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「正しい」を上回る上位概念がある件
お疲れ様です。
多摩川土手へのウォーキング中、YouTubeで次の動画をラジオ感覚で聴いていたのです。
(19分29秒)
カナダ在住の若者ヤマタツさんのチャンネルなんですが、大統領選についての内幕リポートでは信用できるお話をされてくれるのです。今回は民主党内で吹き荒れる「バイデン降ろし」の内情を教えてくれているのです。
民主党の上層部(上院、下院院内総務などのリーダー層やオバマ氏などの陰の実力者たち)はもう本音では「バイデンさんよ、頼むから自主的に降りてくれ」ということのようです。それでぼちぼちとそういう動きが出ているとか。オバマ氏もついに見解を表明したとか(遠慮がちにではあるようですが)。
しかし肝心のバイデン氏その人が身内からの強い支持もあって「わしゃ降りん!」と頑張っているという。
さて、ヤマタツ氏はそれについて、「ボクはバイデン爺さんの方が正しいと思うんですよね。だってついこの間まで「あんたしかいない!」つってバイデンさんを祭り上げて、それでなんだか「でも勝てそうにないな…」となった瞬間に、「あんたじゃダメだ…、降りてくれ」って、なんだそりゃ?!でしょう」、と。「民主的といえばバイデン爺さんの主張こそ民主的な有り方で正しい訳で、党内実力者たちの方がロジック的には間違ってるでしょう」と。
はい、「正しいかどうか」で言うならきっとバイデン氏の方に「理」があるのでしょう。
それを分っているからこそ、民主党の実力者たちも「お前、降りろ!」というような強引な談判をする訳にいかず、やんわりと「降りてくれた方がアメリカの為ですが…」という感じで要請やらお願いをもちかけているということなのでしょう。
そこで私は思うのです。
「正しさ」より上位の重要概念があると。
それが「どっちでもいい」であると。
これはかのキリンさんが昔から唱えておられる究極的すごいフレーズなのです。
「AかBかの正しさより、どっちでもいいが上位である」のです。
まるで冗談のように聞こえるのですが、大真面目に「そうである」と私も同意するのです。
「なぜそんなことが言えるのか?」
と、問われることに対して、これにロジカルに条理を尽くして説明、立証することは難しいのです。
ですが、おそらく、それはこの世の真実を抉(えぐ)っている言葉なのです。
「どっちでも良い」
たとえば、ですが、次のようなシチュエーションで、
ある娘さんがいて、たまたま同時期に2人の男性から言い寄られたと。
それが、Aクンは医者の卵で将来はきっと有能な医者になりそうな好青年である、
方やBクンはしがない芸術家志望の貧乏画学生であるという。
そんな時、両親は「そりゃAクンを選びなさい」と言うでしょう、普通。
しかし肝心の娘さんはどうしても貧乏画学生のBクンに心惹かれている。
「どっちにするべき?」
Aをとるのが正しいのか、Bを選ぶのが正しいのか・・・。
そもそも「どっちが正しい」という設問自体がどうなのかと・・・。
きっと、「Aをとるならこういう未来が待っていて、Bをとるならこういう未来が待っているでしょう」ということでしかないのです。
「Aをとるなら必ず幸福になり、Bをとるなら必ず不幸になる」というようなことではないのです。
おそらく、世の中の選択においては、ほとんどそういうことになっているだろうと思われるのです。
もちろん、理系の科学や数学などという学問世界においてはそうではないのです。
「1+1=2」と「1+1=3」と、どちらが正しいのか、というような設問では、どちらかでしかないのです。
もちろん、実際の人間社会における選択でも、「Aをとれば成功が待ち、Bをとれば没落が待つ」という選択もあるでしょう。
ある会社で、重大な案件があって、「A案、B案、どちらか選ぶべき」というような社運を賭けるような選択を迫られることもあるでしょう。
