保立さんの「現代語訳 老子」を少しずつ読んでいる。
※本の概略についてはこちらを参照
■第1部 「運・鈍・根」で生きる
第二課 「善」と「信」の哲学
前回の「善」とは何かということに続いて、「信」ということが説明される。
ここで挙げられる原典81章は最終章である。
【現代語訳】
信なる言葉は美しいものではない。美しい言葉に必ず信があるのではない。言葉の善は言い争うことにはない。言い争うのは善ではない。知の「善」は博(ひろ)いことではない。博いものは知ではない。目覚めた有道の士はものごとを後回しにしない。刻々と、すべて人々のために行動して、それでも愈(いよ)いよ充実し、すべてを人々にさしだして、さらに充実していく。天道はすべての物に利をあたえ、害することはない。同じように有道の士は全力で行動するが、争わないのだ。
【書き下し文】
信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は弁(あらそ)わず、弁うは善ならず。知る者は博(ひろ)からず、博きは知ならず。聖人は積まず。既(ことごと)く以て人の為にして、己は愈(いよ)いよあり、既く以て人に与えて己は愈いよ多し。天の道は利して害せず、聖人の道は為して争わず。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p72-73
老子思想の核心のとりまとめであって、「信」「善」「知」と有道の士の実践について述べられている。
前回の「善」とは何かという説明において、「水は善く万物を利して争わざるにあり。」(原典8章)ということであり、その後の部分で「言葉の善は信にあり。」とある。
「信」とは人間関係における信頼であり、「信」は「言葉の善」によってもたらされるというのが老子の考えであると保立さんは説明している。
「知」については、これは「知明」の意味であり、これは第7講で見た通り、自らを内省しまた微かなものを見ることである。
また、「博いものは知ではない。」という言い回しは儒学の学識的な知を否定している意味があるとしている。
後半の部分については、有道の士が行うのは善であり、それはあるべき様であるようにしていくことであれば積む(蓄える)必要はなく争う必要もないというのは理解しやすい。
個人的には、「聖人の道は為して争わず。」は「善を為すのに争いは必要ない。」と訳しておきたい。
また、この具体的実践のあり様としては、近江商人の哲学である「三方よし」、即ち「買い手よし、売り手よし、世間よし」が思い出された。
この後で有道の士の在り方について原典49章が挙げられているが、これについては実践の観点から以下の2点を指摘しておきたい。
まず原典49章前半の一部を引用する。
【現代語訳】
有道の士は自分の心を恒遠なる「道」の中において無としているので、そこに百姓の心を受け入れることができる。
【書き下し文】
聖人は恒にして心無く、百姓の心を以て心となす。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p76-77
保立さんはこの有道の士は自分の心の在り方を、無心であるから百姓のことを思う時は百姓のことで一杯になっていると説明している。
我々の実践としては、カウンセリングマインド、傾聴、共感ということから始められる。
次に原典49章の後半の一部を引用する。
【現代語訳】
有道の士は世の中にあって心おだやかにこだわりを持たず、世の人のために自分の心は洗い流してしまう。
【書き下し文】
聖人の天下に在るや、歙歙焉(きゅうきゅうえん)として、天下の為にその心を渾す。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p76-77
この「自分の心を洗い流す」というところに、以前紹介したアジャン・ブラム「マインドフルな毎日へと導く108つの小話」のゴミ箱の話が思い出された。
いきなり有道の士の心境に至ることはできないが、一歩近づくためにまず心のゴミを溜めないようにするというのは実践的である。
これについては、下記の記事を参照されたい。
有道の士のみならず一人一人が身近な人に対してこのような形で信を大切にしていけば、社会全体がとてつもなく善いものになるであろうことは想像に難くない。
▼保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018
【目次】
序 老子と『老子』について
第1部 「運・鈍・根」で生きる第一課 じょうぶな頭とかしこい体になるために
第二課 「善」と「信」の哲学
第三課 女と男が身体を知り、身体を守る
第四課 老年と人生の諦観
第2部 星空と神話と「士」の実践哲学第一課 宇宙の生成と「道」
第二課 女神と鬼神の神話、その行方
第三課 「士」の矜持と道と徳の哲学
第四課 「士」と民衆、その周辺
第3部 王と平和と世直しと第一課 王権を補佐する
第二課 「世直し」の思想
第三課 平和主義と「やむを得ざる」戦争
第四課 帝国と連邦制の理想