「里山資本主義」~本当に大切なもうひとつの資本主義
里山資本主義です。
これは、20年後にエポックメイキングな一冊になっていると思います。
以下、レビューです。

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「里山資本主義」藻谷浩介、NHK広島取材班著(角川oneテーマ21)
里山資本主義というのは、地域コミュニティの中での物々交換や自然からの恵みを享受することなどを通して行われる貨幣を介さない経済の仕組みのことであり、著者らの造語である。本書は、里山資本主義を実践している中国地方の中山間地の人々の取り組みを紹介し、さらに、現行の貨幣を介した経済のサブシステムあるいはバックアップシステムとしてこの仕組みを取り入れていこうと提案する。
本書のこのような提案の背景には、日本社会が、グローバルなマネーの恩恵にすがるしかない「マネー資本主義」に覆われていることに対する危機感がある。マネー資本主義は、金融工学という実態のない「まやかし」に支えられているため、2008年にアメリカの証券会社であるリーマンブラザーズが破たんしたことにより、世界中が一気に金融危機に陥った。このような経済は「やくざな経済」あるいは「マッチョな経済」であると言う。著者は、NHKの「マネー資本主義」という番組の制作を通じて、このような経済の仕組みに疑念を抱くようになり、そこに、さらに2011年3月に東日本大震災が起き、有事にはお金などなんの頼りにもならないという事実を突きつけられる。そのような中、中国地方で元気なおじさんたちと出会う。
おじさんたちは、たとえば、エコストーブという手作りの調理器具を使って煮炊きをしたり、製材の過程で排出される木屑を使ってペレット状の燃料を製造したり、その燃料が使用できるストーブを開発したり、あるいは、木材を鉄筋コンクリートの代替材料として使うことを模索したりしている。さらに、離島では地場の産品を使った高級ジャム屋を営む人や、空き家を活用してデイサービスを運営している人たちもいる。
エコストーブの普及を進める和田芳治氏は、「金を稼ぐという話しになると、どうしても都会には勝てない。でも、金を使わなくても豊かな暮らしができるとなると、里山のほうが、地方のほうが面白いのではないかと私たちは思っています」(p.59)という。マネー資本主義では都市のほうが有利なのかもしれないが、里山資本主義では地方のほうがお得だということだ。
このように本書では、中国地方を中心に海外はオーストリアの実践事例も交えながら、里山資本主義の具体的事例とその効用を紹介しつつ、さらに、社会的あるいは歴史的な背景を踏まえたうえで、里山資本主義によるバックアップシステム構築の必要性と合理性が説明されている。
筆者が本書に感じる意義は大きく2つある。ひとつは、人々に具体的な行動を促しているということである。マネー資本主義に疑問を感じている人は多いと思う。どう考えても自分と何の関係もない米国の証券会社の破たんが日々の日常に影響を及ぼすような社会システムはおかしいだろう。しかし、そう感じていても、では、どうしたらいいのかわからないという人がほとんどではないだろうか。里山資本主義は、そうした人たちへの、こうした方向性もあるのだよ、というひとつの提案になるだろう。本書で述べられているように、エコストーブを使わなくても、エネルギー自給がすぐにできなくても、たとえば日々の買い物の際に「顔の見えるもの」を買うように心がけることや、お店の人と会話をしたり笑顔を交わしたりするなど、都会にいてもすぐにできることはあるのだ。こうした小さな行動の積み重ねこそが、社会を変えていく際には大きな力になる。
もうひとつは、「里山資本主義」という名称を与えたことである。本書に紹介されている事例以外にも、里山資本主義に該当するような取り組みは、おそらくさまざまな手法で全国各地においてなされている。そうした動きに里山資本主義という名称が与えられたことで、世間の理解が進み、活動が一層広がっていくことが期待できる。さまざまな理念のある活動にレッテルを貼ってひとくくりにしてしまうことはよくないという見方もあるかもしれないが、里山資本主義というのは、本書を読む限りにおいては、かなり広範であいまいな要素を含むものであり、旗印のようなものである。そのような名称であれば、それぞれの地域でそれぞれの理念を持ちつつ活動することに制約を与えることはないだろう。それに、何より、里山資本主義というのは、優れたネーミングではないだろうか。
