なぜ、本にオビを付けるのか?
なぜ本にはオビがあるのか?
多くの本にはオビが付いているのだが、
なぜ、わざわざ付けているのか疑問に思う本が多い。
そもそもオビはPOPのような役割で、
タイムリーな売り文句を書くものだと思う。
文庫に付いている「今月の新刊」とか、
「○○テレビで紹介した本」とか、そういうのは良い。
しばらくしたら、それを外して売れるからだ。
ところが、たいていは、いつでも通用するオビを
いつまでも付けている。
これじゃ、意味がない。
表紙にそのまま印刷してしまえばよい。
どうせ付けるなら、オビを何度か書き換えるのが良い。
このオビではあまり売れなかったから、
今度はこういうオビを付けてみようとか。
まあ、お金がかかるし、そんな暇もないだろうけど。
でも、そうやって売る本が一冊でもあると良い。
どういうオビだと売れるのか分かると思うから。
内容を見てPOPを書こうとしたら、
オビと全く同じになってしまうことがたまにある。
形式的にオビを付けているような本の場合はそうはならない。
売るということに関しては全く役に立っていないことが多い。
なぜ本にはオビがあるのか?
そろそろ、ちゃんと考えた方が良いのではないか。
なぜ「ら抜き言葉」は「可能」だけなのか?
「ら抜き言葉」については、いろいろな言動があるが、
なぜ四つの意味の中で「可能」だけが
「ら抜き言葉」になってきたのか?
について考えた言動は見たことがない。
(見たことないだけかもしれないけれど)
いわゆる日本語の文法では「れる」「られる」を
「自発」「可能」「受身」「尊敬」に分けている。
その中で、なぜ「可能」だけなのか?
「ら抜き言葉」だって相手に通じればよいという意見もあるけど、
それなら「受身」だって通じなくもない。
まあ、「尊敬」の意味で言葉を縮めるというのは変だけど。
そこで、勝手に(おおまかな)仮説。
「可能」だけ本来の意味とちょっと違ってきたから
「ら抜き言葉」となった。
本来の意味とは何か?
四つに共通するのは
「動作・行為が、それをする人の意志に関係がない場合」
に付けているということだと思われる。
つまり本来の意味に「自発」が一番近いのである。
(歴史的にも「自発」が最初だそうですし)
「自発」=それをする人の意志に関係なく、自然と~する
「受身」=それをされる人の意志に関係なく、第三者に~される
「尊敬」=(この場合は、話し手の)意志に関係ないほど高貴な方が
~なさる。
そして、
「可能」=それをする人の意志(能力)に関係なく、~できる
ということになる。
自然であれ、第三者であれ、高貴な人であれ、自分に関係ない意志なのだ。
「可能」も同じだ。
それは、もともと天賦の才能を意味していたのではないか?
ということは、「可能」が天賦の才能だけを意味しない、
つまり自分の力で可能にしていると考えられる「可能」が
変化したのではないか?
ら抜き言葉で、よく例に遣われる「走れる」「食べれる」などは
「自分の力で可能にしている」という感じがするからだろう。
いささか(というか、かなり)強引ではあるが、
今のところ、こういう結論に至った。
本当のところは、どうだか分からない。
でも、
なぜ四つの意味の中で「可能」だけが
「ら抜き言葉」になってきたのか?
たまたま「可能」だけそうなったわけではないと思う。
本棚は分割せよ
困難は分割せよ
と哲学者デカルトは言った。
本屋の棚は詰め込みすぎのような気がする。
棚だけではない。
平積み(棚の前に積んである本)もだ。
とにかく可能な限り埋め尽くすという感じだ。
まあ、雑誌にしろ、書籍にしろ、新刊が多すぎっていうのもあるが、
だからといって、それを詰め込むだけでは能がない。
中学生でもできる。
本屋は毎日のように本を見ているわけだから、棚を見ても、
何某の新刊だ、流行のアレでまとめてある、なんて一目瞭然なわけだ。
いわば、棚を分割していると言っていい。
これは自分の店だけじゃなくて、他の店に入っても同じで、
棚を見た途端、自分なりに分割している。
ところが、お客様はそれが出来ない(と考えた方が良い)。
棚を見たら、それは壁と同じに見える(同上)。
平台の本も棚の本も全部つながっているのだ(同上)。
目の前にあるのに
「旅行ガイドはどこにありますか?」
とか訊かれることはないだろうか?
