日経ビジネスに野村克也さんの言葉を紹介する記事が出ていた。「優勝というのは強いか弱いかで決まるのではない。優勝するにふさわしいかどうかで決まる」・・・記事を書かれた田村編集委員は、「ふさわしい」とは一人々々の意識が勝つ組織に似合うものになっているかどうか、と言葉を足しておられるが、正にその通りだろう。

野村克也さんは監督時代、春のキャンプでは先ず「人生を考えろ」と選手たちに話し掛け、「何のために野球をやっているのか」、「どう生きるのか」と問い掛けられたらしい。プロ野球そのものが長丁場だか、それでも人生から見ればごく一部だから、人生そのものを考えないと心が開かないし、真の力も湧いて来ない、そういう意味なんだろうと私は思う。

野村克也さんは父親を戦争でなくし、貧しい環境で育たれたとのこと。周りの恵まれた人たちを見て羨ましいと思われたことも多かったろうが、無いものねだりはせず、欲しければ自分で取りに行くという生き方を通されたのだろう。だから、野村克也さんにとってはプロ野球選手も監督も一つの通過点で、野村克也さんの言葉にはプロ野球の世界に留まらない普遍性があるのだと思う。

私は今年、WHOの規定では高齢者となるが、もう一度どう生きるのかを考え、足りないものを探し、それを自ら取りに行こうと思う。
コロナウィルス感染の拡大は日本や世界の政治に混乱を、そして経済には大きな打撃を与えるが、人々のライフスタイルも大きく変化させるのではないか。

例えば私は、食料と飲料水があれば何とかなるかと思い始めており、これら以外のものを購入しようという意欲が明らかに小さくなった。言い換えると、この騒ぎが終わったら町に繰り出して買い物を楽しむぞ、という気持ちにはなれず、健康と安全が大事で、食べ物と飲み水、安心して眠れる場所があって本当に良かった、という気持ちに近い。。

(例年通り、今年も蕾を膨らませる桜)

又、朝晩の通勤電車が空くようになったが、これも時差出勤の快適さや在宅勤務の利便性の発見につながる可能性があるし、そうなれば、高い家賃が求められる都心のオフィスにも見直しが入るだろう。結果として、私たちのライフスタイルにも変化が訪れるように思うのだが、そのきっかけをコロナウィルスが持ち込んだように思う。

変化は大歓迎だが、変えないものもちゃんと決め、大切にしていこうと思う。
今日、3月3日は桃の節句でお雛様を飾る日だが、「耳の日」でもあるらしい。

(我が家はお殿様が向かって右の京都流)

そこで、耳を使ったことわざでコロナウィルス騒動を振り返ってみた。

「寝耳に水」
とにかく驚いた。予期せぬことが起こるものだ。

「忠言、耳に逆らう」
こまめに手を洗え、マスクを付けろ、人混みは避けろ、ねぇ、聞いてる?

「馬の耳に念仏」
俺だけは大丈夫、みんな神経質過ぎるよ、って思ってるな? そう顔に書いてあるぞ。

「耳にタコができる」
こまめに手を・・そうそう、分かってるじゃん、えっ? 何回も言われたから覚えたって?

「耳順」
ねっ? やっぱり拡がって来たでしょ? 子供じゃないんだから、最初から人の言うことを素直に聞こうよ。

「耳」が人や品性、人格に極めて重要な役割を担っていることを再確認。ちなみに、「耳順」とは60才を指し、その年齢なら品性の修養も進み、他人の言葉も素直に聞けるようになっていなさいという意味があるそうな。ああ、耳が痛い(笑)