個人的には、今後、貨幣の多寡で評価されるところの経済成長を至上とすることで人々の生活が豊かになっていくとは思えないし、過去20年を振り返ってみても、そのような方向性ではどう考えても早晩行き詰まることは間違いないように思われる。では、どうしたらいいのかということについては、筆者自身は、たとえば、広井良典氏の提示する「創造的福祉社会」あるいは、内山節氏の著書「「里」という思想」に示された考え方、さらには山崎亮氏の島嶼や地方都市でのコミュニティデザインの取り組みなどに大きなヒントがあると感じているものの、それらは、現状の社会に対する一部の人たちによるオルタナティブな取り組みや提案に過ぎず、世の中の大きな変化の方向性を示しているということに共感してくれる人は少ない。
しかし、本書は、マネー資本主義に対するサブシステムあるいはバックアップシステムを形作っていくという現実的な考え方を、しかも、誰もがすぐに実践できる手法を添えて、提示しているのである。現実的であり、誰もが実践可能であるということは、広くその主義が普及していくためには重要な要素である。さらに、里山資本主義というネーミングも秀逸ときている。こうした背景から、本書は、今まで、なんとなく「今の世の中っておかしいよね」と思っていた人たちも巻き込んで、里山資本主義がさらに普及していく契機になるだろう。20年後に振り返ったときに、エポックメイキングな書籍として振り返られるに違いない。そう確信させる一冊。
くじら
これは、20年後にエポックメイキングな一冊になっていると思います。
以下、レビューです。

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「里山資本主義」藻谷浩介、NHK広島取材班著(角川oneテーマ21)
里山資本主義というのは、地域コミュニティの中での物々交換や自然からの恵みを享受することなどを通して行われる貨幣を介さない経済の仕組みのことであり、著者らの造語である。本書は、里山資本主義を実践している中国地方の中山間地の人々の取り組みを紹介し、さらに、現行の貨幣を介した経済のサブシステムあるいはバックアップシステムとしてこの仕組みを取り入れていこうと提案する。
本書のこのような提案の背景には、日本社会が、グローバルなマネーの恩恵にすがるしかない「マネー資本主義」に覆われていることに対する危機感がある。マネー資本主義は、金融工学という実態のない「まやかし」に支えられているため、2008年にアメリカの証券会社であるリーマンブラザーズが破たんしたことにより、世界中が一気に金融危機に陥った。このような経済は「やくざな経済」あるいは「マッチョな経済」であると言う。著者は、NHKの「マネー資本主義」という番組の制作を通じて、このような経済の仕組みに疑念を抱くようになり、そこに、さらに2011年3月に東日本大震災が起き、有事にはお金などなんの頼りにもならないという事実を突きつけられる。そのような中、中国地方で元気なおじさんたちと出会う。
おじさんたちは、たとえば、エコストーブという手作りの調理器具を使って煮炊きをしたり、製材の過程で排出される木屑を使ってペレット状の燃料を製造したり、その燃料が使用できるストーブを開発したり、あるいは、木材を鉄筋コンクリートの代替材料として使うことを模索したりしている。さらに、離島では地場の産品を使った高級ジャム屋を営む人や、空き家を活用してデイサービスを運営している人たちもいる。
エコストーブの普及を進める和田芳治氏は、「金を稼ぐという話しになると、どうしても都会には勝てない。でも、金を使わなくても豊かな暮らしができるとなると、里山のほうが、地方のほうが面白いのではないかと私たちは思っています」(p.59)という。マネー資本主義では都市のほうが有利なのかもしれないが、里山資本主義では地方のほうがお得だということだ。
このように本書では、中国地方を中心に海外はオーストリアの実践事例も交えながら、里山資本主義の具体的事例とその効用を紹介しつつ、さらに、社会的あるいは歴史的な背景を踏まえたうえで、里山資本主義によるバックアップシステム構築の必要性と合理性が説明されている。
