ブックエンドに挟まれて死ぬ -11ページ目

ブックエンドに挟まれて死ぬ

本を買う金が欲しい。

本を読む時間が欲しい。

学校へ提出する原稿と、部活動のための原稿を先週末までに仕上げた。


ぼくはむかしから、創作意欲というのは泉のようなものだという表現を使っている。

湧き出るものだということ。

枯れ果てる可能性があるものだということ。


プラスの意味もマイナスの意味も含めて、泉である。


最近それも枯渇しがち。

雨が降らないのである、泉に。


・・・矛盾している。泉は湧き出るものなのに雨が影響するなんて。


湧き出てこなければ、ほかからの恵みが欲しくなる。


・・・他力本願なんだろうか。


何らかの都合で明日も休み。

でもバイトがある。昼からは動けない。動くなら朝からだろう。

こういう日も読書日和とでも言うのだろうか。動けない日のことを。


家は落ち着く。

落ち着くからそこが家として機能しているのだろうけれど、ゆったりとできる空間としてそこはとても従順に機能してくれているように思う。まあ自分の家ではなくて家族と一緒だが。


落ち着く空間を、と思って図書館を思いつくひとは多いと思う。

喋らずに本と向き合ったり、あるいは虚空を眺めて自分を見つけることもできよう。


ぼくがそこへ行こうと思うと、電車代が往復で四百円かかる。

たったひと駅なのだが、片道三分に二百円を費やすことになる。

車で行ってもいいだろうが、駐車場は二時間までしか無料にならず、それ以降は三十分ごとに百円がかかる。


なんとも非効率なのである。それに見合った効果――たとえばいい本に出逢うであるとか、いい発想ができるであるとか――が見込める予測が立たないのである。


他の場所も同様。なにか求めたものに対してのレスポンスが甘いのだ。


よって家にこもる。一番効率が良いと考えがつくから。

それが「家が一番落ち着く」理由なのかもしれない。

明日は出掛けるので、何かをするということができない。

いや、何かをするために出掛けるのだが。

家でぐうたらはできないということ。


ぐうたらしている時間が一番もったいないが一番いい使い方だと思う。

多くのものが便利を求めて時間短縮をするのはいい。

ただし、それで生まれた暇さえも、何かにせかされるように動かなければならないような空気をまとっている。


あえてそれに反してみるというのはどうか。

それがぐうたらである。

暇である。ゆえに何もしない。


「ぐうたら」を、「何かしろ」と言われても「ぐうたらしてます」と言い返せるような、そんな力と地位を持ったものにしたいものである。


今の社会にはあまりそぐわないかもしれないが。