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風土の再建を旗印に~「文明の災禍」

震災後に出版された多くの震災本の中で、今のところ、マイベストの一冊です。
共感するところ多数でした。
以下、ブックレビューです。

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「文明の災禍」内山節著(新潮新書)

地震も津波も自然現象であり、人間が制御することはできない。そのため、それによって引き起こされる災害に対して人間ができる対策は、地震予知や避難経路の確保、防災意識の醸成といった防災対策の強化である。ただし、いくら防災対策をしても、地震や津波そのものを止めることは、人間にはできない。だから、もし、先の東日本大震災でもたらされた災害が、自然災害だとすれば、震災後に私たちがすべきことは明確であり、被災地域の復旧復興と並行した防災対策の強化である。しかし、今回の大震災は、単なる自然災害ではないとすれば、なすべきことは違ってくる。

本書の著者は、今回の震災では、地震や津波といった自然の災禍に加え、それとは異なる文明の災禍が同時に発生したという。文明の災禍とは、もちろん、ひとつには、福島原発の一連の事故に伴う災禍を指すのだが、そのほかにも、共同体が失われたことによりもたらされた文明の災禍という側面があるという。現代文明は個人に軸を置いた生の餐宴として展開してきたため、共同体が失われ、そのため、これまで共同体を通じてなされていた生と死のつながりを諒解できなくなった。ゆえに、自然の災禍にも文明の災禍という性格が付与されてしまったという。そのような2つの意味で先の大震災は文明の災禍だという。

本書は、そうした認識に立ったうえで、この大震災から私たちは何を学ぶのか。さらには、それ以降の社会をどのように創りあげていくべきかについての論考である。
今回の震災で示されたことの一つは、現代社会の巨大システムへの依存とその脆さである。原発という巨大システムが崩壊し、それに伴い、経済システムも、行政システムも、労働システムも、生活システムもすべてが数珠つなぎに崩壊していった。巨大システムは、ひとたび崩壊すれば、自分たちの手で再建することはできない。巨大システムに依存して生きてきた私たちは誰もこれを止めることができなかった。
情報が溢れていることの問題点も示された。人間は情報が多くありすぎると適切な判断ができなくなるという。したがって、第三者により抽出された情報を得ることが望ましいわけだが、その情報を抽出する人の判断が誤っていれば抽出された情報は役に立たない。どちらにしても本当の情報が伝わらないというジレンマが起きる。今回の震災では、まさにそのようなことが起きてしまった。
さらに、原発事故によって未来の時間が破壊されてしまった。人間は、いつの時代も過去の人たちが作り出した文化や文明、技術などを受け継ぎながら、自分たちが作り出したものを未来の人たちに手渡してきた。過去の時間と未来の時間をつなぐ役割を果たしてきたのだ。しかし、原発は未来の時間を破壊してしまった。もし、このことが許されるなら、著者は、それは、恐ろしい社会であるという。

このような理解を踏まえ、著者は、復興のグランドデザインにおいては、これからの日本の社会をどのようの作り直していくのかを考えていくことが必要だと言う。その際、これまでのように、経済発展とそのための基盤整備を目指した「東京づくり」の思想で進めるのではなく、ローカルな世界を基盤にした風土の再建を行うべきだと主張する。風土について、著者は次のように説明する。自分がなんのために生きているのかというような問いに対する答えは、他者からの働きかけの中からしか生まれてこない。そして、働きかけてくる他社は地域によりさまざまである。この、働きかけ、働きかけられる世界こそが風土だと言う。
文明の災禍は、人間がもたらした災禍である。人間が道を過たなければこのような災禍はなかった。しかし、災禍はすでにもたらされてしまった。残念なことである。しかし、一方で、人間がもたらしたものであるがゆえに、人間次第で再発を防ぐことができるということでもある。そうであれば、私たちは、震災がもたらした文明の災禍を振り返り、なぜこのようなことが起きたのか、今後、このような災禍がもたらされないためにはどのような社会を形作っていくべきなのかを当然に考えなければならない。本書にはそのための道筋が示されている。

本書の記載の中で私がもっとも重く受け止めたのは、未来の時間を破壊してしまったということである。この事実は重い。先人たちの築いてきたものを未来に中継できない世界を、著者は「恐ろしい世界」だという。過去と未来をつなぎなおすためには、著者が指摘するように、死者と今を生きるものと未来の人間とがひとつながりになるような世界を取り戻すこと、すなわち、風土の再建が、私も重要だと思う。風土の再建を進めるにあたっては、数々の問題がいくらでもあるだろう。しかし、まずは、今後の経済活動や社会活動においては、「新しい風土の再建」を旗印にしてはどうだろう。少なくとも、私は、心の中にこの旗を掲げて日々を営んでいきたい。