そんな時、社長が「じゃB案で」として決めたことが、結果として没落に通じる場合もあれば、逆にそれが大成功して「凄い決断だった」として賞賛されるようなこともあるでしょう。
その時にでも「どっちでもいい」ということになるのでしょうか。
きっとそうなのです、と、私は答えたいのです。
かつて大東亜戦争前、日本が日英同盟を捨てて日独伊三国同盟を締結しようという方向性になったとき、松岡洋右外相がそれを強く進言して政府を動かして実現させたようなことらしいのですが、確かにその方向は「誤った選択」であったと結論付けられるのでしょう。
そういう意味では、「どっちでもいい」のでなく、「どちらかが良く、どちらかが悪い」ということでないのか、ということにはなるのでしょう。
ですがそこにおいても、私は思うのです、「日本が道を誤ってそういう結果になったのだが、実はそれで良かったのだ」と。
つまりは、「道を誤るべくして誤った」と言いたいのです、つまりは「道を誤ることが結果として良かったのだ」という風に。
一人の人の人生も、一国の運命も、同じように考えられると思うのです。
うら若き女性が、将来有望な医者の卵の好青年を選ぶのも、あるいはしょうもない貧乏画学生を選んで、実際苦労の絶えない貧乏画家の伴侶となるのも、きっと「どちらも人生」なのです。
貧乏学生を選ぶことが「誤った選択だ」とされるなら、世の中にはそういう「誤った人生を選択する男女の若者がごまんといるのです。
しかし本当にそれは誤った選択なのでしょうか。
必ずしもそうではないと思うのです。
いやいやいや、話が収まらない方向になりそうです。
はい、「どちらが正しいか?」という設問が、該当する場合もあるけれど、その設問自体が意味のない場合も多いということなのです。
そして人生行路においては、おそらく、「どちらが正しい」のかでなく、「どっちも正しい」というべき選択が多いのだろうと、むしろそれの方が圧倒的に多いのだろうと。
プロの将棋では、終盤はもう「悪手の海を泳ぐが如くである」と形容されるのです。
悪手を差さないことが凄いことであると。
悪手をさす方こそが普通であると。
人生行路もきっとそういうことなのだろうと思うのです。
私の人生にしても、きっと悪手の連続だったかもしれないのです。
日常ではもう「失敗」の連続なのです。
なので、今回、「ウチをどうするか?」という重大な選択を迫られているのですが、私は「悪手」の方を選択してしまうかもしれないのです。
もう、「それでもよか・・・」と思うのです。
分からないのです、人生。
どれほど精密正確に将来を設計し見通し決断をして行ったにしても、悪くなる時は悪くなり、逆にどれほどお気楽ノー天気に軽く決断して行ったとしても、良くなる時はかってに良くなるのです。
いやいや、そういうことだと・・・。
アメリカさん、
バイデン氏を降ろすのもヨシ、降ろさぬもヨシ、
トランプ氏を選ぶもヨシ、選ばぬもヨシ、
ということでしょうか。
いやいやいや、
もう何もかにもを、お気楽ノー天気に見るべしと。
それにしても、究極、「どっちでもイイ理論」は凄いなと。
ご紹介まで。
ではでは。
ヴァンス氏をどう見るかの件
お疲れ様です。
今日は昨日と変わってずいぶん暑くなりそうな気配です。
いよいよ「梅雨明けか?」という感じではあるのですが、予報ではまだ当分ぐずついた天気になるようです。それでももう集中豪雨の大雨被害はなくなるようで、結構なことなのです。
さて、今しがた多摩川土手にウォーキングで行っていたのですが、今年のアレチウリの繁殖状況が分かってきまして、相変わらず凄いなと。冬~春~初夏と、ずいぶん大人しくしていたのですが、ここに来て(えっ?もうこんなに!)と驚くような急成長ぶりです。それでカンナの群落にも魔の手が伸びておりまして、私も(そろそろ退治しに来なけりゃあかんのかいなぁ…)と。
そして今日はクマゼミの鳴き声が聞こえていたのです。
アブラゼミの方はもう1週間ほど前から聞こえていたのですが、キャノンの本社横の土手の桜並木から聞こえてきていたのです。早いです、出て来るのが。
