Eテレ「100分de名著」の10月の名著は「ヘミングウェイ スペシャル」だった。
各回の内容は以下の通りである。
第1回 大いなる自然との対峙 ~「老人と海」①~
第2回 死闘から持ち帰った不屈の魂 ~「老人と海」②~
第3回 交錯する「生」と「死」 ~「敗れざる者」~
第4回 作家ヘミングウェイ誕生の軌跡 ~「移動祝祭日」~
第1回と第2回は有名な「老人と海」で、この作品は晩年の短編である。
第4回の「移動祝祭日」はパリ時代を描いた連作である。
残る第3回の「敗れざる者」はやはり短編で、闘牛の場面を中心に闘牛士の生き様を描いた作品である。
、「100分de名著」公式サイトでは下記のように紹介されている。
負傷が癒え退院したばかりの闘牛士マヌエルは、興行師の元を訪ね再び闘牛の舞台へ立ちたいと申し入れる。だがあてがわれたのは二軍戦ともいうべき「夜間の部」。出場に反対していた仲間もマヌエルの情熱に押し切られ、これを最後に引退するとの約束と引き換えに共に舞台に立つ。苦戦の中、何度も牛に跳ね上げられ宙を舞い続けるマヌエル。無様な姿を晒しながらも渾身の力を込めた剣で終止符を打つ。生と死が交錯する闘いを終えたマヌエルが、運び込まれた診察室でとった行為とは? 第三回は、闘牛士マヌエルとヘミングウェイの姿を重ねながら、人間は死に最も近づいたときにこそ、その命が輝くというヘミングウェイの死生観を浮かび上がらせる。
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今回はこの「敗れざる者」が収載されている岩波文庫版「ヘミングウェイ短篇集」(上下巻)の記事である。
▼岩波文庫版の短篇集、谷口陸男(訳)
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いわゆる「失われた世代」の代表格として登場し、20世紀アメリカ文学に斬新なスタイルをもたらしたヘミングウェイ。短篇作家としての彼の活躍時期は1920―30年代に集中している。その数ある作品の中から、上巻には20年代に発表された「白象に似た山々」「殺し屋」など13篇を選び収める。
下巻には1930年代の作品から名篇「キリマンジャロの雪」など13篇を収録.上下巻を通していくつかの作品に登場するニック・アダムズは作者の分身ともいわれ,ヘミングウェイの短篇はニックの成長・経験・好意を軸に関連をもって構成されているという.読者はとりわけこれら“ニック物語”に作者その人の人生認識をうかがうことができよう.
ヘミングウェイは1952年に「老人と海」を出版した後の1954年にノーベル文学賞を受賞しているが、岩波文庫版上巻の解説によれば、主な短編の執筆期間は1920~1930年代ということである。
岩波文庫版の短編集では上巻が1920年代作品、下巻が1930年代となっている。
内容的にはどの作品にもヘミングウェイの人生経験が反映されていると思われるので、訳者解説から概略を紹介する。
1899年、シカゴ近郊のオーク・パークに生まれる。
少年期をミシガンのワルーン湖畔で過ごす。
自然に親しみインディアンとも交流があったという。
1918年、19歳で第一次大戦に従軍し負傷し静養をする。
ここからの20年間が主な短篇の執筆時期である。
1922年頃、新聞記者としてパリに移住。
1930年代後半にスペイン内乱を取材して「誰がために鐘は鳴る」(1940年)を出版。
1940年代に第二次世界大戦を取材。
1952年に「老人と海」を出版。
1954年に飛行機事故、その後にノーベル文学賞。
1961年に自殺(享年61歳)。 ※ノイローゼによるものと言われている
短編集の作品はヘミングウェイの分身と言われるニック(ニコラス)・アダムスが主人公の作品群、その他の物語、戦争物の3つに大きく分けられる。
所収作品は下記の通りである。
【上巻】
インディアン部落
医者と医者の妻
拳闘家
雨の中のねこ
二心ある大川 (その一)
二心ある大川 (その二)
不敗の男
異国にて
白象に似た山々
殺し屋
