木村拓哉主演の映画「マスカレード・ナイト」公開に合わせて、同じく木村拓哉主演「武士の一分」がテレビ放映されていたのを今更ながら観た。
「武士の一分」は山田洋次監督による「時代劇三部作」の三作目ということだったので、一作目である「たそがれ清兵衛」、二作目の「隠し剣 鬼の爪」を順に観たのはこれまでの記事に書いた通りである。
その前に、原作である藤沢周平の隠し剣シリーズの短編集を読んだので今回はその記事となる。
隠し剣シリーズには「隠し剣 孤影抄」と姉妹篇の「隠し剣 秋風抄」がある。
どちらも、海坂藩という作者の架空の藩に仕える武士の物語で、その点では海坂藩士達の群像物語でもある。
※単行本は1981年出版
所収作品と初出は以下の通りである。
邪剣竜尾返し (「オール讀物」1976年10月)
臆病剣松風 (「オール讀物」1976年12月)
暗殺剣虎ノ眼 (「オール讀物」1977年3月)
必死剣鳥刺し (「オール讀物」1977年6月)
隠し剣鬼ノ爪 (「オール讀物」1977年9月)
女人剣さざ波 (「オール讀物」1977年12月)
悲運剣芦刈り (「オール讀物」1978年3月)
宿命剣鬼走り (「別冊文藝春秋む147号)
どの作品にも共通しているのは、主人公は下級藩士で一癖あるために周囲から軽んじられているが隠し剣を使うということである。
全体を通しての感想としては、藤沢さんは短編の中に必要な情報だけを盛り込んでいるので、読み込みやすく話の焦点に意識が自然に向いていく。
つまり、ストーリーテリングが上手いのだ。
そしてどの作品にも隠し剣は出てくるが、剣は添え物の印象ですらある。
作品の核心は常に主人公の生き様である。
こうした時代物を読んで思うことの一つは、時代物あることによって何に触れているのだろうかということである。
これについては基本的には、希薄になった忠義と人情に生きるという生き様だろうと思う。
更にこの作品で感じたのは、この生き様の中に見える、そうせざるを得ない仕方なさと、それを受け入れる潔さだった。
そして、こうした精神的なあり方を美徳とする心がまだ日本人に残っていると感じた。
巻末の阿部達二さんの解説でも触れられているが、武家というのは家督を継ぐかどうかでその後の人生は大きく異なる。
家督を継げなかった次男、三男というのは婿にいくなり、実家に寄生しつづけるなりと自らの処世を考えねばならず、武家社会の周辺に追いやられる。
映画「武士の一分」のタイトルにも使われている、「一分」というのは 「一分を立てる」と言えば「一身の面目が立つ」という意味であり、「宿命剣鬼走り」の中で「おのれが一分」いう表現がある。
この「一分」という表現は「宿命剣鬼走り」の中で一回現れるだけであるが、作者はどの作品の主人公についても、生まれた順番によって周辺に追いやられた人々の「一分」を立ててやりたかったに違いないと感じた。
この「一分を立てる」ことは、まだ我々が恥の文化を持っている現代に生きていることでもあると思う。
確かに人としてあったという事実を裏書きしてくれるものを求める心に呼応するものであり、成功することではなく、一分を立てることでそれが成就される文化を、我々はまだ持ち続けているのである。
有難いことだ。
以下、各編短評を述べて終わる。
---以下、ネタバレ注意!---
「邪剣竜尾返し」
主人公が寺での夜籠りで美女と邂逅するところから始まり、武門の争いに発展する中でそのからくりが明かになって、夜籠り邂逅した美女が身ごもっているという話が出てくるという、時代物らしくかつドラマチックな作りの作品。
身ごもっているかもれしない女の行方はわからないという結末に、作者の哀愁の味が出ていた。
「臆病剣松風」
臆病な夫に物足りなさを感じる妻の心境の変化を、並行して進む夫のお役目話と共に綴る作品。
わずかな心境の変化を少しずつ繋いでいくところに趣きのある作品であった。
