保立さんの「現代語訳 老子」を少しずつ読んでいる。
※本の概略についてはこちらを参照
■第1部 「運・鈍・根」で生きる
第四課 老年と人生の諦観
今回は、第四課に含まれる下記の2つの講について、「世に認められなかった老子」と「世に認められた老子」という観点で書いてみたい。
22講 私を知るものは稀だが、それは運命だ
23講 老子、内気で柔らかな性格を語る
まず22講で取り上げられている原典70章を引用する。
【現代語訳】
私を知るものは稀で、私に則って行動する人は少ない。これが有道の士はつねに褐色の粗末な衣を着て懐に玉を隠しているということなのであろうか。
【書き下し文】
我を知る者希(まれ)にして、我に則る者は貴(とぼ)し。是を以て、聖人は褐を被て玉を懐く。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p132-133
「褐色の粗末な衣を着て懐に玉を隠している」とは、官職に登用されることなく市井にあってその力を隠しているという意味である。
「世に認められなかった老子」である。
保立さんはこの章の既存の解釈を幾つか挙げた後で、有道の士は自らの教えが知られることは稀だということを自覚しているものだという訳にしたという。
私は素直に、理解されなければ聖人であっても市井にあってその力を隠している他はないという主旨であると解釈しておく。
次に23講で取り上げられている原典67章を引用する。
世の中の人は、私は大人物らしいが、とてもそうはみえないという。私はたしかに大人物という柄ではないが。柄でないだけは大人物というところか。もし私がいかにも大人物らしければ今よりも卑小な人間であったろうと思う。それでも私には私なりの宝がある。それは第一に「慈」、慈け深さであり、第二は「倹」、遠慮がちなことであり、第三は自分から世の中の先に立つのが嫌いだということである。ただ慈け深く情に脆いので逆に勇敢になったりする。そして遠慮がちなので逆に広く共感をえることもあった。また先に立つのが嫌いなので、逆に代表の地位につかされることもあった。もし、今になって、慈け深いという性格を捨てて勇敢であろうとし、遠慮がちな性格を捨てて気が大きくなり、後についていく性癖を捨てて先頭に立とうとすれば、私はすぐ死んでしまうだろう。ともあれ、現在、戦いに勝つためにも、守るためにも慈け深さは必須のものだ。天が今まさに私たちを救おうとしているとすれば、それは慈を以て衛るということに現れるはずである。
【書き下し文】
天下皆な謂う。我は大にして不肖に似たり、と。夫れ唯だ不肖なり、故に大に似たり。若し肖ならば、細かきこと久しきか。我に三宝あり、持して之を保つ。一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先と為らず、と。慈なり、故に能く勇なり、倹なり、故に能く勇なり、倹なり、故に能く広し、敢えて天下の先と為らず、故に能く事を成す長となる。今、慈を捨てて且に勇ならんとし、後を捨てて且に広からんとし、後を捨てて且に先んぜんとすれば、死せん。夫れ慈は、以って戦わば勝ち、以て守れば則ち固し。天将に之を救わんとし、慈を以て之を衛らんとす。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p132-133
大人物と噂されている 「世に認められた老子」である。
保立さんはこの章について、老子が「慈・倹・後」という性格であったことを指摘して、老子の掲げる「徳」の理想像が女性的な側面を持ったものであることを強調している。
これはこれとして、「慈・倹・後」の対置されているのが「勇敢・気宇壮大・先に立つ」である。
大人物という世評について老子は、「勇敢・気宇壮大・先に立つ」という一般的に評価されているような在り方によるのではなく、自分の保守的な考え方に合う「慈・倹・後」によるものだと言う必要があったのではないだろうか。
第四課はこの後にまだ別の話が続くので、以降については次の記事に譲る。
▼保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018
【目次】
序 老子と『老子』について
第1部 「運・鈍・根」で生きる第一課 じょうぶな頭とかしこい体になるために
第二課 「善」と「信」の哲学
第三課 女と男が身体を知り、身体を守る
第四課 老年と人生の諦観
第2部 星空と神話と「士」の実践哲学第一課 宇宙の生成と「道」
第二課 女神と鬼神の神話、その行方
第三課 「士」の矜持と道と徳の哲学
第四課 「士」と民衆、その周辺
第3部 王と平和と世直しと第一課 王権を補佐する
第二課 「世直し」の思想
第三課 平和主義と「やむを得ざる」戦争
第四課 帝国と連邦制の理想