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「地球倫理」~新しい時代のコンセプト

広井良典先生の新作のレビューです。

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「人口減少社会という希望」広井良典著(朝日新聞出版)

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戦後の日本は経済成長を旗印にかかげ、発展を遂げてきた。経済成長により、雇用は拡大し、ひとびとの生活も豊かになったと考えられてきた。しかし、現在、市場にはモノがあふれており、消費は進まず、経済活動は停滞している。その結果、企業も雇用を守れなくなり、失業や非正規雇用が増加している。こうした状況に加え、今後は人口が減少していくことが見込まれており、従来のように経済成長のみにより頼んだ社会の発展は見込めない。こうした社会認識に立ったうえで、著者は、現在を含む来たるべき時代を「定常型社会」ととらえ、そのような時代においては、地域コミュニティを結節点とし、福祉と環境と経済が相乗効果を生むような関係を形作っていくことが必要であるという。こうした考えが、著者のここ数年の一連の著作(「コミュニティを問いなおす」、「創造的福祉社会」、「定常型社会」など)の土台にある。本書は、この「定常型社会」というコンセプトにもとづく論考の集大成的なものといえる。

前半は、これまでの議論をとりまとめたもので、人口減少社会においては、「コミュニティ経済」、すなわち、地域の中で循環する経済の重要性が増すと説明する。近江商人の家訓や渋沢栄一の論考を引用し、そもそも、経済と地域コミュニティは異質なものではなく、経済の中には相互扶助的な要素が含まれていたのであり、それゆえ、「コミュニティ経済」は目新しい概念ではなく、むしろ、かつてあった経済とコミュニティの関係を取り戻していく営みだという。ただし、コミュニティや自然に関する経済活動は、長期の時間軸に関わるものであり、短期の効用のみを追求する市場経済の物差しではその価値が十分に評価されない点に留意すべきであり、それゆえ、公共政策が重要になる。

コミュニティ経済の重要性が高まるということ、あるいは、それが「これからの時代の基本的な潮流になっていく」ということはおおいに共感するし、私自身がさまざまな地域活動に関わる中で確かにそのような方向に進んでいる兆しを感じている。

ここまでは、おおむね、従来の論考の整理といった趣であるが、新たな内容として、著者自身の実践である「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」が紹介されている。これは、その名前のとおり、地域コミュニティの拠点であった鎮守の森を自然エネルギーの拠点にしようという取り組みである。一見、突飛なように思われるが、歴史、コミュニティ、環境、哲学など幅広い視野でものを見ている著者ならではの発想と取り組みだと感じる。


本書の圧巻は、第Ⅱ部の「地球倫理」というコンセプトの関する論考である。宇宙ではなく、地域でもなく、国家でもなく、「地球」である。話は「古事記」の生命論にはじまり、科学の限界に関する指摘、統合医療の可能性など、一見ばらばらな断片が並べられ、本題の「地球倫理」の説明へとつながっていく。この一連の流れは、おそらく、著者の頭のなかではしっくりきていると思うのだが、すんなりとは着いていけない。

「地球倫理」の説明は、まず、人類史、特にその精神史を振り返ることから始まる。人類史においては、現在を含め、これまで3度の定常期があるという。過去2回の定常期には、いずれも、根源的な思想あるいは意識の大きな変革が生じており、それぞれ、「自然信仰」と「普遍宗教」(仏教、ユダヤ・キリスト教、儒教、ギリシャ思想)が相当する。そして、今迎えている3度目の定常期における根源的な思想が、「地球倫理」である。

3度目の定常期である現在においては、「普遍宗教」はリージョナルに生成したものであり、グローバルには普遍性を持ちえないこと、すなわち、「普遍宗教」はいずれもそれぞれが生まれた風土・環境に規定されたものであることを理解しつつ、共存を積極的に認めることが求められる。それは、いわば、個々の普遍宗教を超えた「地球的公共性」というべきものだ。さらに、「地球倫理」は、第1の定常期に生成した「自然信仰」に直接的につながるでもある。ごくおおざっぱに説明すれば、これが、著者の提唱する「地球倫理」である。

相変わらず壮大な視点からの論考であり、このことを、実感をともなって理解することは難しい。しかし、グローバル化が進んだ現代においては、「普遍宗教」がリージョナルな特性をもっていることを理解することは必要であろうし、また、その土台にある「自然信仰」につながることで、相互理解が可能になることもなんとなく想像はできる。

著者は、この「地球倫理」が、これからの時代における基本コンセプトになるという。このことについては、「確かにそうだ」という確信ではなく、「そういうことなんだ」、とかろうじて納得ができるというのが正直な感想である。とにかく、視野が広く、にわかには現実味をもって考えることが難しい。しかし、時代の基本コンセプトというのは、なんとなくできるものではなく、やはり、著者のような優れた知性からの発露が必要なのだと思う。

