業誘致に代表される成長・発展型の地域活性化モデルはどうやら限界に来たようです。一方で、IT技術を駆使したビジネスモデルは驚くほどの進化を遂げています。今後、政府の規制緩和策次第では、ビジネスの新たな展開が期待できますし、そうした分野に光を当てないことには地域活性化の新しい形は生まれないような気がします。もちろん、地域活性化の方向性に関する住民の合意形成があってのことにはなりますが。
小学校の児童数も激減している
前々回の記事で、愛媛県の人口が1985年をピークに減少トレンドに入っていること、そしてそのトレンドは今後さらに急ピッチになることをお話ししました。今回は、そうしたトレンドが、児童数(小学生)にどのように顕著に表れたかについてお話ししたいと思います。
愛媛県の児童数は、総人口のピークに先立つこと3年前の1982年にピークを迎えました。その時の児童数は147,293人。それが、何と2010年には、77,953人とほぼ半減してしまいました。当然、小学校の数も減ります。1982年の413校が2010年には349校となりました。
ただ、児童数の減り方に比べ、小学校や学級あるいは教員数の減り方はそれほどでもありませんので、1学級当たりの児童数や、1教員当たりの児童数は、かなり少なくなっています。したがって、私の時代に比べると、少なくとも形式的には余裕を持った教育ができる環境になったと言えるかも知れません。(少人数学級がいいかどうかは別として。)
いずれにしても、この児童数の減少は、いささか異常ではないでしょうか。わずか30年足らずの間に、小学生が半分になってしまったのです。しかも、この子たちは、成人し、結婚していずれは子供を持つようになるわけですが、その時に合計特殊出生率が低いままであったり、晩婚化がさらに進んでいたりすると、いったい日本はどうなっているのか。空恐ろしくなります。
しかも、超長期は別にして、少なくとも今後数十年間は間違いなくこのトレンド線上で人口が推移していくと見込まれています。これはSFではなく、現実なのです。次回以降も、人口問題を掘り下げていきたいと思います。