さて、数日前からアメリカの副大統領候補に指名されたJ.D.ヴァンス氏に付いて取沙汰されているのです。賛否両論の立場から。
支持派の方ではもちろんトランプ氏支持の立場の人たちでありまして、それはもう「そうだよね」と納得です。
反対派の人たちも当然、反トランプのスタンスの人たちでありますので、それもそれで「そうでしょう、それは・・・」として納得です。
で、私があえてここで言及したいと思ったのが、池田氏がヴァンス氏を「買っていない」ということと、同じ池田氏のエックス上に、篠田英朗氏の「ヴァンス、侮るべらからず」という記事の紹介がある、ということからなのです。
池田氏はヴァンス氏のことを、こう書いているのです。
池田信夫@ikedanob
2016年にはトランプを「ヒトラー」と呼んだ男。
— 池田信夫 (@ikedanob) July 16, 2024
カネとポストで転ぶ政治的カメレオンだが、トランプのお気に入りらしい。 https://t.co/yBbhT7ymnG
「カネとポストで転ぶ政治的カメレオン」という表現は、きっとヴァンス氏が当初はトランプ氏を激烈に否定しておきながら、数年後に自分が上院議員選挙に出馬する時に、トランプ氏の支持を受けて当選したのを受けて、今度は逆に「熱心なトランプ支持に寝返った」という事実を見てのことだろうと思われるのです。
さて、この事実をどう見るか、ということで少し議論の余地があろうかと。
ヴァンス氏が、「トランプ氏からの応援を受けたくて、それで信条スタンスをコロリと転換してトランプ支持に転向した」のか、それとも、ヴァンス氏自身が公言しているように、「私は大統領当選後のトランプ氏の政治実績を見て、それで自分が間違っていたことを反省した。それでトランプ氏を支持するようになった」ということが真実なのか。
この点は判断が難しいところでしょうか。少なくとも現時点で公表されている情報だけでは、前者なのか後者なのかを判別することは出来ないような感じです。
それで、池田氏のように「カネとポストで転んだのだろう」という見方もできるし、また好意的に解釈して「いや、トランプ氏を見直したからだというのは本当だろう」という見方もできるのです。
私は雰囲気的に両方の要素があったのだろうと思うのです。
政治的計算や打算もあっただろうし、またある程度は「こいつ、予想と違って意外とヤルな…」という風にも見えていたのだろうと。
方や篠田氏の方はアゴラに次のように書いているのです。
◆アゴラ◆
(篠田 英朗、2024.07.17)
篠田氏はエックスではこのように、
「共和党副大統領候補ヴァンス氏の『ヒルビリー・エレジー』が面白く、一気読みしてしまった。その読後感の拙文。すでに、まともな知識人やメディアなら、ヴァンス氏を軽蔑して罵倒すべきだ、という業界的常識感が蔓延しているが(私も政治的立場を支持するわけではない)、見下すのは間違いだと思う」
さて、私自身は今のところ「留保付き」でヴァンス氏のことは好意的に見ているのです。
なので反トランプ陣営が「ダメな奴を選んだものだ」という風には否定的に捉えてはいないのです。
基本的には人間誰しも欠点、短所、ダメ点はもっているのです。
いつも偉そうに他人を断罪する池田信夫氏ご自身でも、そうなのです。
そして私自身そもそもそうなのです。
完璧、完全な人間など古今東西未来永劫絶対にいないのです。
その欠点やダメ点を「どう評価するか」だけなのです、問題は。
それを「それは決定的だ」として否定するのか、そうでなく「まぁ、しゃあないんちゃう…」としてそこを寛大に見許して行くのか、なのです。
池田氏は今回ヴァンス氏を「買わない」ことをヨシとしたのでしょう。
方や篠田氏の方は、「いやいや、これは侮れないですよ…」として高く評価したようなのです。
池田氏も篠田氏のアゴラ誌への寄稿文をご自分のエックス上に載せているので、ある程度はヴァンス氏への見方を変えているかもしれないのですが。