筆者が本書に感じる意義は大きく2つある。ひとつは、人々に具体的な行動を促しているということである。マネー資本主義に疑問を感じている人は多いと思う。どう考えても自分と何の関係もない米国の証券会社の破たんが日々の日常に影響を及ぼすような社会システムはおかしいだろう。しかし、そう感じていても、では、どうしたらいいのかわからないという人がほとんどではないだろうか。里山資本主義は、そうした人たちへの、こうした方向性もあるのだよ、というひとつの提案になるだろう。本書で述べられているように、エコストーブを使わなくても、エネルギー自給がすぐにできなくても、たとえば日々の買い物の際に「顔の見えるもの」を買うように心がけることや、お店の人と会話をしたり笑顔を交わしたりするなど、都会にいてもすぐにできることはあるのだ。こうした小さな行動の積み重ねこそが、社会を変えていく際には大きな力になる。
もうひとつは、「里山資本主義」という名称を与えたことである。本書に紹介されている事例以外にも、里山資本主義に該当するような取り組みは、おそらくさまざまな手法で全国各地においてなされている。そうした動きに里山資本主義という名称が与えられたことで、世間の理解が進み、活動が一層広がっていくことが期待できる。さまざまな理念のある活動にレッテルを貼ってひとくくりにしてしまうことはよくないという見方もあるかもしれないが、里山資本主義というのは、本書を読む限りにおいては、かなり広範であいまいな要素を含むものであり、旗印のようなものである。そのような名称であれば、それぞれの地域でそれぞれの理念を持ちつつ活動することに制約を与えることはないだろう。それに、何より、里山資本主義というのは、優れたネーミングではないだろうか。
個人的には、今後、貨幣の多寡で評価されるところの経済成長を至上とすることで人々の生活が豊かになっていくとは思えないし、過去20年を振り返ってみても、そのような方向性ではどう考えても早晩行き詰まることは間違いないように思われる。では、どうしたらいいのかということについては、筆者自身は、たとえば、広井良典氏の提示する「創造的福祉社会」あるいは、内山節氏の著書「「里」という思想」に示された考え方、さらには山崎亮氏の島嶼や地方都市でのコミュニティデザインの取り組みなどに大きなヒントがあると感じているものの、それらは、現状の社会に対する一部の人たちによるオルタナティブな取り組みや提案に過ぎず、世の中の大きな変化の方向性を示しているということに共感してくれる人は少ない。
しかし、本書は、マネー資本主義に対するサブシステムあるいはバックアップシステムを形作っていくという現実的な考え方を、しかも、誰もがすぐに実践できる手法を添えて、提示しているのである。現実的であり、誰もが実践可能であるということは、広くその主義が普及していくためには重要な要素である。さらに、里山資本主義というネーミングも秀逸ときている。こうした背景から、本書は、今まで、なんとなく「今の世の中っておかしいよね」と思っていた人たちも巻き込んで、里山資本主義がさらに普及していく契機になるだろう。20年後に振り返ったときに、エポックメイキングな書籍として振り返られるに違いない。そう確信させる一冊。
くじら
「社会を変える仕事をしよう」~これからの働き方のヒント
いい本に出会ったので、また、ブックレビューです。
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「社会を変える仕事をしよう」佐野章二著(日本実業出版社)

「ビッグイシュー」という雑誌がある。雑誌なのに本屋では買えないという、ちょっと変わった雑誌だ。「ビッグイシュー」は、路上でホームレスの人たちの手により販売されている。私はこの雑誌の愛読者であり、妻がいつも渋谷の勤務先近くで購入してくるのを毎号楽しみに読んでいる(今のところ、自分の通勤の途上に販売場所がないので)。なぜホームレスが販売しているのかというと、この雑誌は、普通の雑誌と違って、単に情報を紙媒体に載せて発信することだけが目的ではなく、ホームレスの自立支援のために発行されているからだ。毎号の表紙には「ホームレスの仕事をつくり自立を応援する」と書かれており、販売価格300円のうち、160円を販売者の収入にすることにより、ホームレスに仕事を提供するという仕組みだ。私はもうずいぶん長く読んでいるので、すっかりメジャーになっていると思っていたのだが、先日、私の授業を履修している学生約60人に聞いたところ、ビッグイシューを知っていたのは数人であり、まだまだ知る人ぞ知る雑誌という現状のようである。
