先週末、久し振りの登山を楽しんだ。

4人組
(左から同僚のF内さん、大学ラグビー同期のM柴、私、M柴の息子さん)

前日から降り続いた雨のせいで、当初予定していた東駒ケ岳(甲斐駒ケ岳)には登れなかったが、その隣にある栗沢山に登ることができた。頂上に着いてリュックを降ろし、記念にみんなが笑顔の写真を撮る。山の頂上では良く見かける光景だが、ふと、これから未だ長い下りがあるのに、なぜ笑顔になれるんだろうと思った。登ったという達成感か、頂上に立ったという喜びか。

そして、ハタと気付いた。笑顔になれるのは未だ体力が残っており、これから向かう下りへの好奇心が残されているからだ。頂上に着いて倒れ込むようでは笑顔になれないだろう。上りと全く同じ光景しか見られないならワクワクすることもないだろう。そう考えると、日々の生活も体力と健康に恵まれ、これから起こることへの好奇心があれば、笑顔で過ごせるのではないかと思った。

御子柴と

M柴、間もなくハーフタイムや。ノーサイドは未だ先や。がんばるぞ!
ジョギングに出掛け、近くの公園で体操していたら、飛んできた蜂が花に舞い降りた。恐る恐る近付いて写真を撮った。

蜂

「当たらぬ蜂には刺されぬ」ということわざがあるそうだ。危険や災いに近付かないようにすれば安全に過ごせるという意味らしいが、確かに蜂の背中を見ていると、「食事中やから、ちょっかい出すなよ。邪魔さえしなければ、こっちから襲うことはない」と言っているようにも思える。

それでもちょっかいを出したら、「泣きっ面に蜂」にしなくてはならない。これは良く知られたことわざだで、不運や不幸は重なるという例えだが、蜂の立場からすれば、「攻撃されたら反撃する。泣こうが喚こうが容赦はしない」という宣言でもあるだろう。

そして、「蜂起」だ。蜂の巣から多くの蜂が一斉に飛び出す様はよほど迫力があるのだろう。多くの人々が暴動や反乱を起こしたりすることを蜂に例えるようになったようだ。万一攻撃されたときには、一斉に立ち上がって容赦なく反撃する。

集団的自衛権の是非を問う議論が今ひとつ盛り上がらないが、この蜂の背中を見ていて、ひょっとすると、その大元となる自衛の精神が私たちに根付いていないからかなと思えてきた。
都議会でのヤジが問題になっている。そこで、「ヤジ」の語源を調べてみた。「語源由来辞典」によればこうだ。「ヤジとは野次馬の馬を省略し、動詞化された言葉である」。なるほど。それでは、野次馬とは何なのか?

「野次馬とは、年老いた馬を意味する親父馬からきた言葉。年老いた馬は仕事に使えず、暴れ馬も仕事に使えないため、野次馬は暴れ馬もさすようになった。更には、何も役に立たないという意味が転じ、自分とは関係ないところで無責任に騒ぐ人や、物見高く集まる人をさすようになった」。

要するに、野次る方は仕事をしていない側、野次られる方が仕事をしている側、ということになろうか。確かに、野球の観戦を思い出すと、投手の調子が良ければ良いほど、敵のベンチや観客席からは盛んにヤジが飛ぶ。仕事をしているのは投手、仕事をしていない人たちがヤジを飛ばしている。

塩村文夏議員は、きっと良い仕事をされていたのだろう。私はヤジではなく、花を贈りましょう。

バラ