高校時代から続いている運動部仲間の忘年会、「ピーマン会」に参加するため帰省した。先ずは今回も「これは切符ではありません」という利用票を手に不安な面持ちで新幹線に乗車(笑)



京都駅で湖西線に乗り換え、両親が眠る琵琶湖畔の和邇へ。母には赤のカーネーションを加えた花を、父には好物だったエクレアを供えた。


ピーマン会まで時間がたっぷりあるので、山科駅で下車、疎水沿いに学生時代に住んでいた日ノ岡まで歩くことにした。安朱橋から出発。


「イノシシに注意!」にビックリ。ただ、良く読むと「人慣れしたイノシシ」らしく、「餌を与えないように」と書いてある。餌は持っていないので注意は守れる(笑)


しばらく歩くと赤い橋が見えてくる。日蓮宗大本山本圀寺への道。春には疎水の両岸に桜が花開き、とても美しいところ。


更に行くと黒岩橋があり、その先にトンネルが見える。ここに来たのは20年振り。左の道を上がったところに実家があった。ちょっとだけタイムスリップした。


もう少し歩こうと、日ノ岡から九条山を越えて南禅寺へ。門をくぐれば、明治時代に造られた赤レンガの水道橋、「水路閣」を見られるが、足がつり始めたので中止(笑)


ふと歩数計を見たら、1万5000歩を超えていたので、近くにあったカフェで一休み。見事なアートが施されたカフェオレ。


仁王門通りを東山通りまで歩く途中に平安神宮の鳥居が見えた。「鳥居の上にはトラックを6台停められるだぞ」と小学生の頃、教えてもらった記憶がある。


ピーマン会は午後5時に開始。
会費を集めていたメンバーがトイレに行くなり、「あいつ、どこ行った?会費を持ち逃げか」(笑)、髪の毛が薄くなったメンバーが「昨日、床屋に行ってきた」と言うなり、「お前、それ、無駄遣いや」(笑)、一時間遅れで参加したメンバーが到着するなり、既に酔っ払ってるくせに「3分前まで飲まずに待ってたんやぞ。謝れ!」(笑)
と、今年も言いたい放題、笑い放題の賑やかな会になった。こんな70才で大丈夫かな。



そして、予告のなかった「もう一席は当日のお楽しみ」が始まった。12月に泉岳寺の近くで催される講談会だから、恐らく赤穂浪士の話だろうと想像はしていたが、鯉風さんが数ある「義士銘々伝」の中から選ばれたのは大高源五の話だった。

 
討ち入りを翌日に控えた12月13日、松尾芭蕉の弟子、宝井其角が両国橋で大高源五を見掛ける。2人は俳諧を通じて以前から顔見知りではあったが、源五がみすぼらしい姿で大掃除用の煤竹(すすたけ)を売り歩いているのを見て其角は心を痛める。しかし、そこは互いに俳人であることを幸いと、上の句と下の句を詠み合うことで旧交を温めようと源五に声を掛ける。
 
先ず、其角が上の句を詠む。
「年の瀬や水の流れと人の身は」
これに源五が下の句を詠む。
「明日待たるるその宝船」
 
 其角には下の句の意味が分からないが、多分、明日からは煤竹に代え、縁起の良い宝船の飾りを正月用に売るのだろうと解釈し、あまりにも源五が寒そうに見えたことから、自分が着ていた羽織を源五に与えて別れる。しかし、その羽織が俳諧を教えている松浦のご隠居からもらったものであることを思い出し、其角はその足でご隠居を訪ね、両国橋で出会った源五に羽織を与えてしまったことを詫びる。又、源五とは上の句と下の句を詠み合ったことも伝えるが、それを聞いたご隠居は下の句の「宝船」に込められた源五の覚悟に気付き、「明日は全国の大名たちが荒肝を冷やす出来事が起こるであろう」と呟く。そして翌14日、源五たち四十七士の赤穂浪士が吉良邸への討ち入りを果たす。
 
吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首級を上げた赤穂浪士は泉岳寺まで引き揚げ、主君の墓前で仇討ちを成し遂げたことを報告する。又、切腹後は主君が眠る泉岳寺に埋葬される。その泉岳寺が直ぐそばにあるだけに、高輪クリニックで聞く赤穂浪士の講談には生々しい迫力があるし、これを聞くと、無事に年末年始を迎えられそうな気分にもなる。いつものことながら、源五や其角、松浦のご隠居など登場人物の姿や表情が目に浮かぶようになる鯉風さんの講談は聞き応えがあった。感謝。

20回目を迎えたという、神田鯉風さんの「高輪講談会」にお邪魔した。

 

 
先ずは「合衆国皇帝ノートン一世」という鯉風さん新作の講談が始まった。アメリカに皇帝がいた筈はないし、これは架空の物語かと思ったが、実は1849年、サンフランシスコに現れたジョシュア・ノートンという実在の人物がいて、ゴールドラッシュに沸く同地で不動産に投資して成功を収め、地元でも有数の実業家になったとのこと。ちなみに、サンフランシスコには 49ers というフットボール・チームがあるが、これは1849年にサンフランシスコに殺到したゴールド目当ての採掘者をそう呼んだことから命名されたらしい。
 
さて、大成功した実業家ノートンは更なる成功を期して、銀行に勧められるまま小麦に投資するが、直後に小麦相場が大暴落したことから経営していた会社は倒産、財産も失い、行方不明になってしまう。鯉風さんがここで、「これだから銀行なんざ信用してはいけません。家族に銀行マンがいた私が言うのだから間違いありません」で会場から笑いが漏れた。私は中小企業の経営者だった父が「銀行は晴れの日に傘を貸し、雨に日にそれを取り戻しに来ると言われてる」と言っていたのを思い出した(笑)
 
ところが、1859年に失踪していたノートンがサンフランシスコに再び姿を現し、「自分は合衆国初代皇帝だ」と宣言し、次々に勅令を出し始める。最初は単に面白がっていた人々も、その内容に我欲や強制がなく、人々の快適な暮らしを望む愛情が感じられたことから次第に人気を博し始め、訪問する工場や学校、レストランで人気者になっていく。医学的には統合失調症を患っていたと言われているそうだが、ノートンが提唱していたサンフランシスコとオークランドをつなぐ「吊り橋」はその後、実際に計画されたようで、1936年に完成しているようだ。
 
ノートンを統合失調症の病人と見るか、それとも、人々への愛情に満ちた無欲の自由人と見るか。そんなことを考えながら聞いていたが、ノートンのお墓が今も地元で守られていると聞き、当時の人々が出した答えを聞いたように思った。実に印象深い講談だった。ノートンの存在を教えてくれた鯉風さんに感謝。