著書の佐野章二氏は、このビッグイシューの運営を行っている有限会社ビッグイシュー日本の創業者であり社長だ。本書は、ビッグイシューの創業から現在に至るまでの過程をたどりながら、その経験を踏まえたうえで、社会的課題の解決を目的とした社会的企業の創り方や運営の仕方などについて、多少ノウハウ的なことも含めて紹介している。著者が目指すのは、「一人ひとりに出番と居場所がある社会」をつくることであり、そのことを実現させるためにビッグイシューの事業を行っている。また、本書のタイトルにあるように「社会を変える仕事をしよう」というメッセージも、「居場所と出番を中心になってつくるのは市民活動であり、NPOである」という考えに基づいており、そこにつながっていく。
本書には、社会的企業あるいは市民活動に関わっていく際に必要と思われるさまざまな要素が、自身の経験を踏まえて紹介されているのだが、読んでいると、これは、別に社会的企業に限らず、これからの日本社会において、あらゆる領域の仕事に求められる性質のものではないかと感じられる。
たとえば、情報収集に際して必要なこととして「とにかく、人に会い、真剣に問い、現場に足を運び、現場で考えることに尽きる。」(p.42)と述べている。また、新規事業の扱いについては、「その事業がすでに社会にあれば、それを活用すればいい。一方で、社会にないときには、自分たちが別に新たな事業体をつくればいい、と考えている。ビッグイシュー自体を大きくする必要はないのだ。」(p.35)と述べており、事業規模を拡大すること自体には意味がないと言う。さらに、周囲の協力を得るために必要なこととして、「誠実で、率直であることしかない」(p.112)と言い切る。こうしたことは、あらゆる仕事において当然のことというわけではないだろう。たとえば、現場にいちいち足を運ぶよりも知っている人から話を聞くとか、調査報告書を入手するといった方法で効率的に情報を得ることが重要だという仕事もあるだろうし、規模を拡大しないと成立しないビジネスもあるだろう。また、誠実で率直であるよりも策略が重要だという考え方もあるかもしれない。
しかし、現在は、戦後から続いてきた成長型の社会から、成熟型の社会に変換していく過渡期だ。あらゆる社会的事象に一般解はなく、また、成長のみが唯一の価値基準ではなくなりつつあり、企業が雇用を維持しきれなくなっているというような状況においては、著者が指摘するような事柄の重要性が増してくるのは確かなことのように思われる。
実際、本書において著者は、社会的企業と普通の企業の間には隔たりはなく、両者はどんどん近づいていると述べている。そうであれば、「社会を変える仕事をしよう」というメッセージが求める行動は、あらゆる働き方に適用できるということも必然だということが理解できる。
だから、本書は社会的企業とか市民活動に今のところ関心はないという人にとっても読む価値は十分にある。たとえば、社会的企業に求められる働き方を参照しながら、自分自身の仕事を振り返る機会としてはどうだろう。おそらく、さまざまな場面で、働く際に求められる要素が、変化していること、あるいは、変化の兆しがあることに気付くのではないだろうか。
本書がこのような性質を宿しているのは、著者が単に目の前の社会的課題のみに向き合ってビジネスを進めているのではなく、社会全体を大きな視野で捉え、そのうえで、必要と考えられることを形にしているというその思考の過程に起因するのだと思う。そのような事業家の書いた実践事例であるゆえに、単なる事例紹介ではなく、今の日本社会において普遍的なさまざまな要素が抽出されている。
社会を変えることと仕事との間に特段の繋がりを見いだせない職業人と、これから社会に出ていく学生に、ぜひ読んで欲しい一冊。
店主
BGM 喜納昌吉&チャンプルーズ
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「社会を変える仕事をしよう」佐野章二著(日本実業出版社)

「ビッグイシュー」という雑誌がある。雑誌なのに本屋では買えないという、ちょっと変わった雑誌だ。「ビッグイシュー」は、路上でホームレスの人たちの手により販売されている。私はこの雑誌の愛読者であり、妻がいつも渋谷の勤務先近くで購入してくるのを毎号楽しみに読んでいる(今のところ、自分の通勤の途上に販売場所がないので)。なぜホームレスが販売しているのかというと、この雑誌は、普通の雑誌と違って、単に情報を紙媒体に載せて発信することだけが目的ではなく、ホームレスの自立支援のために発行されているからだ。毎号の表紙には「ホームレスの仕事をつくり自立を応援する」と書かれており、販売価格300円のうち、160円を販売者の収入にすることにより、ホームレスに仕事を提供するという仕組みだ。私はもうずいぶん長く読んでいるので、すっかりメジャーになっていると思っていたのだが、先日、私の授業を履修している学生約60人に聞いたところ、ビッグイシューを知っていたのは数人であり、まだまだ知る人ぞ知る雑誌という現状のようである。
