保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018/第1部・第四課 老年と人生の諦観(その3) | 日々是本日

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 保立さんの「現代語訳 老子」を少しずつ読んでいる。

 

※本の概略についてはこちらを参照

 

■第1部 「運・鈍・根」で生きる

   第四課 老年と人生の諦観

 

 第四課の残りの部分について、学問をしていくということを軸に述べていく。

 

 まず24講で取り上げられている原典20章を引用する。

【現代語訳】
学問などやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているのとで現実にどれだけの違いがあり、文章の美と悪の間にどれだけの相違があるというのか。人は学識を尊重してくれるようにみえるが、こちらも人に遠慮することが多くなる。だいたい学問をやっても茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。衆人は嬉々として、豪勢な饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登った気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私の心には帰るところもないのか。みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは明快に腕を振るうが、私の仕事は煩悶が多い。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながら田舎住まいを続けている。私は違う。しかし、それでもいい。私はここにいて小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。

【書き下し文】

学を絶てば憂い無し。唯と訶と、相去ること幾何ぞ。美と悪と、相去ること如何。人の畏るる所あるも、亦た以て人を畏れざるべからず。恍として其れ未だ央さざるかな。衆人は煕煕として大牢を享くるが如く、春に台に登るが如し。我れ独り泊として未だ兆さず。嬰児の未だ孩わざるが如く、累累として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るも、我れ独り遺し。我は愚人の心なるかな、沌沌たり。俗人は昭昭たるも、我独り昏たるが若し。俗人は察察たるも、我独り悶々たり。惚として其れ海の若く、恍として止まるところなきが若し。衆人は皆な以うる有りて、我独り頑にして以って鄙なり。我独り人に異なりて、食母を貴ばんと欲す。

 

※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p141-143

 長いが全文を引用した。

 

 保立さんはこの章が「老子」の中で一番好きだそうである。

 

 そして、次のような感想を述べている。

何よりもよいのは、学ぶものの誇りや自嘲や鬱屈という、今でも私などには親しい心情のあり方が語られていることである。

 

※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p144

 また、こうした感想から「人の畏るる所あるも……」の下りを敢えて、「人は学識を尊重してくれるようにみえるが、こちらも人に遠慮することが多くなる。」と訳したという。

 

 学問をするということの実感が伝わってくる。

 

 私自身は、「(志という考え方からすれば)止めろと言われて止めるようではそれは志ではない。学問をするという実態とはこういうものだがそれでもやるのが学を志すということだ」という主旨であると受け止めた。

 

 次に26講で取り上げられている原典7章を引用する。

【現代語訳】
天は長大であり、大地は久遠である。天地の時空が巨大で永遠である理由は、天地が自身で生じたものではないからだ。だからこそそれは永遠に続いてゆく。有道の士は、天地の時間の最後にいながら同時にその先頭におり、また天地の空間の外側にいながら同時にその中心にいることに気づく。無限を前にして私の存在は無となるが、しかしそれによって初めて自分が自由な自分になるのだ。

【書き下し文】
天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以は、其の自らを生ぜざるを以てなり。故に能く長生す。是を以て聖人は、其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存す。其の無私なるを以てに非ずや。故に能く其の私を成す。


※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p132-133

 深遠である。

 

 保立さんは「是を以て聖人は……」という部分について幾つかの解釈を挙げた後で、聖人は天地の長久な時空をも超越してその前後内外にとらわれない自由な存在であるという解釈をしている。

 

 また、老いた老子が「無私」となって消えていく先に永遠の時間を見ていたのではないかと想像している。

 

 私は自分が「無私」になることによって自由になるという保立さんの訳に、ソロー「森の生活」の一節を思い出してとても共感した。

 

 ソロー「森の生活」から再度、下記を引用しておきたい。

迷子になってはじめて、つまりこの世界を見失ってはじめて、

われわれは自己を認識しはじめるのであり、また、われわれの置かれた位置や、

われわれと世界との関係の無限のひろがりを認識するようになるのである。

 

※ソロー「森の生活(上)」岩波文庫(飯田 実 訳,p304)より引用

 今はまだ、既成概念を捨てて世界のあるべき様、すなわち「道」を認識したところには無限の広がりと自由があるのだと思うばかりである。

 

 

▼保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018

 

現代語訳 老子 (ちくま新書)

 

【目次】
序 老子と『老子』について
第1部 「運・鈍・根」で生きる

 第一課 じょうぶな頭とかしこい体になるために
 第二課 「善」と「信」の哲学
 第三課 女と男が身体を知り、身体を守る
 第四課 老年と人生の諦観
第2部 星空と神話と「士」の実践哲学

 第一課 宇宙の生成と「道」
 第二課 女神と鬼神の神話、その行方
 第三課 「士」の矜持と道と徳の哲学
 第四課 「士」と民衆、その周辺
第3部 王と平和と世直しと

 第一課 王権を補佐する
 第二課 「世直し」の思想
 第三課 平和主義と「やむを得ざる」戦争
 第四課 帝国と連邦制の理想