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店主

BGM 8:30 / Weather Report

3.06 The Wedding Present, Hit Parade ライブ@渋谷

久しぶりにロックネタです。

先日、3月6日(水)に、The Wedding Presentのライブに行ってきました。
渋谷O'nestです。

昨年に引き続き2年連続。
ありがたいことです。

この日は、Hit Parade 20周年ということで、1992年にマンスリーシングルとしてリリースしたA面曲を全曲、リリース順に演奏するという企画です。
前半は古い曲を中心に数曲、後半は、Hit Paradeの曲、という構成です。

オープニングは、"Yeah Yeah Yeah Yeah Yeah"。
ちょっとびっくりしました。懐かしいです。
こんなかっこいい曲だったかなと改めて見直しました。

あとは、George Bestの曲など、Cinerama以前の曲が中心。
Hit Paradeの前、最後の曲はKennedy。
こんな早い段階で最高潮な感じです。何度聞いても素晴らしい。
ライブは、CDの100倍いいです。

それで、"Blue Eyes"から始まって全12曲。
こうして改めてライブで聴くとこれまでとは違った聴こえ方がします。

"Come Play with Me"は凄く陰影のある味わい深い曲です。
"Flying Saucer"はCDではそんなに目立つ曲ではなかったのですが、ライブでは映えます。特に後半。
"Sticky"は、ゲッジのしぐさとセットで聴く曲です。
といったことなど。
あたりまえですが、演奏を聴かせるところの多い曲はライブで映えます。

今まで、この12曲のうちのベストは"Blue Eyes"でした。
今も、そうですけど、ライブで全曲聴いてみて、同じくらい"Come Play with Me"もいいと思いました。

12月の"No Christmas"で終わりかと思ったら、もう一曲、"Deer Caught In The Headlights"がありました。
これはたまらなかったです。
スタイルは変わっていますので一概に比較はできませんが、楽曲の構成といいますか、奥深さ、味わい深さのレベルは最近の作品のほうが高いと思います。やっぱり。

ゲッジは確実に年を重ねています。
しかし、重ねるほどに味わいが増していく感じです。
背中の丸め方、汗のかき具合、腕の痙攣の仕方、歌う時の表情や仕草など。
どれも、いい感じなのです。不思議なものです。
この道一筋、ウン10年という蓄積が出せる雰囲気なのでしょう。

こんなふうに年を重ねたいものです。

毎度のことながらいいライブでした。
次は近作中心のセットリストのライブを期待します。

Watsusiの20周年というのもやるのでしょうか?

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店主

日本農業のためにできること~「日本農業への正しい絶望法」

続けてブックレビューです。
また、農業関係です。魂の籠ったいい本です。

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「日本農業への正しい絶望法」
神門善久著、新潮新書

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仕事柄、農業に関係する方とのお付き合いが少なくない。生産者、販売者、料理人、支援団体、組合関係者など。加えて、妻の母方の実家は農家でもある。そのため自分は農業者ではないけれど、農業は常に近い存在であり、こうした人たちの関わりに支えられて仕事をしていると、当然、日本の農業が今以上に良い方向に進んで欲しいと望んでいる。

しかし、本書はタイトルに「絶望」という文字があり、「いまの日本農業は、形ばかりのハリボテ化に向かって一目散だ。」というようなネガティブな文で始まるのである。日本の農業は絶望しなければならないほどの状況なのだろうか。新聞や日々のニュースを見ていると、農業はこれまで衰退してきたものの今後は伸びていく産業のひとつのようであり、明るい兆しがあるようにも思える。

本書は、全くそうではないと主張する。まず、重要な問題は耕作技能の消失である。平地が少なく地形が複雑で機械導入のしにくい日本の国土においては、米国や豪州のようなマニュアル依存型の大規模農業ではなく、技能集約型の農業が強みとなる。しかし、この技能がすっかり失われつつあるという。農業における技能とは、「自然という、人間の予想を超えてうつろいやすい環境のもとで、的確な措置によって健康的に動植物を生育させる能力」である。そのため技能の習熟に求められる試行錯誤や科学的知識は幅広く、また、機械の導入によって補える性質のものではない。むしろ、機械導入は技能低下をもたらす。だから、技能習得は一朝一夕にできるものではなく、何年もかかるし、ひとたび失われればそれを回復するには困難が伴う。

