『坂の上の雲』のまち松山 社長日記 -18ページ目

松山市の野志市長を表敬訪問

 昨日、松山市役所を訪れ、野志克仁市長にIRC社長就任のご挨拶をしてきました。市長は、愛媛県民ならだれもが知っている有名人。南海放送のアナウンサー時代は、もぎたてテレビのキャスターとして絶大な人気がありましたが、前中村市長の後を受けて、見事市長選挙に当選。若さとバイタリティ、そして好感の持てるお人柄で今後のご活躍が大いに期待されます。

『坂の上の雲』のまち松山 社長日記-野志市長


 野志市長と私との間には、ちょっとしたエピソードがあります。実は、あの東日本大震災の3月11日、震度5強の地震が東京を襲ったその数分後に、市長が当行の東京支店(当時、私が支店長をしていました)を訪問してくださったのでした。私が、大慌てでビルを出ようとしたその時に、市長とばったり出会ったという次第です。そして、余震に見舞われる中、気もそぞろに応接室でお話をさせていただきましたが、何のおもてなしも出来ず、大変申し訳ありませんでした。市長は結局その日、羽田空港のロビーで一泊する羽目になりお気の毒でした。

 1000年に一度の大震災のさなかのエピソードですので、忘れられない思い出になりそうです。市長のご活躍を祈念申し上げます。


産業構造の転換


人口減少社会に突入した日本が、早急に成し遂げなければならないこと、それは産業構造の転換に他なりません。この点に関しては、もはや議論の余地がないでしょう。問題は、これまでお題目のように言われ続けてきた産業構造の転換が、日本ではなぜ進まなかったのかということですが、これも答えははっきりしています。そうまでしなくても日本経済がもってきた、持続できたからにほかなりません。

 

 では、なぜ日本経済が曲がりなりにも持続可能だったのか。それは、日本が依然として世界第10位の人口を擁しているからです。この狭い日本に世界で10位に相当する人口が存在している。冷静に考えれば、驚くべきことです。1位中国、2位インド、3位USA、4位インドネシア、5位ブラジル、6位パキスタン、7位ナイジェリア、8位バングラデシュ、9位ロシアに次いで、日本には人口約1億2千万人の、ほぼ日本人だけのマーケットが存在する。このおかげで日本の産業は生き残って来られたわけです。

 

 しかし、その頼りとしてきた日本の人口が急激にしかも確実に減少していく社会に突入しました。さあどうすべきだったのか。ここから先は、前回ご紹介した四国フォーラムでの神野直彦教授の主張に耳を傾けたいと思います。先生は、溯ること25年前、プラザ合意で米国に執拗なまでに内需拡大を迫られ、なりふり構わず公共事業に突き進んだあの1980年代にこそ、次の産業構造を作るための投資をやっておくべきだったと主張されます。

 

 堺屋太一さんが『知価革命工業社会が終わる・知価社会が始まる』を上梓されたのが1985年です。つまりその時すでに、大量生産・大量消費の時代は終わりを告げようとしていた。したがって、その当時、公共事業につぎ込んだ何百兆円ものお金を、ホントは新たな産業を育てるための資金に振り向けなければならなかったのです。神野先生によると、産業構造を変えなければならない時に、手っ取り早く儲かるものに投資すると、必ずバブルが発生するというのが歴史の教訓だそうです。

 

 さて、その産業構造の転換に成功した国があります。スウェーデンです。スウェーデンは、1990年代に知識集約型への転換に成功しました。知識集約型産業に転換すると、企業はめったなことでは海外に脱出できません。そうした企業は、高度な人的資源を背景にしてしか存在できないからです。

 

 スウェーデンが産業構造の転換になぜ成功したのかは別の機会に譲るとして、日本がなぜそうできないのか。一つには、あまりにも「ものづくり」に対する信仰のようなものが強かったのではないかと思いますが、さらに付け加えると、日本の教育にも大きな問題があったのではないかと感じています。一言でいうと、「考える力」を育てるという観点に立った教育が十分ではなかったということです。

 

 私の娘は、中高6年間のうち3年間を米国の現地校で過ごしましたが、わが娘にしてなんとMath(数学)は優等生でした。公式を覚えて、正解を導き出すための教育は日本のお手の物ですが、向こうは違います。特に、初等・中等教育では、ひょっとすると正解なんてどうでもいいのではないかとすら思えます。いかに独創的な考え方をするか、人と違う(differ)かということこそが大事なのです。

 

 しかし、今さら過去の教育を悔いても仕方がありません。ただ、日本は成熟国家からへたをすると衰退国家になりかねない状況ですので、ここは一番思い切って発想を転換していかなければなりません。少なくとも、従来のようなモノづくり重視、企業誘致型の地域づくりからは脱して、新しい地域の在り方を独創的に考えていかなければならないと思います。

 

 

 

 

人口減少社会に突入しても、一向に見えてこない新しい社会の形


 20037月、今からちょうど8年前になりますが、松山市で『四国フォーラム - 愛媛会議』が開催されました。そんな昔のことをなぜ取り上げるかというと、その時のテーマが「人口減少社会を考える ~ 少子高齢化時代の四国の豊かさを求めて~」というものだったこと、そしてその内容が今読んでもまったく古さを感じさせなかったからです。


 ということは裏返して言うと、この8年間というもの、人口減少に対して有効な手立てが打たれることなく、現在まで来てしまったということなのかもしれません。いずれにしても、このフォーラムの内容をまとめた冊子は、限られた所にしか残ってないと思われますので、その一部を何回かに分けて紹介していきたいと思います(今、我々が取り組もうとしていることが、8年後にどう評価されているかを、常に意識しておきたいという意味も込めて)。


 このファーラムの開会にあたっては、当時の四国経済連合会会長、近藤耕三氏が開会挨拶をされましたが、その内容は、今聞いたとしても何の違和感もないものです。近藤氏は、日本の人口がこのフォーラムの数年後に確実にピークを打つこと、そして人口問題の対応にあたっては、新しい時代の日本のあり方、社会のあり方をしっかりと展望することがその根本になければならないと強調されています。人口問題に対する危機感の強さは今とまったく変わらないか、今以上なのです。


 このフォーラムでは、当時の東大教授(現名誉教授)神野直彦氏と上智大学教授鬼頭裕氏が基調講演をされました。神野先生がおっしゃりたかったことを乱暴に一言で要約すると、「地域だけで動く産業を残しておけ」ということになります。ドイツやフランスなどのヨーロッパ諸国では、なぜ一極集中が起こらないのか、それは地域の生活を支える産業がその地域に残っているからだ、というのです。


 愛媛の生活は、愛媛の中で回す。もちろん、すべてを愛媛の中で回すことはできませんが、あまりにも日本全国が均質化してしまった。そういう社会の在り方自体が、地域を崩し、地域を死滅させているという指摘です。こうした地域の崩壊はもう取り戻しが効かないのか、そんなことはないと思いますが、そのためにはよほどの発想の転換が必要です。次回は、神野先生の講演内容をご紹介したいと思います。