映画「日本と再生~光と風のギガワット作戦」レビュー
映画「日本と再生~光と風のギガワット作戦」(河合弘之監督)のレビューです。約3年半ぶりの投稿です。
3.11以降、原発とどう向き合うかということは私たちにとっては大きなテーマです。原発周辺地域は未だ帰還困難区域でゴーストタウンと化したままですし、避難解除された地域においても解除されたからといってただちにかつてのような生活を再開することは困難です。そのような状況の中で、原発の再稼働については訴訟含め各地で議論が続いていますし、使用済み核燃料の取り扱いについても何らめどはたっていません。このように原発に関してはさまざまな課題が山積したままですが、国のエネルギー政策は基本的には原発維持です。「いろいろ問題はあるかもしれないけど、原発ないとやっていけない」というスタンスです。
この映画は、3.11以降、原発のオルタナティブとして注目を集めている再生可能エネルギーについて、ドイツをはじめとした諸外国の事例調査や関係者へのインタビュー等をとおして、その可能性を検証したドキュメンタリーです。結論としては、従来型の再生不可能なエネルギーから再生可能エネルギーへのシフトはエネルギー消費の抑制とセットで取り組めばおおいに可能性があるということです。
映画そのものは丁寧な取材に基づいており、ドイツの事例だけでなく、何か国も訪問し、さらに、理論的な検証も加えられ、説得力があります。映像の持つ力を強く感じます。
この映画からわかるのは、従来型の発電は、大規模集中型なのに対して再生可能エネルギーは小規模分散型だということです。今までの発電の仕組みでは、基本的には大手資本しかエネルギーの生産に関われませんが、再生可能エネルギーの多くは、風力にしろ地熱にしろ小水力にしろ、小規模での実践が可能です。ですから、市民活動的に事業を行うことができるということです。これはとても重要なことだと思います。現状のわが国のエネルギー政策は「原発ありき」で、そのことがさまざまな形で再生可能エネルギーの普及を抑制しているのですが、そうであっても、こうした事業の性質ゆえに草の根の市民力が現実のエネルギー需給のあり方を変えていける可能性があるということです。実際、映画の中でも日本国内において、主に基礎自治体との連携の中で小規模事業者が運営する再生可能エネルギー事業がいくつも紹介されています。
とはいえ、私たちは現状、エネルギーの消費者であり、自らエネルギーを生産するというのはなかなかハードルが高いことです。すぐにできるのは、せいぜい、薪ストーブとか火鉢とかを使うくらいでしょうか。けど、どのように生産されたエネルギーを使うかということは選ぶことができます。であれば、ひとり一人が再生可能エネルギーを積極的に使うことでエネルギーシフトが可能になるということです。電気は原発によるものも再生可能エネルギーによるものもその品質自体は変わりません。すなわち、電気の供給事業者を切り替えたからといって照明が明るくなるというようなことがないので、品質面からは積極的に切り替えることの動機付けが困難なのです。そういうことを多くの人に理解してもらわなければならないというのがこの問題の難しさなのだと思います。ただ、前述のように多くの再生可能エネルギーは、小規模ですからそれぞれの地域、すなわち、自分たちの生活に比較的近いところで生産されているので、心理的には応援しやすいと思います。品質は変わらないですが、生産者と消費者の顔の見える関係は比較的つくりやすいかもしれません。
もうひとつ、この映画が伝える重要なメッセージは、再生可能エネルギーへのシフトはエネルギー消費の抑制とセットだということではないでしょうか。電力使用量を抑えるというと私たちはつい3.11直後の計画停電を思い出します。「あのような不自由な暮らしはこりごりだ。それなら原発再稼働もやむなし」と。けど、そういうことではなくて、省電力型の照明や家電に切り替えること等、十分現実的な話だということです。
エネルギーは私たちの生活には必要不可欠なものですが、目に見えません。物自体が見えないということもありますし、その生産プロセスを見ることも困難です。それゆえに、それに対して思いをはせることが非常に難しい。実際、私自身3.11以前は、電力がどのような仕組みで生産され、供給されているのかということを考えたことはありませんでした。けど、それをどのように日々の生活の中で調達していくかということは、実はこれからどのような世の中をつくっていくのかということと同義なくらい重要なことで、それを考えることは、3.11を経験した私たちの責務なのだと思います。そうしたことを思い起させ、具体的な行動まで考えさせてくれる優れた映画です。
「幸せ」はどこにあるのか~映画「そして父になる」を観て
いろいろと考えさせられました。
小学校入学前、病院で子どもの取り違えが発生していたことを伝えられた2つの家族の心情の変化を、主に父親と息子の関係に焦点をあてて、
描いていくというストーリーです。
父性とは何かということがテーマだと思うのですが、それに限らず、家族観や幸福感について、さまざまな問いかけがありました。