著書の佐野章二氏は、このビッグイシューの運営を行っている有限会社ビッグイシュー日本の創業者であり社長だ。本書は、ビッグイシューの創業から現在に至るまでの過程をたどりながら、その経験を踏まえたうえで、社会的課題の解決を目的とした社会的企業の創り方や運営の仕方などについて、多少ノウハウ的なことも含めて紹介している。著者が目指すのは、「一人ひとりに出番と居場所がある社会」をつくることであり、そのことを実現させるためにビッグイシューの事業を行っている。また、本書のタイトルにあるように「社会を変える仕事をしよう」というメッセージも、「居場所と出番を中心になってつくるのは市民活動であり、NPOである」という考えに基づいており、そこにつながっていく。
本書には、社会的企業あるいは市民活動に関わっていく際に必要と思われるさまざまな要素が、自身の経験を踏まえて紹介されているのだが、読んでいると、これは、別に社会的企業に限らず、これからの日本社会において、あらゆる領域の仕事に求められる性質のものではないかと感じられる。
たとえば、情報収集に際して必要なこととして「とにかく、人に会い、真剣に問い、現場に足を運び、現場で考えることに尽きる。」(p.42)と述べている。また、新規事業の扱いについては、「その事業がすでに社会にあれば、それを活用すればいい。一方で、社会にないときには、自分たちが別に新たな事業体をつくればいい、と考えている。ビッグイシュー自体を大きくする必要はないのだ。」(p.35)と述べており、事業規模を拡大すること自体には意味がないと言う。さらに、周囲の協力を得るために必要なこととして、「誠実で、率直であることしかない」(p.112)と言い切る。こうしたことは、あらゆる仕事において当然のことというわけではないだろう。たとえば、現場にいちいち足を運ぶよりも知っている人から話を聞くとか、調査報告書を入手するといった方法で効率的に情報を得ることが重要だという仕事もあるだろうし、規模を拡大しないと成立しないビジネスもあるだろう。また、誠実で率直であるよりも策略が重要だという考え方もあるかもしれない。
しかし、現在は、戦後から続いてきた成長型の社会から、成熟型の社会に変換していく過渡期だ。あらゆる社会的事象に一般解はなく、また、成長のみが唯一の価値基準ではなくなりつつあり、企業が雇用を維持しきれなくなっているというような状況においては、著者が指摘するような事柄の重要性が増してくるのは確かなことのように思われる。
実際、本書において著者は、社会的企業と普通の企業の間には隔たりはなく、両者はどんどん近づいていると述べている。そうであれば、「社会を変える仕事をしよう」というメッセージが求める行動は、あらゆる働き方に適用できるということも必然だということが理解できる。
だから、本書は社会的企業とか市民活動に今のところ関心はないという人にとっても読む価値は十分にある。たとえば、社会的企業に求められる働き方を参照しながら、自分自身の仕事を振り返る機会としてはどうだろう。おそらく、さまざまな場面で、働く際に求められる要素が、変化していること、あるいは、変化の兆しがあることに気付くのではないだろうか。
本書がこのような性質を宿しているのは、著者が単に目の前の社会的課題のみに向き合ってビジネスを進めているのではなく、社会全体を大きな視野で捉え、そのうえで、必要と考えられることを形にしているというその思考の過程に起因するのだと思う。そのような事業家の書いた実践事例であるゆえに、単なる事例紹介ではなく、今の日本社会において普遍的なさまざまな要素が抽出されている。
社会を変えることと仕事との間に特段の繋がりを見いだせない職業人と、これから社会に出ていく学生に、ぜひ読んで欲しい一冊。
店主
BGM 喜納昌吉&チャンプルーズ
「わかりあえないことから」~成熟社会のコミュニケーション
このところブックレビューばかりで、看板に偽りあり、の状態です。
いずれ、ロック喫茶的記事も書きますのでご容赦のほど。
これは、7月の読書会の課題図書でした。
いや、淡々と、コミュニケーションにまつわるあれこれが脈絡なく書かれているようですが、明日の社会を見越した重要なメッセージです。