「暗殺剣虎ノ眼」
ミステリー仕立ての小品。
最後の話の落とし方を解説者の阿部達二はコントと評していたが、家を存続させて藩士としてのお役目を果たすという生き方は描かれていた。
「必死剣鳥刺し」
主人公の三左エ門はかつて、藩主の愛妾を殺した過去があった。
藩政に口を挟みだした藩主の愛妾を苦々しく思っていた目付達は、三左エ門を極刑にはせず、やがて藩中の役目を再び与えた。
その後、三左エ門は家の手伝いに来ていた姪と体の関係を持ってしまう。
姪と体の関係を持った主人公の結末はやはり討ち死にである。
妾を殺した恨みを持ち続けていた藩主の計略によってだまし討ちにされる。
こうやって巡り巡る世界なのだと言っている気がしたのと同時に、最後に体の関係を持ってしまった姪が身ごもっていることが語られ、子が残るであろところにカタルシスを残した。
それにしても、姪と関係を持ってしまうところの心理を伝える下記の描写が見事だった。
「一人の女が、湯殿から帰ってくる気配を三左エ門は聞いた。しのびやかな足音が、部屋の外の廊下を踏んで通りすぎ、やがて奥の部屋で、かちりと襖がしまる音がした。三左エ門は静かに夜具を押しのけて立ちあがった。」
※藤沢周平「隠し剣 孤影抄」文春文庫p159 より引用
「隠し剣鬼ノ爪」
映画「隠し剣 鬼の爪」の原作にもなっている作品である。
映画では、下級武士の片桐宗蔵は、かつて好意を抱いていた奉公人きえが嫁ぎ先で病に倒れたと知って引き取り、心を通わせていくが、藩の江戸屋敷で謀反が発覚し、お家騒動に巻き込まれていくという形で物語が展開する。
これは、映画はもう一つの「雪明かり」という作品との合作となっているためで、この短編ではかつての奉公人きえを嫁ぎ先から引き取る下りはない。
宗蔵は母と暮らしているところにきえが奉公していたが、母が亡くなり、
「主従とはいえ家の中が若い男女二人きりになったのはどういうものかと考えたことがある。」
※藤沢周平「隠し剣 孤影抄」文春文庫p179 より引用
という状況になったところから始まる。
話の主軸は、謀反の罪で藩の牢に投獄されていた藩士・狭間の妻をめぐる話であって女性の対比的な描写が光っていた。
16歳から奉公してから三年経ち、19歳になったきえの瑞々しさはこう表現されている。
「きちんと坐ったきえの膝が盛りあがっている。そこにはまぶしいほどの肉が盈(み)ちているに違いなかった。」
※藤沢周平「隠し剣 孤影抄」文春文庫p179 より引用
謀反の罪で藩の牢に投獄されていた藩士・狭間は、昔、道場で同門だった男であった。
宗蔵はこの男を追って討つように命じられる。
その夜、狭間の妻は宗蔵の家にやってきて自分の身体と引き換えに夫を逃がしてくれと頼むのであった。
この狭間の妻の美貌の描写はこうである。
「誇らかに突き出した胸、くびれた胴、ゆったりと張った腰が宗蔵を圧迫していた。その衣服の下には、藩命にそむくどころか死を賭けても悔いを感じさせない、悦楽に満ちた肉が隠されている気がした。」
※藤沢周平「隠し剣 孤影抄」文春文庫p196 より引用
「悦楽に満ちた肉」である。
凄まじい表現である。
狭間の妻の描写は主人公の取り乱す心理を描くのに十分なものがあったが、狭間の妻の人物について書かれている所がなく、設定の必要上で登場させたように感じられたのが残念であった。
この狭間の妻の誘惑を辛うじて退けた後、宗蔵はきえを抱く。
その時の狭間の妻ときえの対比はこうである。
「咲きほこっている山あじさいの花のようだった狭間の妻にくらべれば、きえはまだ薄みどりのゆりの蕾にすぎない。だが、やはり花だ。」
※藤沢周平「隠し剣 孤影抄」文春文庫p196 より引用
一方、狭間の妻は宗蔵の上役・堀に、やはり自分の身体と引き換えに夫を逃がしてくれと頼みにいく。
宗蔵の上役・堀は狭間の妻の身体を弄んだだけで何もしなかった。