農業者が技能の習熟に専念できない理由として、著者は、①農地利用の乱れ、②消費者の舌の劣化、③放射能汚染の大きく3つを指摘する。本来農地は農地法によりその利用を規制されているが、実際にはそうなっておらず、地権者の考えや政治的な圧力などにより農地利用の無秩序化が進んでいる。日本の農業は水利用など近隣の農家同士の協力が不可欠なのだが、個々の農家が思い思いに土地利用をしたのでは、いくら意欲のある農家があっても近隣の「能力や意欲のない者」がその足を引っ張る構図となってしまう。こうしたことを始め、土地利用の乱れが農家の技能習熟を妨げているという。また、消費者はマスコミや「識者」によって伝えられる誤った情報を鵜呑みにし、本当においしいものを判断する能力を削がれてしまっている。消費者がきちんと判断できないということは、おいしいものを作ってもきちんと評価されないということであり、農家は耕作技能を磨く動機づけが減退する。放射能汚染については言わずもがなであろう。安全性が担保されないために出荷できない、あるいは購入してもらえないというのであれば、耕作技能を磨く以前の問題である。こうした要因により現在の日本農業の耕作技能は著しく低下しており、これを回復させることはもはや「おそらく手遅れだ。」と著者は考えている。

絶望的な話である。しかし、そう言いつつ、せめて、僅かな望みではあるけれど、どうすれば技能回復が図られるのかについての提案が示されている。その方策は、自ずと、技能低下をもたらした上記3つの要因の裏返しになる。土地利用の状態を明確にし、農地の利用規定を作成し、それに基づき農地を使ってもらえるようにすること、消費者が意欲をもって本来の味覚を回復すること、農産物の安全性について科学的知見を踏まえて消費者や農業者が議論を重ねること、被災地の土地利用の再計画は拙速を避け移転も含めて考えること等。

本書は、一見すると世の中の大きな流れに逆らうような報告と提言である。それゆえ、刺激的で多くの人の耳目を集めるかもしれないし、あるいは、大勢と異なる見立てということでバッシングに合うかもしれない。しかし、本書の価値は、こうした刺激的な側面ではない。重要なことは、著者が日本農業に対して強い愛情をもっているということである。農業者との交流や食に対する考え方など著者の日本農業に対する熱い思いは本書の端々から染み出てくる。たとえば、次の記述に見られるような食に対する向き合い方などは、食と農に対するこだわりの根っこを示しているように思える。

「よく、人生の幸福はお金ではないとか地位ではないとかいう。では、何が人生の幸福なのだろうか?私は「メシがうまい」というのが、人生の幸福ではないかと思う。」

そのような思いを持つ研究者が、愛する者を甘やかすのではなく、あえて、このような厳しい事実を突き付けているのである。単に人々の興味関心を刺激したいがためではなく、愛を伴った告発である。それゆえに、読者にもその熱量が伝わってくる。

冒頭にも記載したように、私自身は比較的農業に近いところで仕事をさせていただいていると思っている。それゆえに、日本農業が絶望的であるという事実を受け入れることは容易ではない。むしろ、生産者や販売者らとの関係の中で「おいしい農産物」を選ぶ術は身につきつつあると思っているし、実際、食べて「おいしい!」と思える野菜と出会うことも多い(まだまだ舌を鍛える必要はあると思うが)。それだけに、感情として、絶望的であるとか、手遅れだという状況認識を受け入れたくはない。

しかし、幸いにも、本書には僅かな可能性とはいえ、農業技能回復に向けた提案が示されている。しかも、その中には、消費者である我々にできることが、記載されている。きちんとした農産物を見分けられるようになるということ。これは、私自身もそうであるが、自分の周囲に対しても働きかけることができるだろう。どのような農産物がおいしいのか。おいしさの背後には何があるのか。おいしさをわかるようになることがどれほど大切なことなのか。そうしたことを伝えていくことは、できるだろうし、農業関係者の近くにいる自分が、まさに人より余計にできることだし、教育機関に身を置いているということも有利だろう。

著者が言うように既に手遅れなのかもしれないが、私自身、おいしい野菜を食べたいと思う以上、本当に日本農業が消えてしまうまでは、できることを精一杯やっていきたい。

店主

BGM Charly Parker / The Savoy Recording (1944-1948)