世の中に対する認識、これからの社会像の構想など、著者の思索には私自身は共感するところが多い。そうであれば、まずは、この基本コンセプト、「地球倫理」を受け入れてみたいと思う。少なくとも、成長・拡大の時代のように、「経済成長」を引き続き神の座に留めておくことはできない。


店主

BGM Thad Jones / The Magnificent Thad Jones Vol.3

「忘れられた日本人」に学ぶ

宮本常一の「忘れられた日本人」(岩波文庫)を読みました。
昭和を代表する民俗学者の名著です。

$ISSE

本書は戦前の昭和10年代前半に主に西日本の農村部の古老への聞き取りに基づき、明治から昭和前半にかけての農村のひとびとの暮らしが綴られています。
ボイスレコーダーもない時代に丁寧に聞き取りがなされていることに驚きますが、もっと驚くのは、当時の暮らしの中に今も適用可能な、というか、今だからこそ適用できる行為や思想がたくさんあるということです。
いや、ヒントになるとかとういうレベルではなく、これを忘れ去ってきたがために今、いろんな問題が起きているのでは、と思わざるを得ないようなことです。

たとえば、「この人たちの生活に秩序をあたえているものは、村の中の、また家の中の人と人との結びつきを大切にすることであり、目に見えぬ神を裏切らぬことであった。」(p.289)とあります。
地域の繋がりや、神様との繋がりが、人々の生活に秩序を与えているということです。
戦後の日本は、こうしたものを後回しにして、あるいは、積極的に取るに足らないものとみなして、経済成長を遂げてきたのです。
その結果起きているのが、孤独死や、メンタルヘルス、ホームレスの問題だったりするのではないでしょうか。

このほか、「文字を解する者はいつも広い世間と自分の村を対比して物を見ようとしている。と同時に外から得た知識を村へ入れようとするとき皆深い責任感を持っている。それがもたらす効果の前に悪い影響について考える。」(p.271)とあります。
新規な科学技術を礼賛してなんでも取り入れて、人々の生活を便利にしてきたのがこれまでの社会です。しかし、その前に考えるべきことがあるだろうということです。
もたらされる恩恵を考える前に、悪い影響について考える。
この謙虚さがあれば、もう少し違った世の中になっていたのではと思わざるを得ません。原発とか。今もって、必要な姿勢でしょう。

それから、子どもの遊びについての記述。
「そのカニのはさみをもぎとると「ハサミはカニの手じゃけえ、手がないと物がくえん、ハサミはもぐなよ」といましめたものである。」(p.206)
これは、いのちに対するまなざしに関することです。
子どもたちがカニと遊ぶことはおとなたちも咎めません。しかし、小さくても命であり、その命はいつくしまねばならないということです。
今は強者の理論ばかりが優先される世の中です。親が無抵抗な子どもを虐待したりという事件があります。一部の地域の犠牲のうえに都市の生活が成り立っています。
弱者を大切にする気持ち、命に対する尊厳は、子どもの遊びの中にあるこのような小さなやりとりが育んでいたのでしょう。

また、公共事業に関して、「そういう村では、村共同体の事業や一斉作業がきわめて多かった。山仕事、磯仕事、道つくり、祭礼、法要、農作業、公役奉仕など、古風を多くのこす対馬の場合など、こうした共同事業・一斉作業・公役などについやす日数が年間百日内外に達すると思われる。」(p.54)とあります。
これは、今も地方に行くとあることでしょう。公共事業を地域の人たちがやるということです。民間非営利活動です。NPOですね。
必要なことはお上がやるという発想ではなく、自分たちでやる。「新しい公共」なんて言葉が数年前にありましたが、ちっとも新しくなかったということです。

ほかにもたくさんあります。

まるで、今の僕らに向けて書かれているようで驚きます。
あの時代には戻れませんが、学ぶことはたくさんあります。
読み継がなければなりません。



店主

BGM Sentimental Journey / Jackie McLean

「科学の限界」池内了著

久しぶりのブックレビューです。

このごろ考えていることにフィットするテーマで、いいタイミングで出会えました。
どんなふうに出会うかも重要ですね。

レビューというより、もはや感想文になっていますが・・。


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「科学の限界」池内了著(ちくま新書/2012年)

科学技術の進展が本当に人類にとってよいものなのだろうかということを、このごろよく考える。もっともわかりやすく、かつ、我々にとって喫緊の課題としては原発が思い浮かぶだろう。科学技術の進展の成果である原発が、大きな災禍をもたらしたのだ。原発がもたらした恩恵と災禍を比べたときに、どちらが大きいかを簡単に結論づけることはできないだろう。だから、大規模な反原発デモが起きる一方で、首相が「再稼働が必要」と明言するという状況になっているのだ。そのほかにも、最近読んだ小説「何者」(朝井リョウ著)では、就職活動をしている大学生たちがインターネットやSNSといった技術に苦しめられる様子が描かれている。この小説を読むとインターネットがなかった時代の就職活動のほうが今よりはるかに幸せだったと思わざるをえない。ほかにも、振り込め詐欺が後を絶たないが、携帯電話とATMが開発されなければ、このような事件は起きようがないのである。しかし、ATMも携帯電話も便利な道具であり、人々の生活の役に立っているのは事実である。こういうことはあげればいくつも出てくるだろう。