福山雅治演じる一方の父親は、有名企業に勤めて、仕事一筋でおそらく年収一千万円以上、都心の高級マンションに住み、妻は専業主婦。
このような家族は、20年前くらいなら誰もが憧れる家族の形だと思います。
けど、この映画では、この家族はあまり幸せそうには描かれていません。
一方、リリー・フランキー演じる父親は、地方都市で親と同居、仕事は家業を継いで、夫婦共働きで子ども3人、経済的な余裕はほとんどないという家族ですが、映画ではこの家族が結構幸せそうに描かれます。
経済的に余裕がないことや、すたれゆく地方都市で暮らすこと、家業というしがらみに絡みとられることは、多くの人にとっては不自由さの象徴ではないでしょうか。
しかし、そこに幸せがあるという、パラドクスが映画では描かれています。
これは、バブル崩壊からリーマンショックを経てゼロ成長時代の現在に至る過程において、日本人の価値観が大きく変わったということを象徴的に描いているのだと思うのですが、経済社会が変わったから価値観が変わったという単純なことではないと思います。
僕自身は、何が一番大切なのかということの違いが、この2つの家族の違いではないかと思います。
福山家にとって大切なのは、お金やモノや地位(ステータス)です。
これはあきらかです。
そういうものがあって、自分たち家族の生活が成り立っているという価値観です。
一方、リリー家にとっての一番は、いのちです。
子どもや家族とともに過ごす時間、すなわち、いのちがともに生きていくことこそが大切だといいます。
そのためには、当然、生きる手段として、ある程度のお金は必要です(映画では、必要なお金さえも足りないように描かれていますが・・)
まず、いのちが先で、そのためのお金やらものやらが必要という価値観です。
どちらの家族も、「いのちとお金の両方が大切」という点は共通ですが、優先順位が違います。
そして、この映画では「いのちが一番」という価値観のもとにこそ幸せがある、と言っています。
そして、子どもはそのことの最も敏感に気づきます。
「いのちを大切にすること(=愛すること)にこそ、人間にとって本質的な幸せがある」というのが、この映画のメッセージではないでしょうか。
そのような意味で、この映画は、やはり、東日本大震災後の映画だということを感じます。
店主
BGM Charlie Parker / The Savoy Recordings (Master Takes)
「ブータンに魅せられて」
少しタイミングが遅れているような気もしますが、いい本でした。
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「ブータンに魅せられて」今枝由郎著(岩波新書/2008年)

我が国の経済成長率は、1990年代以降は平均1%程度であり、十数年にわたってほぼゼロ成長が続いている。今後、引き続き人口が減少していくことや、生活に必要なものはほぼ満たされている現代社会において、さらなる経済成長が期待できるとは、どう考えても思われない。しかしながら、現政権は、相変わらず、さらなる経済成長を目標に掲げ、金融緩和や公共投資などの政策を進めている。こうした施策により、一時的には景気回復するかもしれないが、資源の枯渇が懸念されること、環境への配慮が求められていること、高齢化が進み人口が減少していくことなどを考慮すれば、長期的な視点を欠いた政策だと感じざるを得ない。今さえよければいいという対応である。
一方、本書で紹介されているアジアの小国、ブータンは、国内総生産(GDP)ではなく、国民総幸福(GNH)の向上を目標に掲げて国家運営が行われている。GNHは、GDPのように明確に数値化できるものではなく、定性的であいまいな指標であり、そんなものが国家運営の指標になるのかとも思えるが、経済成長のみが国家の目標ではなく、国民ひとりひとりが豊かで幸せに暮らせる国になることこそが、国民国家の目指すものではないのかという、しごく当たり前のことを、きっぱりと主張している。
本書は、1981年から1990年までの10年間にわたり、ブータンに居住した著者が、自分自身の経験を通じて、ブータンの人々の日々の暮らしや、自然とのかかわり方、政治のあり方などを紹介している。同国の国立国会図書館の顧問として赴任するまでの経緯や、国王や高官を含む現地の人々との交流の中のさまざまなエピソード等に基づいて記述されているため、ブータンについて特段の知識がなくとも、ブータンがどのような国かを理解できるように構成されている。
本書を読んで感じるのは、ひとつは、国王(特に第4代国王)の素晴らしさだ。わかりやすくいえば、徳のある、国民に愛され、尊敬される優れた指導者である。ただし、国民を強い指導力で引っ張っていくのではない。著者の言葉によれば、国王は、「質素」で、「飾り気がなく、形式ばら」ず、「思いやりがあり、周囲に対して気配りを欠かさない人」である。こういう指導者だから、権力掌握に対する執着は少なく、本書でも紹介されているように、1998年には、自らその絶対権力を放棄している。