なんとか狭間を討った宗蔵は、後日このことを知って憤慨する。
実は隠し剣鬼ノ爪は暗殺剣で狭間を討つ時には使われないのである。
そして、この暗殺剣は卑劣な奸物(かんぶつ)を討つのに用いられた。
最後は、宗蔵が農家の奉公人であるきえをなんとか武家の嫁にしようと決心して終わる。
実に清々しい読後感があった。
武士が一個人としてあるということをが一番感じられた作品で、映画の原作にされた大きな理由でもあるだろう。
この個人として生きるということが、山田洋次監督が「たそがれ清兵衛」の次に見たものではないだろうか。
「女人剣さざ波」
「とにかく、はじめにしくじったのよ」
※藤沢周平「隠し剣 孤影抄」文春文庫p221 より引用
と主人公・俊之介が自分の結婚を嘆くところから始まる。
妻をめとらば見目麗しくという男の気持ちと、美しくはないという自覚のある妻の邦江。
「邦江は時どき寄りそって来ようとする。夫婦であれば当然である。だが、その気配を感じると、俊之介の心の中に、邦江の前にぴしゃりと戸を閉めるような気持ちが働くのである。すると邦江もすっと一歩しりぞいて、さっきのような魯鈍な顔つきになり、挙措は変に馬鹿丁寧になるのだ。そういうことを繰り返しながら、二年経っていた。」
※藤沢周平「隠し剣 孤影抄」文春文庫p238 より引用
二年という歳月が伝わってくるような上手い描写である。
タイトルが「女人剣」であるように、隠し剣の使い手は実は邦江であり、俊之介が果し合いをすることになっていた相手をなんとか倒す。
妻に救われた俊之介が心を入れ替える心理描写で物語は終わる。
読後感は悪くなかったが、藤沢さんは何を書きたかったのだろうとも強く思った。
確かに、何か大きなきっかけがなければコミュニケーションはなかなか変わらないという現実もあろうが、女性がここまで命懸けでやらないとコミュニケーションは変わらなかったとも読めたからである。
女性にも一分を立てたかったのか、相手の不器量にこだわり続ける男の浅はかさか、はたまた……
「悲運剣芦刈り」
主人公が未亡人となった兄嫁と道ならぬ仲になって悲劇的な結末を迎える話である。
であるから主人公は勝たない。
「隠し剣鬼ノ爪」では女の誘惑を退ける主人公が描かれていたが、ここでは対極的に兄嫁と道ならぬ仲に走った主人公が描かれている。
藤沢さんはなんでこの作品を書いたのかとここでも強く思った。
主人公は悲運剣芦刈りの使い手であるが負ける。
決まりを破れば破滅が来るということ書いた。
それでも決まりを破る人の心をわざわざ書いた。
やはり天は掟破りを見逃さないということの天誅的な表現だろうか、それでも悔いはなかったということだろうか……
そう思ってページを遡ると、主人公が兄嫁に言う最後の言葉は「悔いてはおりません」(p291)であった。
「宿命剣鬼走り」
先にも書いたとおり「隠し剣 孤影抄」の中では唯一、「おのれが一分」という形で「一分」という表現が出てくる作品である。
宿命剣と言う通り、親の世代の家同士の確執に子の世代が巻き込まれて、子どもは討ち死んで最後には親同士が果し合いで決着をつけるという、「家」の色合いが濃く出ていた作品。
隠居した主人公の周辺で家同士の争いが連綿と続いていく物語には、家を中心に生きるということの並々ならぬ圧力が感じられた。
話の流れは強引に感じたところもあったが、娘も死に、妻の言葉に耳を貸さなかった自分を回顧する主人公を描くあたりは、主人公の心に一段と積もるものがあったことの表現としては成功していると言えよう。
そして、この隠居した主人公の心にじわじわと積み上げっていくものを描くことが最後の果し合いへの納得感を高めている。
果し合いに勝ったにも拘らず自害して終わるという最後に、武士の悲哀が端的に象徴されているのを見た。
姉妹篇「隠し剣 秋風抄」については次回の記事に譲る。