なかなか面白い。


「嘘」について書かれている。


嘘は悪だ、と言うときの判断基準は「善悪の物差し」だが、もう一つ「必要か不必要か」という物差しがあると著者は言う。前者は宗教的な物差し、後者は政治的な物差しだ。なるほど。


宗教が根付いているキリスト教国では「嘘は悪」で、この判断基準が揺らぐことはない。ただ、嘘は悪だが、「必要な嘘がある」という必要悪の概念があるというのだ。これに対し、日本では「嘘は悪」と最初は言いながら、「必要な嘘」があると、「必要ならその嘘は善だ」というように必要悪の概念が抜け落ちてしまう。


著者はこれを「売春」にも当てはめる。

売春は悪で、日本には売春防止法という法律がこれを禁じているが、世界には売春の必要性を認めている国がある。いわゆる「必要悪」だ。しかし、日本人はこの「必要悪」が理解できず、「必要だと認められているのだから善の存在なのだ」とばかりに堂々とその種の場所に繰り出す。悪事を働いているという意識からコソコソ行くのならまだしも、堂々と行くから顰蹙を買う。


実に分かり易い例え話ではないか。

家庭でも学校でも、はたまた職場でも耳を疑いたくなるような事件が起こるが、確かに日本人にはこの「善悪の物差し」が欠落しているかも知れない。



ボルネオ7番のブログ-花







大体、本屋さんではタイトルに惹かれて本を買ってしまう。


「ずぼら」人生論・・・というタイトル。


パラパラっとページをめくったら、ロシアの劇作家ゴーリキーの「どん底」の一節が紹介されていた。


「働きたかったら勝手に働くがいいんだ・・・働くからってなんで自慢することがある?もし、働くことで人間の相場が決まるものなら・・・馬にかなうものは一人だっていやしねえや・・・馬は車を牽くからな、そして黙ってるからな!」


私の場合は既にずぼらな生き方をしているが、この本を読むとどうなるか、ちょっと試してみようと思う。


著者はひろさちやさん。


ボルネオ7番のブログ-ずぼら人生論

ラグビーではゲーム終了のことを「ノーサイド」と言う。


激しく、全力を尽くして戦った後は敵も味方もない、同じラガー仲間や、という精神から来ていると教わった。教わったけれども、なかなかそうは思えない時期が長かったというか、現役の頃は「相手のチーム次第」という気持ちが強かったようにさえ思う。汚いプレーをする選手を許せなかったし、勝って驕るチームは嫌いだった。


最近、やっと分かり始めてきたのは、ラグビーという競技には「ノーサイドの精神」を準備しておかないと収拾がつかないということだ。ノーサイドの精神と教えがあるから、何とかゲーム終了後も自分をコントロールできた・・・そう思っているのは私だけではなく、対戦相手もそうだったと思う。痛み分けの精神とも言えるだろう。


同じように、ラグビーではレフェリーが絶対だが、これもレフェリーを絶対にしておかないと収拾がつかない、ということだろう。ラックの下敷きになって身体を踏まれ、ボールはあっちや、コノヤロー、お前、エエ加減にせえよ、とその足を掴んでいたら、レフェリーに「寝ていてプレーしちゃいかん」と叱られた。あの時は相手の選手よりレフェリーを憎く思った。この感情を抑えるには、レフェリーを絶対にするしかない。


先日、「ラグビーは紳士のスポーツじゃないの?」と聞いてきたS太郎少年の言葉がその後も頭の中を駆け巡り、ラグビーを考える日々が続く。