本当に国民のことを考えているのか疑わしいような指導者が多い中で、ブータンの国王は例外中の例外であり、それゆえ、ブータンの社会のありようも例外的だと言うこともできよう。しかし、反対に言えば、ブータンの風土や国民性が、このような王様を登場させたと考えることもできる。その根拠は、ブータンの政策の多くは、ブータンの人々の生活に寄り添ったものだからである。こんなふうになればもっと世の中はよくなるだろう、というような目指すべき姿があって、そこに誘導するために政策を打つのではなく、まず、ブータンの人々の伝統的な生活があって、それがよきものであれば、それを維持し、あるいは、さらによいものにしていくためにどうすればいいのかを考えるという形の政治である。
具体例をあげると、ブータンは自然環境の保護や自然資源の活用について世界の模範的な例となっているのだが、このことについて、国王は、次のように述べていることが紹介されている。
「ブータン人は、森にも、川にも、湖にも、その他いたる所に聖霊が宿っていると信じている。そして、その聖霊の気を害すると祟りがあると信じているので、湖を怪我したり、森の木を伐採したり、時としては大声を出したりすることを極力控えている。それは、自然環境保護という意識からではなく、全くの「迷信」に近いものであるが、国民はそう信じることで安らぎを得ているし、無意識に自然保護に積極的に貢献している。」(p.129)
自然保護のために何かをするということではなく、自然と調和した伝統的な生き方や価値観を守り育てていくことで、自然保護を実現しているということであり、少なくとも、国民を誘導するような政策をとっているわけではないことが伺える。
「幸福大国」と呼ばれるブータンでは、国民の97%が「幸せ」だと感じている(2005年のブータン政府による調査)が、日本に暮らす私たちがブータンに行っても、おそらく何かと不自由なことは多く、「本当にこれで幸せなのか?」と感じるのだと思う。なぜならそれは、私たちが物質文明に満たされた生活に慣れきっていて、その生活こそが幸せだと思い込んでいるからで、それとはまったく違う価値観の世界に放り込まれても、その世界にすぐに馴染むことは難しいと思うからだ。
そうしたことを踏まえて、感じるのは、自分たちの価値観がいかに一面的で、知らず知らずにうちに染み込んでいるものかということだ。たとえば、国や地域について話をするときに、「進んでいる」とか「遅れている」とい言い方をすることがある。そのような表現の背景には、「遅れている」地域は、時間が経てば、やがて「進んでいる」地域のようになるという暗黙の理解がある。たとえば、発展途上国という表現はその最たるもののひとつだろう。発展途上国と言ったとき、その国は、発展に向かっている途中であり、いずれは先進国のようになるということを意味する。後進国という表現も同じであろう。
けど、地方と都市の違い、あるいは、先進国と発展途上国の在り様の違いは、そもそも、時間軸による差異ではなく、地理的あるいは、風土や地域の特性(国民性や気風などを含む)による差異だと考えると、見方は変わってくるのではないか。たとえば、ブータンのように自然と調和した昔ながらのゆったりとした暮らしは、先進国と言われる国にはない。一方、きれいに整備された道路や鉄道などの交通インフラは、先進国にしかないかもしれない。しかし、どっちがいいかは、個人の好みの問題であり、一概に良し悪しを言えるものではないだろう。そうであれば、その違いは時間軸による違い(発展の程度による違い)ではなく、「遅れている」、「進んでいる」という表現にはならないはずだ。こういう不適切な用語や語法を私たちは、あたりまえのように使っていて、それは、無意識に染み込んでいる価値観がそうさせているのだと思う。これを変えていくのは、大変なことかもしれないが、変えることができると、今までとは全く違った世界が広がるだろう。
ブータンの人口は約70万人で、国民のほとんどは仏教徒である。そのような特徴をもった小国だから実現できていることがほとんどであり、だから、人口一憶2千万人を超える我が国には参考にならない、ということはまったくないと思う。国家として何を目指すのかということや、資源枯渇が心配されている現状においては自然と調和の取れた暮らしや、家族やコミュニティを基盤にしたゆったりとした営みなどは、規模に関係なく、参考にすることができるはずだ。また、仮に人口規模が小さいがゆえにできるということがわかれば、行政の規模を見直すことの検討材料にもなるかもしれない。先ほど、「遅れている」、「進んでいる」という表現は慎むべきだと書いておきながら、矛盾するようたが、もしかすると、資本主義社会が限界を露呈している現代においては、ブータンのようなあり方こそが進んでいるのではないかと感じる。
遠くの小さな、ちょっと変わった国の出来事としてではなく、ぜひ、自分たちの日々の生活に照らし合わせて読みたい。
店主
BGM
Pearl / Janis Joplin
