湯島聖堂を出た後、ニコライ堂に立ち寄った。


ボルネオ7番のブログ-ニコライ堂


明治24年(1891)、ロシア正教の布教に来ていた聖ニコライにより建てられたものだが、同志社東京校友会の会報によると、聖ニコライと同志社の校祖、新島襄先生は幕末の函館で交流があったらしい。


脱国の決意を固め、函館でその機会を窺っていた新島先生は所持金を全て使い果たす。そこで、新島先生は知人から紹介された聖ニコライの家に住み込み、聖ニコライに日本語を教えることになったらしい。


そして、脱国決行の日、聖ニコライに真実を告げる訳にはいかず、新島先生は「母が危篤なので江戸に帰る」という嘘の手紙を残して家を出る。


それから10年、アメリカから帰国した新島先生が聖ニコライと御茶ノ水で再会したという説があるらしい。再会のとき、二人はどんな会話を交わしたのだろう。新島先生が謝る姿を想像し、ちょっと可笑しくなった。


ボルネオ7番のブログ-はじめに言葉あり
聖堂入り口に掲げられたフレスコ画。

「太初に言あり、言は神と共にあり」

(初めに言葉あり、言葉は神と共にあり)

ヨハネによる福音書に出て来る言葉。


御茶ノ水にある取引先を訪ねた帰り、湯島聖堂に立ち寄った。


東京に来て34年になるが、ここを訪れるのは初めて。孔子が祀られているということ以外、何も知らなかったが、徳川五代将軍の綱吉が儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)に創建した聖堂とのこと。それから約100年経った寛政9年(1797)、幕府直轄学校である「昌平坂学問所」がここに開設されたのだという。


孔子が祀られているのは大成殿(たいせいでん)という建物で、正面の手前にある杏壇門(きょうだんもん)から眺めるとなかなか厳かな佇まい。


ボルネオ7番のブログ-大成殿


大成殿の屋根には一対のしゃちほこが据えられているが、これはシャチというより潮を吹き上げるクジラか。


ボルネオ7番のブログ-しゃちほこ


又、屋根の上から来訪者を厳しくチェックしている狛犬(?)は迫力があって目を奪われる。


ボルネオ7番のブログ-こまいぬ


湯島聖堂は明治に入ると新政府の所轄するところとなり、明治5年(1872)に東京師範学校、同7年(1874)には東京女子師範学校が置かれた。これらの学校は各々高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、御茶の水女子大学へと発展する。学問とは深い縁のある聖堂なのだ。多くの絵馬がそれを物語る。


ボルネオ7番のブログ-絵馬


そして、いよいよ孔子の登場。

教養と知性が溢れる穏やかな表情。静かな庭を散策されているようにも見える。


ボルネオ7番のブログ-孔子


傍らには孔子の言葉が・・・。


ボルネオ7番のブログ-有教無類


「教え有りて 類無し」

人に元々差がある訳ではない、教育でどうにでもなるのだ、という意味か。短い言葉で本質を突くと力がある。


これに対抗して何か名言を、と思ったが・・・

「有欲無智」

意欲はあっても智恵がない。

お粗末でした('-^*)/

毎日新聞がオーストリアのウィーンを紹介していた。

タイトルは「光と闇の歴史刻む」。


ボルネオ7番のブログ-オペラ劇場


ハプスブルグ帝国の首都として迎えた華やかな繁栄。そして、第一次世界大戦での敗北から衰退し、やがて迎えるナチスによる併合。ウィーンには行ったことがないが、華やかな時代と暗い時代の両方を感じさせる街なのだろう。


さて、その記事に面白いことが書かれていた。

ウィーンにある造形美術大学をヒトラーが2度受験し、2度とも失敗していたというのだ。ヒトラーはオーストリア北部の生まれで、実は画家を目指していたらしい。しかし、受験に失敗し、ウィーンで失意の日々を送る内に反ユダヤ思想を深めたというのだ。


ボルネオ7番のブログ-造形美術大学
(ウィーンの造形美術大学)


ヒトラーはその後ウィーンを去り、約30年後に今度は征服者としてウィーンに凱旋するが、もし、造形美術大学に合格して勉強や修行を重ね、画家として成功していたら、ドイツや欧州、そして世界はどうなっていたのだろうかと思ってしまう。歴史に「たられば」は禁物なのだろうが、大いに想像力をくすぐられる逸話であった。