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「わかりあえないことから」平田オリザ著(講談社新書)

「コミュニケーション能力とは何か」という副題がついているために、コミュニケーション能力を高めるためのノウハウ本のような印象を受けるがそうではない。著者がそんな本を書くわけがない。本書の題名は「わかりあえないことから」である。通常、コミュニケーションは、「わかりあう」ことを目的とした行為と考えられている。しかし、著者は、そもそもそのことがおかしいのではないかと考える。人は、お互いにわかりあえない。本書は、ここを出発点にし、著者のこれまでの劇作家および演出家としての経験や大学での研究を通じて得た知見に基づいた、コミュニケーションについての論考である。
全体は8つの章に分けられており、なんとなく、1章は導入、終章は提言という形をとっているものの、明確な構成はなく、それぞれ、事例の紹介とともに、コミュニケーションのあり方についてさまざまな角度から論じている。
たとえば、著者は、企業が新入社員に求めるコミュニケーション能力は相矛盾するものであることを指摘する。企業が求めるコミュニケーション能力のひとつは、異文化理解能力であり、要約すれば、「異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見出すことができる。」(p16)能力のことである。その一方で、「「上司の意図を察して機敏に行動るす」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力」も求められている。両方を満たすことは、不可能であり、企業は矛盾する要求をつきつけているのである。このように相容れない2つの要求にからめとられている状態をダブルバインドと呼ぶ。このダブルバインドは、新入社員だけでなく、日本社会全体を覆っており、そのような状態において、ニートや引きこもりが増えるのは当然ではないかと著者は指摘する。
また、著者は、伝える技術を教えたところで、伝えたいという気持ちがなければ、伝える技術は身につかないと言う。では、伝えたいという気持ちになるにはどうしたらいいのか。そのためには、伝わらないという経験をするしかない。そして、その経験を得るために、「とにかく、自分と価値観やライフスタイルの違う「他者」と接触する機会を、シャワーを浴びるように増やしていかなければならない」と言う。伝える技術を身につけるためには、まず、他者と接することが必要なのだと説く。
さらに、今後の目指すべき方向性として、「協調性から社交性」というフレーズを掲げ、「だから、新しい時代には、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」が求められる」と提言する。その際、わかりあえることを前提とするのではなく、わかりあえない人間同士がどうにかして共有できる部分をみつけるというスタンスが重要になる。そのためには限られた時間内でイメージを共有することを要求する演劇の手法が有用だと言う。
このようなコミュニケーション教育に対する著者の考え方には、全体として、私は非常に共感する。そして、その根底には、著者の社会認識への共感がある。実は、この根底部分の共感がコミュニケーションということに関しては重要だと考える。なぜなら、コミュニケーションというのは、人と人との間に生まれるものであり、社会的な営みであり、それゆえに、社会をどのように捉えるかによって、そこに求めるものは変わってくるからである。だから、社会認識が違えば、コミュニケーションに対する考え方も自ずと変わってくることになる。
そうした社会認識の上になされている論考であるから、当然のこととして、たとえば、企業が求めるから、あるいは、就職に必要だからコミュニケーション教育を取り入れていきましょう、というような短絡的な話でもない。まず、大きな社会の見取り図があって、その中に、演劇やコミュニケーション教育に携わってきた専門家である著者の考えが位置づいているのである。そして、私は、著者が描くその「大きな社会の見取り図」に共感する。
本書に示されている著者の社会認識とは、具体的には、たとえば次のようなことである。
「明治以降100年、日本は大きな国家目標があり、その国家目標に従って生きていれば、たいていの人が幸せになれるような社会を目指してきた。富国強兵、臥薪嘗胆、戦後復興、高度成長・・・・。(中略)しかし、残念ながら、そのようなさや会が幻想に過ぎなかったということを、この20年で私たちは痛いほど思い知らされた。」(p.202)
