藤原英司「動物の行動から何を学ぶか」 講談社現代新書 1974 | 日々是本日

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bookudakoji の本ブログ

 ここのところ若い頃に集めた資料の整理をしている。

 動物行動関連ファイルの最初にあったのが、この本の引用だった。

 

動物の行動から何を学ぶか (1974年) (講談社現代新書)

 

 藤原英司「動物の行動から何を学ぶか」は1974年に出版された講談社現代新書である。

 

 資料の中でも、なかなか古い本だ。

 

 著者の藤原英司さんは動物学者で動物関連の専門書やシートン動物記の翻訳などの著作がある。

 

 そしてこの本は、動物の行動そのものではなく動物行動の見方・考え方の本である。

 

 資料ファイルに最初に抜粋されていたのはこの部分本の冒頭部分であった。

 動物の行動について考える時、かならずといっていいくらいわたしが思いだすことはアフリカでの、ある午後の情景である。(中略)わたしがその時見た同じアフリカの情景が、カメラやベンを通じて人間の世界へ持ちこまれると、それはさまざまの音響に色づけされたきわめて騒々しいものに変質する。(中略)いわば自然は自然の世界から切りとられた時、その自然がもつ本来の姿から、なにか本質的なものが脱落し、逆になにか人間的な色づけがなされると言える。
 そして動物の行動についての考察にも、常にこの人間的な色づけからくる不協和音が入り込む。(p6-7 より引用)

 動物行動や人間行動の研究者にとっては、切り取られた現実を解釈しようとする時の基本的な注意事項であるが、一般向けの新書でこれを冒頭にもってくるというのは実に硬派だ。

 

 せっかくなので、この機会に再読してみた。

 

 話はこの後、「空を飛ぶ鳥は自由か?」というテーマに進む。

 

 「鳥のように自由」という表現があるように、空を飛ぶ鳥は大地との対比で大地にある制約がないという点では自由であろう。

 

 しかし、大地には大地の制約があるように空には空の制約があるという類比(アナロジー)で見れば、空だから自由ということにはならない。

 

 著者こう語っていく。


 対比で見れば「鳥のように自由」と表現される空だが、類比(アナロジー)で見れば空の制約を理解しやすくなる。

 そして著者は、類比(アナロジー)で見ることの意味にもう一歩踏み込む。


 干潟や湖は渡り鳥のコースとなっていることが多いものである。

 

 だから、干潟や湖を埋め立てることの渡り鳥への影響は類比(アナロジー)の視点で考える必要があると言うのである。

 

 次の第二章では、言語での記述の限界についての考察が述べられており、結びはこうである。

 

 いわば、われわれがアリストテレス以来、延々とやってきている動物の世界を記述するという仕事は、絶望的といっていいほど無謀な試みといえるわけであり、動物についての考察も、まずこのことをはっきり認識した上で、すすめられなくてはならないであろう。さもなければ、われわれは常に事実と判断とのすれちがいにさえ気づくことなく、人智の勝利を謳歌する愚者の楽園へさまよいこむことになりかねない。(p33-34 より引用)

 

「人智の勝利を謳歌する愚者の楽園」とは!

 

 なんと文学的な!

 

 そしてこの後では、人間中心のものの見方・考え方を次々と指摘していき、第七章の終盤でこう述べるに至る。

 

 破壊された環境を回復するために、動物の行動からなにかを学ぶのではない。動物の行動を研究することによって、環境を破壊したものの元凶を学ぶのである。(p133 より引用)

 

 私の専門は心理学であるので、この観点でもう一歩踏み込んで記事を終わりたいと思う。

 

 バーネットによれば、ヒヒはロンドン動物園では狂暴な振舞いをするが、野生状態ではヒヒの間にそれに相当する行動は見られないという。(中略)野生のヒヒの行動をチェックできない場合、その狂暴な行動が、すべてのヒヒの行動であるかのような錯覚をおこさせる。(p148 より引用)

 

 人間の行動を解釈しようとする時に、その「人間と地域」を「動物と動物園」の類比(アナロジー)で考慮することには意味があるだろう。

 ものの見方・考え方に対する注意書きは、動物の行動であれ人間の行動であれ同じなのだから。

 

 

▼「シートン動物記 サンドヒル雄鹿の足跡」の記事はこちら

 

 

▼藤原英司訳「サンドヒル雄鹿の足跡」収載の「シートン動物記」はこちら