では、科学の進展にストップをかければいいのかというと、そうはなかなか言い切れない。多くの人は、ATMや携帯電話のない生活には後戻りはできないだろうし、人間の知的欲求や探究心は、たとえ止められても科学を進展させていくだろう。ではどうすればいいのか。そんなことを漠然と考えていた時に、本書を読んだ。

タイトルは「科学の限界」である。科学には限界がある、あるいは、限界があるかもしれないというテーマである。科学に限界があるということについては、これまで特に考えもしなかったが、しかし、限界があるから、恩恵を超えた災禍がもたらされるのだと考えると、科学の限界にきちんと向き合うことは、今後の科学との付き合い方を考えるうえで必要なのではないだろうか。そんなことを考えながら本書を読んだ。

本書の目的は、「何が科学・技術の限界を決めているのか、それは克服できるのか、克服できるとすれば現在の私たちに何が欠けているのか、克服できないとすれば今後、科学・技術とどう付き合っていくのか」を考えることであり、そのうえで、いくつかの側面から科学の限界について言及している。ひとつは、人間が生み出す科学の限界、すなわち、科学を扱うのが人間であることによりもたらされる限界があること。また、国家がスポンサーとなって社会の役に立つために科学を進展させてきたことによりもたらされる限界。原発はこの領域に入る。そして、トランス・サイエンスと言われる科学では対処できない科学自体が内包する限界など。このうち私たちがもっとも大きな影響を受けるのは、社会のために科学が用いられることの限界だろう。科学の軍事利用や産業の発展による資源枯渇や環境破壊の問題など。本書では、戦争が起きると科学が進展するということに触れられている。もし、科学の進展が素晴らしいもので何にも優るものだとするなら、戦争が起きればいいということになる。しかし、それは間違っているということは誰でもすぐにわかることだろう。

著者は、それぞれの切り口から過去の具体的な事例を引用しながら説明をしているが、いずれにおいても、やはり、科学には限界があるだろうと言っている(少なくとも、今は限界に直面しているということ。ただし、今後、その限界を打ち破る可能性は否定していない)。だから、最後の章は、そのような科学とどのように付き合っていくべきかの論考に費やされている。
この章では、前提として、現代の文明を支えている科学は、それほど盤石ではないということを強調したうえで、「文化としての科学」と「人間を大切にする科学」の2つを求めていくことを提言している。「文化としての科学」というのは、役に立つかどうかではなく、純粋に科学のおもしろさを人々に伝えていくということである。また、「人間を大切にする科学」とは、文字のとおり人間を大切にするために科学を用いるということであるが、そのためには、科学者は倫理性を研ぎ澄まさせることが必要だと説明している。人間を大切にするというのは、あたりまえのことのようであるが、あえてそのようなことを言うということは、実は、今まではそうではなかった可能性があるということだろう。人間よりも経済が大切とか、虚栄心や名誉が大切とか、そういう考え方が、科学の限界をより一層強調してきたということだ。そこを解消しなければならないという提言である。

著者の2つの提言は、それぞれの側面で限界のある科学との付き合い方として必要なことだと思われるし、私も賛同する。しかし、それで、科学技術がもたらす災禍から人類は解放されるかというと、それは、ちょっと難しいように思う。人間を大切にするといったときの人間が、「人間の便利な生活」や「人間にとっての効率の良さ」などに簡単にすり替わる可能性もあるし、純粋に科学のおもしろさを極めていって思わぬ限界にぶつかるということもあるだろう。難しい。自分自身にもどうすればいいというアイデアはない。ただ、科学に限界があるという事実を認識するだけで、人々の行動も少し違ってくるのではないだろうかという期待はある。たとえば、面倒でも昔ながらの方法のほうが気持ちいいというようなことがある。たとえば、ATMは便利だけれど、窓口の人とひとことふたこと、会話を交わすことが、実は精神衛生上はいいということなど。気持ちがよければ人はそっちを選ぶ。そういうたくさんの「科学の進展の結果は、必ずしもいいことばかりではないかもよ」と思えるような小さな事実と合わせて、科学にも限界があるということを周知していくことは、時間はかかるけれども、科学の限界に翻弄されないためには有効なのではないだろうか。そのためには、本書の記されている科学の限界についての丁寧な考察は有用であろう。

$バーチャル・ロック喫茶 くじら亭


店主


BGM J.J.Johnson & Kai Winding / The Great Kai & JJ