保立さんの「現代語訳 老子」を少しずつ読んでいる。
※本の概略についてはこちらを参照
■第2部 星空と神話と「士」の実践哲学
第二課 女神と鬼神の神話、その行方
さて、第二課もいよいよ最後の話である。
取り上げられるのは原典40章と42章である。
【現代語訳】
戻ってくるのが「道」の動き方であり、柔弱なのが「道」の用(はたら)き方である。天下の万物は「有」が形をとって生まれるが、その「有」は無」から生ずる。
【書き下し文】反は道の動、弱は道の用(はたらき)なり。天下万物は有より生じ、有は無より生ず。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p220
【現代語訳】
道から原初の「一」なる「有」が生し、一は二になり、二が三になって万物が形をとる。万物は、日陰(「陰」)を背中に負い、日向(「陽」)を胸に抱いて立ち、重荷を負い暖かさを胸に抱いて、活発に動く気配によって声を和(あわ)せている。
【書き下し文】道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。物は陰を負いて陽を抱き、沖気(ちゅうき)もって和を為す。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p220
この陰陽の概念は「老子」ではここにしか書かれていないという。
また、 「天下万物は有より生じ、有は無より生ず。」は老子の「無の思想」を述べたほぼ唯一の箇所であるという。
そして、我々はどうあるかというと「一なる矛盾を胸に抱く」のである。
取り上げられるのは、原典22章である。
長いが全文引用する。
【現代語訳】
曲っている木は切られない。屈(かが)まれば前に伸びる力がたまる。窪みには水が盈(み)ちてくるし、古くなれば新しくなるものだ。少なければ増えていくし、多いのは迷いのもととなる。有道の士は、この矛盾を、そのまま「一」として胸に抱いて、世の中の牧師となる。自分の見解だけで見ないから明るく、自分の判断だけを是としないから彰(あきら)かである。また自分の戦術だけで闘わないから功を達成し、自分を過信しないから長けている。こうして争わないと悟れば、世界は争いではない姿をみせる。古い診には「曲なれば則ち全し」とある。これは嘘ではない。私たちは曲がっているからこそ、真当なエネルギーを得て世界に戻るのだ。
【書き下し文】曲(きょく)なれば即ち全(まった)く、枉(かが)まれば即ち直し、窪(くぼ)めば即ち盈(み)たし、敝(やぶ)るれば即ち新たなり。少なければ即ち得、多なれば即ち惑う。ここを以て聖人は一を抱きて、天下の牧と為る。自見(じけん)せざる故に明、自是(じぜ)せざる故に彰(しょう)。自伐(じばつ)せざる故に功有り、自矜(じきん)せざる故に長し。夫れ唯だ争わず、故に天下能くこれと争う莫(な)し。古えの謂うところ、曲なれば即ち全しとは、豈(あ)に虚言ならんや。誠に全くして之に帰す。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p211-212
保立さんはこの章の要諦を「その人の抱えている矛盾の全てを認めようという考え方」(p227)であるとしている。
物事をよく見てありのままを理解するとはこういうことだと思う。
私はここが一番好きかもしれない。
もう一度、味読して終わりたい。
▼保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018
【目次】
序 老子と『老子』について
第1部 「運・鈍・根」で生きる第一課 じょうぶな頭とかしこい体になるために
第二課 「善」と「信」の哲学
第三課 女と男が身体を知り、身体を守る
第四課 老年と人生の諦観
第2部 星空と神話と「士」の実践哲学第一課 宇宙の生成と「道」
第二課 女神と鬼神の神話、その行方
第三課 「士」の矜持と道と徳の哲学
第四課 「士」と民衆、その周辺
第3部 王と平和と世直しと第一課 王権を補佐する
第二課 「世直し」の思想
第三課 平和主義と「やむを得ざる」戦争
第四課 帝国と連邦制の理想