十人のインディアン
贈り物のカナリヤ
アルプス牧歌
【下巻】
清潔な照明の好いところ
世の光
神よ、殿方を楽しく休ましめ給え
スイスへの敬意
死者の博物誌
人は知らず
父と子
キリマンジャロの雪
フランシス・マコーマーの短い幸福な人生
密告
蝶と戦車
だれも死なない
尾根の下
以下、印象的であった作品の短評を述べて終わる。
---以下、ネタバレ注意!---
「不敗の男」
「100分de名著」で取り上げられていた、闘牛士マヌエルの生き様を描いた作品である。男としてあきらめない不屈の闘志は確かに描かれていた。「不敗の男」というタイトルは魂が負けなければ負けではないということだろうか。戦争で負傷した後に人生を再スタートさせたヘミングウェイの心情に通じるものがあるのかもしれない。個人的には渓流での鱒との駆け引きを描いた「二心ある大川」の方が趣深かった。
▼「不敗の男」収載の新潮文庫版はこちら
「二心ある大川」
ヘミングウェイの分身と言われるニックの物語である。(その一)では渓流に分けいった川の様子やキャンプの様子が細かく描かれる。淡々と綴られるがそのリアリズム溢れる筆致を追っていくうちに、実際に河原にいるような気持ちになる。
見たこともないような大鱒と格闘したあと釣り糸を切られたニックはこう思う。
きっとあの鱒は腹を立てているにちがいない。あのくらいの大きなやつなら、腹を立てるだろう。鱒とはそういうやつなんだ。(中略)丸太の方へ行ってその上に腰をおろす。この感動を早く追っ払いたくない。
※「ヘミングウェイ短篇集」(岩波文庫)上巻p67 より引用
自然との向き合い方が清々しい。
タイトルの「二心ある大川」とは何を意味しているのだろうか。
原題は「Big Two-Hearted River」であるが、自然の懐の深さという意味が込められているのだろうか、自然環境とそこに棲む生き物たちの豊かさという意味だろうか、あるいは、豊かな自然と厳しい自然の二つの顔という意味だろうか。
日本語で二心と言えば、最後の解釈が相応しいように思われるが、その辺りは定かではない。
いずれにせよ、行く手に沼地を見た主人公はそのまま釣りを終えた。
参考までに、タイトルについての考察がされていた他のサイトの記事を紹介しておく。
「フランシス・マコーマーの短い幸福な人生」
アフリカを狩猟の旅で訪れたマコーマー夫妻の話である。主人公のフランシスはライオンの狩りで、ライオンを前にして逃げ出すという失態をやらかす。しかし、その後の水牛の狩りで彼は怖れない一人前の男になる。
以前にも男が一人前になるところを見てきたし、そのたんびに彼は感動をおぼえた。(中略)一人前の男が持つ大事なものが、そいつが彼を一人前にしてくれる。女たちもそれを知ってる。くだらん恐怖はもうなくなるんだ。
※「ヘミングウェイ短篇集」(岩波文庫)下巻p212-213 より引用
これが、ヘミングウェイが体験したところの、男としての人間的成長ということであるように思われた。
「キリマンジャロの雪」
作家のハリー夫妻はアフリカを旅していたが、夫のハリーは二週間前の怪我が悪化して今は簡易ベッドで瀕死の状態にあった。
看病をする妻と過去の回想が交互に続きながら、死期が迫ってくる。
おれはすでにちゃんと自分の生活を持っていて、それが終わると、こんどはまた別の連中と金持ちの生活をやりはじめた、同じ場所でも最上の人々やまったく知らなかった連中にたちまじって。
考えることをやめてしまうんだ、するとその生活もまったくすばらしい。たいていの人間はこいつにやられてしまうものだが、そんなふうにくずれてしまわないように心の中をしっかり武装し、そして、いままでやってきた仕事ができなくなった以上は、そんな仕事のことなど念頭にないといったふりをしておく。だが心中では、この連中のことを書いてやるぞとつぶやく、この大金持ちのやつらのことをだ、(中略)しかし、いつまでたっても書きはしないだろう。なぜかといえば、くる日もくる日も書かないで快楽にふけり、みずから軽蔑する人間になり下がった日々の生活が、才能を鈍らせ、仕事への意欲を軟化し、最後にはすこしも仕事をしない人間にしてしまうからだ。
