サマセット・モームの「人間の絆」に出てくる逸話が紹介されていた。



フィリップ(注:主人公)はある東方の王様の話を思い出した。人類の歴史を知りたいと望み、ある賢者に500巻の書物を運ばせた。だが国事で多忙な王は、賢者に要約するように命じた。


20年後、賢者は王の元に歴史を僅か50巻にまとめて持参した。だが王は、50巻のような大部なものを読破するには年を取り過ぎていたので、賢者にさらに縮めるよう命じた。


20年後に白髪の老人となった賢者は、王の求める知識の詰まった一冊の書物を持参した。だが、王は既に死の床にあり、一冊すら読むのが困難であったため、賢者は人間の歩みを一行にまとめて王に伝えた。


「人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ」。



見事な要約!(笑)

あまりにあからさま過ぎて、却って笑い出しそうになる爽快感を伴うと思うが如何?この大原則に例外は無いのだから、やはり生き方だけは各々が好きに決めるべきだ。


新約聖書の「ヨハネによる福音書」に出て来る話を紹介されていた。


姦通の現場で捕まった女がイエスの前に連れて来られる。

姦通はユダヤ教では石打ちの刑だ。保守的なユダヤ教徒がイエスに、

「さあ、お前はこの女をどうするか?」

と尋ねる。


イエスが「釈放してやれ」と答えると、イエスはユダヤ教の律法に楯突く反逆者になる。反対に律法の掟通りに石打ちの刑にしろと言えば、それまでイエスが説いてきた「神の愛」の教えを否定することになる。保守的なユダヤ教徒は、イエスをそういうジレンマに立たせるために、そのような質問をしたのだ。では、イエスはどう答えたか?


「あなた方の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」


その言葉で、その場にいた者は一人去り、また一人去って行く。最後に、イエスは姦通をした女と二人だけになる。そして、イエスは女にこう言う。


「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」


考えさせられる逸話ではないか。ひろさちやさんは、こう結んでおられる。

「人間はみんな不完全だ。完全な人間なんていない。それなのに、自分の不完全さを棚上げにして他人の不完全さを糾弾する。そういう「善人」(実際は偽善者)の身勝手さをイエスは叱るのです」。


おっしゃる通りです。

もし私がそういう場に居合わせたら、ラグビーでも見せなかった猛ダッシュで誰よりも早く、その場を去ることをお約束します!('-^*)/


「善人」のやめ方

ひろさちやさんの著書。


タイトルだけでも十分過激だが、帯に「怠けて生きて何が悪い」という挑発的な言葉が躍る。ひろさちやさんは一体どうされたのか?


ボルネオ7番のブログ-善人のやめ方


ちょっと心配しながら読み始めたのだが、やがて、カギ括弧を付けて「善人」と書かれた理由が分かってくる。ここでいう「善人」とは、世間が勝手に作り上げた善人像であり、もっと言えば、世間や他人の目を気にして自分に強いる善人像でもあるのだろう。


ひろさちやさんは、自分の人生は自分で作り上げろ、そして、自分がそれで良いと思えれば十分だ、他人がどう思うが関係ないと説く。そして、分かり易い例を上げて居られる。


小学生が校庭で遊んでいるときには、「うちの学校の運動場は狭いなぁ。もっと広ければ良いのに」と思います。ところが、校庭を掃除させられると、「なんて広い校庭なんだろう」と溜め息が出ます。「広い運動場」「狭い運動場」といったものがある訳ではありません。それを「広い」と見るか「狭い」と見るか、その物差しは自分が持っているんです。


自分の物差しで見ることができれば、仕事も恋愛も人生も、異なる見え方になるだろう。そして、自分の物差しで選択した幸せを追求する勇気を持てば、案外簡単に幸せになれそうな気がする。