本屋としては、どう見ても目の前にあるんだけど、
でも、お客様には見えないのだ。
男の人だったら、化粧品売り場を想像してみれば良い。
たぶん、どれも同じに見えて、
「ファンデーションはどこにありますか?」
なんて訊くに違いない。
だから、分割しなければならない。
そのためには、詰め込んではならない。
隙間がないと分割できないからだ。
分割しなければならないということは、
逆に言えば、上手く分割すれば、
自分が見てもらいたいように棚を見てもらえるということだ。
これを使わない手はない。
本棚は分割せよ
堀江社長マジック!!
「人の心はお金で買える」か?
雑誌「正論」の5月号は「ライブドア問題特集」だ。
のっけから問題としてるのは、ちょっと問題だと思うのだが、
とにかく、たくさんの著名人がライブドアに対する感想を書いている。
それを読んで(というかパラパラと見て)みた感想は
堀江社長はツッコミ甲斐がある
というものだ。
色んなジャンルの専門家が色んな角度からツッコんでいるのだが、
それでもツッコみ足りないくらいだ。
なかには「生理的にイヤ」というのもあった。
まあ、ヒドい話だ。
こんなこと書かれて様になるのも堀江社長くらいだ。
冒頭の「人の心はお金で買える」というのも堀江社長の言葉。
光文社の「稼ぐが勝ち」の書かれているもの。
まあ、堀江社長くらい金持ちになるとこう考えるようになるのかもしれない。
周りには同じような人が集まるわけだし。
でも、やはり、それは自分を正当化してるだけだ。
(あ、もちろん、逆もまたそうなんですが)
ニッポン放送の件に関しても、要は法律に違反していないだけだ。
悪くないことはやっていいというわけじゃない。
善いことをしないと。
お金だけじゃ人の心は動かせない。
お金があれば女も口説けるとも書いてあるんだけど、
お金で口説けるような女しか寄ってこなくなるんだよ、堀江社長。
あ、ツッコんでしまった。
やはりツッコミ甲斐があるなあ。
きっとツッコまれることも堀江社長の想定内のことと思われる。
みんな、それに踊らされてるのだ。たぶん。
「子供を就職させる本」って、どうなの?
「子供を就職させる本」メディアファクトリー
「親子で勝ち抜く就職成就」技術評論社
最近、こんな本が出てますが、あなたは、どう思いますか? 僕は、ビックリしました。
だって、親が子供の就職活動の世話をするんですよ。
ありえませんよね。
ただ、これらの本が良いか悪いかは別の話です。
あんまり読んでませんし。
そうじゃなくて、こんな本が出てくるような状況がありえないわけです。
まあ、同じことか。
「子供を就職させる本」の帯にはこんなことが書かれてます。
「親が子供の就職に口を出すなんて・・・」
そう考える親御さんもいらっしゃるでしょう。
けれど、就職支援の現場にいると、
10代20代の就職に関しては、親子で立ち向かわないと
乗り切れないほど子供たちは困惑しているのです。
どうでしょう?
困惑しているのは事実かもしれないが、だからといって、それが
「親が子供の就職に口を出す」ことの正当な理由になるわけでもあるまい。
困惑しないように躾をするなり教育をするなり、
あるいは、それを一人で乗り切れるように手助けをするなり、
方法は他にもあるはずだ。
というか少なくとも今まではそうだったはずだ。
(↑あえて漠然と言います。実際は違うのかもしれません)
まあ、ただ、それが一概に悪い状況かといえば、そうでもないと思うけど。
ところで、親子が力を合わせて就職できたとして、
その先はどうするんだろう?
社会人になって乗り切るのが難しい困難なんていっぱいあるはずだ。
やはり、それも親子で乗り切るのか?
そのうち「子供を出世させる本」だとか
「親子で読むビジネスマナー」だとかが出版されるのだろうか?
そして、やがては「子供に失敗させない定年退職の手続き」
なんて本が出版されるんだろうね。たぶん。
そしたら、また、ビックリしようと思う。
書店員が本を売る
売れている本をたくさん売るのも大事だが、
売れてない本を一冊だけでも売ろうとする努力も大事だ。
書店員は、本が売れてる、売れてないという表現をするけど、
間違いだと思う。本を売っている、売っていないと表現すべきだ。
本が売れていないんじゃない、売っていないだけだ。
だいたい、売れている本を売るのは中学生だってできる。
売れてない本を売るのが大人なのだ。
書店員は自分が本の内容を売っていると思っているけど、それは間違いだ。
内容を売っているのは著者であり、出版社だ。
書店員が売っているのは、あくまでサービスだけだ。
ただしサービスは接客だけを意味しない。
POPを書くこと、これもサービスだ。
POPを書くことの目的の一つは、お客様に本を手にとって見てもらうことだ。
とにかく、たくさん手にとってもらうこと、しかも両手で。
左手勝利の法則。
そして、もう一つが、その場でその本を必要とさせること。
アデランス作戦だ。
売れてない本を売ろうとするのは大変だ。
でも、とても勉強になるし、大事だ。
出版社営業VS本屋
と出版社の営業の人がよく言う。
でも、これって変じゃない?
