保立さんの「現代語訳 老子」を少しずつ読んでいる。
※本の概略についてはこちらを参照
■第2部 星空と神話と「士」の実践哲学
第三課 「士」の矜持と道と徳の哲学
さて、ここから話は世の中を観る老子の話になる。
取り上げられるのは原典47章である。
【現代語訳】
家の戸を出なくても世の中の動きを知ることはできる。窓から外を窺わなくても天の道理を知ることはできる。遠くへ出かければ出かけるほど、覚知(さとり)は少なくなる。こういう訳で、有道の士はそこへ行かずに状況を理解し、見ないで名をつけ判断し、さらには無為にして事業を成し行う。
【書き下し文】戸を出でずして天下を知り、牖(まど)より窺(うかが)わずして天道を見る。其の出ずること弥(いよ)いよ遠ければ、其の知ること弥(いよ)いよ少なし。是を以て聖人は、行かずして知り、見ずして名づけ、為さずして成す。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p264
保立さんはこの章について、老子は瞑想に決定的な意味を認めていて、個々人が瞑想と内観をもっとも大事な経験としていくことに重要な意味があるという。
また、老子は士大夫階級に知人のネットワークを持っていた筈だから、「行かずして知り」ということも実際に出来たに違いないと言っている。
私はこの章を、具体に捉われず道の観点から世の中を観る見方が例えられていると読んだので、このように訳した。
実際に見なければわからないという考えは捨てた方が良い。
具体に捉われればかえって本質を見失う。
世の中を道の観点から理解し、あるべき様を実践するのみである。
保立さんは更に現代のコンピューターネットワークは、「瞑想」のための前提条件としての電脳ネットワークであるという。
そして、こう結んでいる。
こういう新しい条件の中で、今後、二十一世紀に東アジアの知識世界の中にネットワークが張り巡らされていくことはほとんど必然であろう。私は、その場では『老子』をどう読むかが大事なテーマとなるに違いないと思う。それは紀元前から現代への東アジアの時間の流れを体感する上でもっともよい手段である。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p267
コンピューターネットワークがなくとも「老子」はいつの時代にも読まれてきたし、今もこうして読んでいるし、これからも読まれ続けるだろう。
そして、我々が老子に立ち返る日はいつか来るのだと思う。
その日が、人類滅亡の前だったらいいと思う。
▼保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018
【目次】
序 老子と『老子』について
第1部 「運・鈍・根」で生きる第一課 じょうぶな頭とかしこい体になるために
第二課 「善」と「信」の哲学
第三課 女と男が身体を知り、身体を守る
第四課 老年と人生の諦観
第2部 星空と神話と「士」の実践哲学第一課 宇宙の生成と「道」
第二課 女神と鬼神の神話、その行方
第三課 「士」の矜持と道と徳の哲学
第四課 「士」と民衆、その周辺
第3部 王と平和と世直しと第一課 王権を補佐する
第二課 「世直し」の思想
第三課 平和主義と「やむを得ざる」戦争
第四課 帝国と連邦制の理想