保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018/第2部・第二課 女神と鬼神の神話、その行方(1) | 日々是本日

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 保立さんの「現代語訳 老子」を少しずつ読んでいる。

 

※本の概略についてはこちらを参照

 

■第2部 星空と神話と「士」の実践哲学

   第二課 女神と鬼神の神話、その行方

 

 保立さんはまず、老子の神話的な神の中心には女神がいることを指摘している。


 ここでようやく原典1章が取り上げられるが、この原典1章は「極めて有名なものである。しかし、本章の従来の解釈はきわめて曖昧で、しかもほとんど同じものはないといっていいほど相互に違っている」

(p191)という。

【現代語訳】
普通に行く道と、ここでいう「恒なる道」はまったく違うものだ。普通に名づけることができる名と、ここでいう「恒なる名」もまったく違う。宇宙における万物の始めの段階では、混沌としたものには名はない。そこに登場した万物を産む母が、物に形をあたえ「恒なる名」をあたえるのである。同じように、「恒なる道」には最初は「欲」がなく、その様子は微かに渺々(びょうびょう)としているが、それが「欲」を含めば物ごとが[徼](あきらか)にみえるようになる。この「恒なる道」と「恒なる名」は同じ場をもち、字は違うが同じ意味である。この二つの黒く奥深い神秘がつながるのが万物が産まれる衆妙の門である。

【書き下し文】
道の道(ゆ)くべきは、恒なる道に非あらざるなり。名の名づくべきは、恒なる名に非ざるなり。名無きは万物の始めなり。名有るは万物の母なり。故に恒なるものに欲無くんば、観るに以って其のところ眇(かそけき)なり。恒なるものに欲有るにいたれば、観るに以て其のところ[徼](あきらか)なり。両者は同じく出でて、名を異にするも謂うところ同じ。玄のまた玄、衆妙の門なり。

 

※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p190-191

※[徼]は本書では日偏の漢字

 保立さんはここにビッグ・バン理論との類似性を見ている。

 

 つまり、非定常の混沌からビッグ・バンにより世界が形をもち始めるという過程が、「名無き」から「名有り」への一瞬の転形と似ているというのである。

 

 そして、「「欲」の動きが入ってくれば明らかな形をもつとよめる」(p195)という。

 

 私もこの章を宇宙論として読むのはもっともであると思うし、「欲」の動きによって形が生まれるという考え方は現代のシステム論で言われている自律的作動を先取りしていたと見ることができよう。

 

 実に驚くべきことである。

 

 また、末尾の「衆妙の門」とは何かということが原典6章で述べられているという。

【現代語訳】
谷にいる不死の女神は巨大な玄(くろ)い雌牛の姿をしている。その陰門は谷の奥に開いて天地を生み出す。嫋(たお)で精妙な、その用(はたら)きはいつまでも尽きることがない。

【書き下し文】

谷神(こくしん)は死せず、これを玄牝(げんぴん)と謂う。玄牝の門、是れを天地の根と謂う。綿々と存するが若く、用(はたら)きて勤(つ)きず。

 

※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p198-199

 この章についての解説は、主に史学的考察であるので割愛する。

 

 「桃太郎が谷川を流れてくる桃から生まれたという日本の民話は、このような谷の女神の神話と深い関係をもっている」(p203)という興味深い指摘がされているので、関心のある方は本書を参照されたい。

 

 以降は次の記事とする。

 

 

▼保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018

 

現代語訳 老子 (ちくま新書)

 

【目次】
序 老子と『老子』について
第1部 「運・鈍・根」で生きる

 第一課 じょうぶな頭とかしこい体になるために
 第二課 「善」と「信」の哲学
 第三課 女と男が身体を知り、身体を守る
 第四課 老年と人生の諦観
第2部 星空と神話と「士」の実践哲学

 第一課 宇宙の生成と「道」
 第二課 女神と鬼神の神話、その行方
 第三課 「士」の矜持と道と徳の哲学
 第四課 「士」と民衆、その周辺
第3部 王と平和と世直しと

 第一課 王権を補佐する
 第二課 「世直し」の思想
 第三課 平和主義と「やむを得ざる」戦争
 第四課 帝国と連邦制の理想