平積みとは、読んで字のごとく、平らな所に何冊か積むこと。
とりあえず、必ず表紙が見える、要は、ウチの本を目立たせてってこと。
目立てば売れるってもんじゃないけど、目立たなければ売れないし、
まあ、出版社としては当然の主張だ。
でも、そんなこと言う為にわざわざ来ても仕方ないんじゃないか?
そんなことを言う暇があったら、
何でその本を売りたいのか、どうやって売っていくつもりなのか、
ここの本屋ではこう売ったらいいとか、を言ってもらいたいものだ。
内容に自信があるので、背表紙でも売れます
隅っこに一冊だけ置いてください
と言う出版社の営業の人を見てみたい。
でも・・・
考えてみると、結局、本屋の隅っこに魅力がないってことなのだ。
確かに平積みは目立つけど、それしか目立たせることができないのは、本屋の責任だ。
棚の隅っこさえも目立たせることができるような工夫をしなければならない。
一朝一夕には無理だ。
お客様に棚の隅っこで掘り出し物を幾度か見つけてもらわねばならない。
ここの本屋は隅から隅まで見なきゃって思ってもらえるまで。
目標は店全体が一等地。
簡単ではないけど、不可能でもないと思う。
内容が良ければ、隅っこに一冊だけ置いても必ず売れます。
ウチの店のお客様は隈なく見てってくれますから。
と言う本屋になりたい。
POP道を全うする事
「話題のベストセラー」と書いて、本は売れるか?
以前の僕だったら、売れるわけないと思っていた。
だって、それを真に受けて買う人なんている?
しかも、どれもこれもベストセラーって書いてあるわけだし。
そんなPOPを作ったって意味ないよ。
って思ってた。
けど、どうだろう?
ホントに売れないか?
まあ、たくさん本を読んでる人はそんなので買わないと思うけど、
たまーに読む人はどうか?
想像せよ。
たまーに読む程度の人が本屋のPOPなんか見るだろうか?
テレビで話題だからとか、映画でやったからとか、
そういう本を読むのではないか?
じゃあ、POPは普段から本を読む人のために書くのか?
そもそもPOPは何のために書いているのか?
カッコいいPOPを作るより、売れるPOPを作らなければならない。
POPは目的ではなく、あくまで手段だ。
POP道は長くて険しい。
ちょっと怪しい関係?の高校生
A「コイツ、かっこいいよね」
どうやらヘアカタログのモデルについて話しているらしい。
B「ああ、ごくせんに出ているヤツだよね」
ごくせんは僕も観ているので、誰だか気になる。
A「そうそう、名前なんだっけ?」
誰? 誰?
B「ツッチーでしょ」
ああ、速水こもみちか。
A「最近、CMにも出てるでしょ」
そういえば出てるね。
B「そうだね」
ちょっと間があく。
B「俺はタケもいいと思うよ」
ああ、タケね。本名は知らないけど。
A「うん、アイツもかっこいいよね」
そうかなあ? でも、まあ、好みの問題だからね。
B「かっこいいっていうか、かわいいよね」
えっ? 何?
A「・・・・」
Aも絶対、えっ?って思っているはずだ。
B「そう思わない?」
僕は思わないぞ。きっとAも思わないはずだ。
A「ああ、まあ」
やっぱり生返事だ。
B「アイツ、かわいいよなー」
A、返答に困る。A、危うし!
Bは思ったことを素直に言っただけかもしれない。
でも、ちょっと怪しいぞ、B!
紋別LIFE再び
「大都会の小さな野生タマちゃん」
という本を探しに来ました。
新聞の広告の切り抜きを見せてもらうと、
発行が「北海民友新聞社」となっていました。
取引出版社名簿を見てみると載っていません。
そこでネットで検索してみると、ありました。
なんと、以前紹介した雑誌
「紋別LIFE」
を発行している出版社でした。
残念なことに神奈川県の某チェーンのみの扱いなのだそうで、
取り寄せもお断りしてしまいました。
「タマちゃん」はあの多摩川のアゴヒゲアザラシのタマちゃんのこと。
何で北海道の出版社から出るのかが不思議です。
やっぱイカしてます。
他に以前紹介したスパイ養成雑誌(←ウソ)
「TOKAIスパイガール」
の姉妹紙と思われる
「関西スパイガールセレクト」
が今月の23日に創刊されるそうです。
国際スパイのオーディション雑誌だそうです(←ウソ)
