日米★つまみ食い育児ログ -6ページ目

母親の着る服

どこで読んだ話か覚えていないのだが、シュタイナー教育の保育者は、心がけて、柔らかい色合いの服装を身につけるようにしている(すべき、だったかも)という。

以前オープンハウスに行った近所のシュタイナー学校でも、先生方は皆、穏やかなアースカラーが基調の、くつろいだ普段着姿だった。
我が家の子どもたちの通っている幼稚園の先生方のように、動きやすいTシャツ・ポロシャツにジーンズやチノパン、なんて機能的な格好の人はいなくて、最初はどの人が先生かわからなかったくらいだ。
とくに幼児クラスのおばさま先生は、ウール地のロングスカートに柔らかいニットを羽織って、炉辺でロッキングチェアに揺られながら編み物でもしていそうなイメージ。
壁一面をやわらかい桃色に塗られ、素朴な自然のおもちゃが配置された幼児クラスの教室は、まるで暖炉のある暖かいリビングみたいだった。
ここは「学校」というよりはもう一つの「家」で、「先生」は「お母さん」代わりなんだな、と感じたのを覚えている。

先日、自分の秋冬用のシャツを買いに行った時、このことを思い出して、なるべくシュタイナーらしい、柔らかい色柄のものを探してみた。
買ったのは、ひかえめなピンクのバラ模様が浮かんでいる、薄いパープルブルーとライトグリーンのコーデュロイシャツ2枚。
不思議なもので、これを着ると自分まで優しい気持ちになって、子どもたちを抱いて静かに絵本を読んだりするのがしっくりくる。
もう少し寒くなったら、ウールのロング巻きスカートと合わせてみようかな。
動きにくくて去年はほとんど履かなかったけれど、お出かけしないで子どもたちと家でゆったり過ごす冬の午後には、そんな服が似合いそうだ。

二つの記憶力

陰山英男『学力は家庭で伸びる』(p.32)に、子どもの記憶力は「7歳から12歳にかけて著しく発達するといわれている」(つまり二次情報)とある。

これは、七田式などで言われる幼児期の「右脳によるイメージ記憶力」とは別の、「左脳による論理的記憶力」のことだろう。
前者が目指すのは、覚える「内容」よりも、記憶作業のくり返しによる「脳の活性化」で、後者の場合はどちらかというとその逆、と私はとらえている。
自分の経験からいっても、幼児期に丸暗記したことはほとんど忘れてしまったが、学齢期以降、理解を伴った上で記憶した内容は、今でも残って実生活の知恵になっている。
(このことは、二ヶ国間を移住する子どもの年齢によって二言語の覚え方・残り方が異なる、という話とも通じそうだ。
バイリンガル論については、いずれまたあらためて。)

ただし、学齢期に暗記作業をさせる意義が、知識としての「内容」だけかというと、そうではない。
陰山氏はここで、国語が苦手な男の子が、地道な暗唱訓練によって皆を驚かせるほどの記憶力を発揮した、というエピソードを紹介している。
自分の弱点を自発的な努力で克服した経験は、その子にとって、その後の学習や生活の上で大きな「自信」になったことだろう。

これに対して、幼児期の取り組みで子ども自身が得るものは、親や先生から与えられたものをこなしたことで自分が褒められ、大人も喜んでくれた、というその場限りの受動的な「満足感」、といえるかもしれない。
それが悪いわけではなく、毎日そうやってくり返し「認めてほめて愛して」育てられることこそ幼児期に必要なものだ、という七田式の「理念」には私も大賛成だ。
しかし、実際の「教材」や「取り組み」内容をみると、う~~~ん、と立ちどまってしまう。
大量のフラッシュカードやCDなどの高価な教材を使った、実体験を伴わない「記号」の暗記作業よりも、幼児期にはもっと他にすること・できることがあるんじゃないか、と考えてしまうのだ。
親がうまく時間と予算の配分をして、その両方を与えてやれれば、それに超したことはないのだろうが・・・。

運動は方法より習慣づけ

スポーツしない子の運動能力大幅に低下…文科省調査(読売新聞)
文部科学省の2003年度「体力・運動能力調査」の結果。
監修者の順天堂大・青木純一郎副学長によると、「週3日程度は全力で走るなど、積極的に運動をさせるべきだ」そう。

運動といっても、体を長い時間「ただ動かす」だけじゃなく、瞬間的でも「全力を出し切る」動きをくり返すことが必要なのかなぁ。
全身運動ではあってもだらだらしたプール遊びより、運動場で追いかけっこでもさせた方がいいってことかしら?

などと細かいことを考えだしたが、うちの二人には、人に決められたノルマで運動を続けることはまだ無理だし、本人がしたいと思って体を動かすのでなければそもそも無意味。
親にできるのは、「何」をさせるかよりも、まずは、とにかく思い切り運動できる「場所」にこまめに連れ出してやることだ。

教科書を毎日音読

『学力は家庭で伸びる』(p.30f.)より。
国語に限らずあらゆる教科書を、述べ30回を目安に、親の前で読むことを日課にする。
「読み」でつっかえやすいところが「理解」の上でもつまづきのポイントだ、という考え方はわかりやすい。

我が家の場合、「教科書」は現地校と日本語学校の二通りになる。
さすがに小学校に上がったら“家では日本語”の原則を崩してでも、英語教科書の音読(=理解)を助けた方がいいのかどうか・・・これは今後の検討事項。

天才か、常識人か?

我が子が天才だったら・・・とはどの親も一度は思うもの。
(じゃないですか? 私は大まじめに考えましたねえ。今でもまだ少しは(笑))
でも、歴史に残るような大天才の実生活を覗いてみると、とてもバランスのとれた常識人とは言えないことが多いようだ。
『天才はなぜ生まれるのか』に出てきた天才たちは、まさにその印象通り。
といっても、この本が取り上げた天才6人は、先天的障害が起爆剤になったという極端な例だけれど。

天才論で思い出すのは、以前読んだ『早教育と天才』
この本で印象深かったのは、歴史上の天才たちの多くは、「父親」による早期教育の賜物らしいということ。
これは、父親というのは母親に比べて、生活感のない、観念的な子育てができるせいではないだろうか。
日々のこまごまとした生活習慣や人間関係のしつけを担う母親にとっては、一芸に秀でた非常識な天才よりも、円満で真っ当な生活人を育てることが目標になってしまう。
でも、その分、人間のスケールは「小さく」なってしまうのかもしれないなぁ。

ところで、我が子は天才かも?とひそかに思っている人には、その名もずばり『ひょっとしてうちの子って、天才?!』を。
具体的にはアメリカの学校システムに即した本ですが、日本で子育てをする方にとっても、我が子の才能の見きわめ方は参考になると思います。