※「ヘミングウェイ短篇集」(岩波文庫)下巻p135-136 より引用
自嘲的な心理描写が長々と続く。
この短篇集全体の中でも珍しい作品である。
更に死期が迫り、主人公は思う。
自分は気力をくじかれた人間を軽蔑してきた。人はひとつのことを理解したからといって、それが好きになる必要はない。おれはいかなるものにも打ち勝つことができる、と心に思う。
※「ヘミングウェイ短篇集」(岩波文庫)下巻p155-156 より引用
男らしい勇気と不屈の魂を描いてきたヘミングウェイの本音なのではないかと思う。
そして主人公は最後の晩にこんな夢を見るが、その後、目覚めることはなかった。
行く手には、見わたす限り、全世界のごとくひろがり、巨大で、そびえ立ち、日をうけて信じ難いほど白く、キリマンジャロの四角い頂きがあった、そしてそのとき、自分のめざしているところはこれだなと気がついた。
※「ヘミングウェイ短篇集」(岩波文庫)下巻p162 より引用
この時、冒頭で語られていた「キリマンジャロの頂近くで氷結した一頭の豹の死体」の意味がわかった気がした。
主人公は頂近くに登りすぎていたのだ、この豹のように……
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「死者の博物誌」
さい、最後に戦争物を取り上げておきたい。
はじまりはこうである。
ぼくはかねてから思っていたのだが、博物学者の観察領域から常に除外されてきたものに戦争がある。(中略)死者についても、いくつかの合理的にして面白い事実を読者に提供することはできないだろうか? ぼくはできると思う。
※「ヘミングウェイ短篇集」(岩波文庫)下巻p65 より引用
そして、爆発による死体、炎天下に放置された死体、銃撃された死体……と死体の話が続いていく。
上品さというものはなるほど結構であるにちがいないが、人類を存続させるためには下品さもいくらか必要なのではないか。その証拠には、生殖作用のために定められた格好というものがそもそも下品も下品、大下品である。そしてこれこそ、お上品な夫婦生活の申し子である人間たちの今も昔も変わぬ本当の姿にちがいないというものだ。
※「ヘミングウェイ短篇集」(岩波文庫)下巻p71-72 より引用
こうした皮肉を交えながら。
「二心ある大川」の清々しさと比べて、なんと暗澹たる雰囲気であろうか。
そして、山岳地方の洞穴の死体の話へと進む。
山岳地方では、ときには、敵の砲撃から遮蔽された山かげの繃帯所の外に置いてある死体の上に、雪が降りつもることがあった。そういう死体は、土が凍りつかないうちに掘っておいた山腹の洞穴の中にはこびこまれた。この洞穴の中では一人の兵士がまるで花瓶でも割るように、射ちくだかれて、それでもまる一昼夜と次の日一日生きたまま横たわっていたものだ、(中略)担架兵たちは軍医に中へはいって、この男を診てやってくれるように頼んだ。
※「ヘミングウェイ短篇集」(岩波文庫)下巻p73 より引用
物語はこの洞穴の中の重傷者を巡る砲兵中尉と軍医の争いを描いて終わる。
為す術がない軍医に、砲兵中尉が「あの男を射殺してやろうという」と言うと、「じゃあ射殺して来いよ」と軍医は言い返した。
この争いは、担架兵があの重傷の兵隊が死んだと報告することによって結末を迎える。
「わかったかね、中尉君。われわれは無駄な喧嘩をしたものさ。戦時には、お互いに、無駄な争いをするものだ。」
※「ヘミングウェイ短篇集」(岩波文庫)下巻p77 より引用
こう軍医は言った。
どこがヘミングウェイの本音か……というよりも、どこも本音だらけなのに違いないとしか思われなかった。
訳者は解説の最後でこう言っている。
われわれはヘミングウェイの魅力のひとつにこの鋭い触角を――彼の小説の持つ現実感を加えねばなるまい。
※「ヘミングウェイ短篇集」(岩波文庫)下巻p318 より引用
この記事に書いた全ての感想の背後に、この訳者の指摘している現実感があったことは言うまでもない。