こうした前提において、現在は、成長型の社会から成熟型の社会への転換期ととらえ、成熟型社会では多様性が求められるようになると言う。このような転換期においては、育むべきコミュニケーション能力も変わってくるのであり、また、意識的に変えていかなければならないと著者は主張する。たとえば、少子化、核家族化の社会を作ってしまったがゆえに、かつての子どもたちが経験できたことを、今は経験できなくなっており、それゆえに、これまでの社会で経験できたさまざまな社会教育の機能や慣習を公教育のシステムに組み込んでいかざるを得ないことなどを指摘している。
この根底の部分、すなわち、著者の社会認識に共感できないと、おそらく、著者の主張は単なる専門家の専門領域における自己主張のひとつに過ぎず、普遍性をもった主張として受け入れることは難しいだろう。本書は、冒頭に記載したようにノウハウ本ではない。しかし、本書に取り上げられているいくつもの事例や考え方は、学校、家庭、地域社会、職場などにおいておおいに参考になるだろう。いくつもの新しい視点を提供してくれる。ただし、その際、土台にある著者の社会認識をしっかり確認し、共有したうえでないと、それは、うわべだけの模倣であり、真に実のある取り組みにはならないだろう。本書の最後に著者は次のように記している。
「しかし、言語やコミュニケーションの変化は、強い保守性を伴うから、敗戦や植民地支配のようなよほどの外圧でもない限り、一朝一夕に大きく変わるというものでもない。」(p.222)
要するに、時間がかかるということである。コミュニケーション教育の改革には、そのような覚悟をもって取り組まなければならないし、その覚悟がないのであれば、それは、まるで無駄な取り組みだと言わざるを得ない。その覚悟をもって著者の主張の一部でも、実践していきたいと考える。
店主
BGM Early Ellington (1927-1934) (album) / Duke Ellington and His Orchestra
いずれ、ロック喫茶的記事も書きますのでご容赦のほど。
これは、7月の読書会の課題図書でした。
いや、淡々と、コミュニケーションにまつわるあれこれが脈絡なく書かれているようですが、明日の社会を見越した重要なメッセージです。
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「わかりあえないことから」平田オリザ著(講談社新書)

「コミュニケーション能力とは何か」という副題がついているために、コミュニケーション能力を高めるためのノウハウ本のような印象を受けるがそうではない。著者がそんな本を書くわけがない。本書の題名は「わかりあえないことから」である。通常、コミュニケーションは、「わかりあう」ことを目的とした行為と考えられている。しかし、著者は、そもそもそのことがおかしいのではないかと考える。人は、お互いにわかりあえない。本書は、ここを出発点にし、著者のこれまでの劇作家および演出家としての経験や大学での研究を通じて得た知見に基づいた、コミュニケーションについての論考である。
全体は8つの章に分けられており、なんとなく、1章は導入、終章は提言という形をとっているものの、明確な構成はなく、それぞれ、事例の紹介とともに、コミュニケーションのあり方についてさまざまな角度から論じている。
たとえば、著者は、企業が新入社員に求めるコミュニケーション能力は相矛盾するものであることを指摘する。企業が求めるコミュニケーション能力のひとつは、異文化理解能力であり、要約すれば、「異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見出すことができる。」(p16)能力のことである。その一方で、「「上司の意図を察して機敏に行動るす」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力」も求められている。両方を満たすことは、不可能であり、企業は矛盾する要求をつきつけているのである。このように相容れない2つの要求にからめとられている状態をダブルバインドと呼ぶ。このダブルバインドは、新入社員だけでなく、日本社会全体を覆っており、そのような状態において、ニートや引きこもりが増えるのは当然ではないかと著者は指摘する。
また、著者は、伝える技術を教えたところで、伝えたいという気持ちがなければ、伝える技術は身につかないと言う。では、伝えたいという気持ちになるにはどうしたらいいのか。そのためには、伝わらないという経験をするしかない。そして、その経験を得るために、「とにかく、自分と価値観やライフスタイルの違う「他者」と接触する機会を、シャワーを浴びるように増やしていかなければならない」と言う。伝える技術を身につけるためには、まず、他者と接することが必要なのだと説く。
さらに、今後の目指すべき方向性として、「協調性から社交性」というフレーズを掲げ、「だから、新しい時代には、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」が求められる」と提言する。その際、わかりあえることを前提とするのではなく、わかりあえない人間同士がどうにかして共有できる部分をみつけるというスタンスが重要になる。そのためには限られた時間内でイメージを共有することを要求する演劇の手法が有用だと言う。
このようなコミュニケーション教育に対する著者の考え方には、全体として、私は非常に共感する。そして、その根底には、著者の社会認識への共感がある。実は、この根底部分の共感がコミュニケーションということに関しては重要だと考える。なぜなら、コミュニケーションというのは、人と人との間に生まれるものであり、社会的な営みであり、それゆえに、社会をどのように捉えるかによって、そこに求めるものは変わってくるからである。だから、社会認識が違えば、コミュニケーションに対する考え方も自ずと変わってくることになる。
そうした社会認識の上になされている論考であるから、当然のこととして、たとえば、企業が求めるから、あるいは、就職に必要だからコミュニケーション教育を取り入れていきましょう、というような短絡的な話でもない。まず、大きな社会の見取り図があって、その中に、演劇やコミュニケーション教育に携わってきた専門家である著者の考えが位置づいているのである。そして、私は、著者が描くその「大きな社会の見取り図」に共感する。
本書に示されている著者の社会認識とは、具体的には、たとえば次のようなことである。
「明治以降100年、日本は大きな国家目標があり、その国家目標に従って生きていれば、たいていの人が幸せになれるような社会を目指してきた。富国強兵、臥薪嘗胆、戦後復興、高度成長・・・・。(中略)しかし、残念ながら、そのようなさや会が幻想に過ぎなかったということを、この20年で私たちは痛いほど思い知らされた。」(p.202)
こうした前提において、現在は、成長型の社会から成熟型の社会への転換期ととらえ、成熟型社会では多様性が求められるようになると言う。このような転換期においては、育むべきコミュニケーション能力も変わってくるのであり、また、意識的に変えていかなければならないと著者は主張する。たとえば、少子化、核家族化の社会を作ってしまったがゆえに、かつての子どもたちが経験できたことを、今は経験できなくなっており、それゆえに、これまでの社会で経験できたさまざまな社会教育の機能や慣習を公教育のシステムに組み込んでいかざるを得ないことなどを指摘している。
この根底の部分、すなわち、著者の社会認識に共感できないと、おそらく、著者の主張は単なる専門家の専門領域における自己主張のひとつに過ぎず、普遍性をもった主張として受け入れることは難しいだろう。本書は、冒頭に記載したようにノウハウ本ではない。しかし、本書に取り上げられているいくつもの事例や考え方は、学校、家庭、地域社会、職場などにおいておおいに参考になるだろう。いくつもの新しい視点を提供してくれる。ただし、その際、土台にある著者の社会認識をしっかり確認し、共有したうえでないと、それは、うわべだけの模倣であり、真に実のある取り組みにはならないだろう。本書の最後に著者は次のように記している。
「しかし、言語やコミュニケーションの変化は、強い保守性を伴うから、敗戦や植民地支配のようなよほどの外圧でもない限り、一朝一夕に大きく変わるというものでもない。」(p.222)
要するに、時間がかかるということである。コミュニケーション教育の改革には、そのような覚悟をもって取り組まなければならないし、その覚悟がないのであれば、それは、まるで無駄な取り組みだと言わざるを得ない。その覚悟をもって著者の主張の一部でも、実践していきたいと考える。
店主
BGM Early Ellington (1927-1934) (album) / Duke Ellington and His Orchestra