それはそうとしまして、政策上のことでは、トランプ氏もヴァンス氏も「ウクライナ問題」では「手を引くのが一番」と考えているようでありまして(私としては結構なことと認識しているのですが)、世の中全般としましてはそれは悪評ふんぷんなことになるのです。
やはり世界標準的(西側自由主義諸国の共通理解として)には「どこまでもウクライナ支援が善、ウクライナを見捨てることは悪」ということになっているのです。
なのでそういう政策を標榜する両氏が「良識派(=世界標準派)」から「利己的だ!」「バカだ!」と断罪されるのは仕方ないことなのです。
しかし、私は思うのです。
そういうバカだと非難されている両氏のその政策が実行されるなら、実は「世界にとって、ウクライナにとって、ロシアにとって」、それが一番の方策なのであると。
言うなら、「動機は悪でも結果は善」ということになるであろうと。
私は、両氏がそう考えるのは確かに「バカだな…」と思っているのです。
ウクライナになぜ支援しないのか、という問いに対して、
「だってそれはアメリカの利益にならないから」という立場からの判断と、
「だってそれは世界にとって良くないから」という立場からの判断とでは、とにかく理由が異なるのです。
両氏は単純に「それはアメリカファーストでないから」という、「それはアメリカの国益にならないから」という、そういう軽薄単純な理由から支援はしない方がイイのだと考えているのです(たぶん、ですが)。
しかしそういう考え方は利己的で良くない考え方なのです、本当は。
なので、私はそういう考え方をする両氏を「高く買う」ことはできないのです。
ですが、しかし、なんと、その政策は「実は正しい」ということなのです・・・。
ムムム・・・・
そういうことでありまして、
次期アメリカ大統領の正副コンビですが、この両人を公平冷静冷徹に評価、認識することはなかなか難しいことになりそうです。
ただ、本当にトランプ氏が蛮勇を振るって(本当に文字通りの蛮勇でしょうが)、ウクライナ戦争を終わらせてくれるなら、それは世界にとって西側にとってロシアにとって、なによりウクライナにとっては「福音」以外の何モノでもないと。
まさに、「動機は悪だが結果は善」ということの世界的スケールでの実証例になるだろうと。
う~~む・・・、
心からそれを期待するのです・・・。
ほんまに、
「頑張れトランプ!!」
いやいやいや・・・、
私は偉そうに、分っている風にこうして書いているのですが、
それもまた「どんな根拠があってあんたはそんな偉そうに言えるねん?!」と指摘されるなら、
いやいや、
「すいません・・・」と。
難しいものです、ほんまに・・・。
それでもまぁ、言いたいことを言えないのもなんですので、
あまり根拠もない直感的な考えではあるのですが、
そんな風に考えているのですということで、
ご紹介まで。
ではでは。
(2本目)道教寺院??キリスト教会??
お疲れ様です。
午後になり薄日が差して蒸し暑い陽気になりました。
さて、昨日私は塾の教材を買いに大久保にある教科書など特殊教材を扱っている「第一教科書」なる書店に出向いていたのです。駅からすぐのところにあるのです。
ここはもう30年にわたって時々買いに行く馴染みの書店なのです。
で、昨日は近くで昼食を食べて行こうと思いまして、駅近くの食堂街(というほどでもないのですが、けっこう昔から居酒屋など多く立ち並んでいる界隈)を歩いたのです。そこは第一教科書から1分ほどの場所でして、ここもまた昔からよく食べている界隈なのです。
で、少々驚いたのが、何やら「中国道教らしい寺院」が2軒も並んでいたのです。
1軒の方はもう数年前から建っておりまして、その時には私もそれなりに驚いたのですが、今回はもう1軒が増えまして、一軒おいて並んで建っていたのです。
いやいやいや、私は(こりゃなんじゃらほい…)と思いまして写真まで撮ったのです。
しかも、その通りを挟んで向かい側には、これまた不思議な「教会」が出来ているのです。
こちらも思わずパチリと。
(新しく出来た方)
(こっちが数年前からある方)
(こちらはその一階の様子)
(そしてこちらがよく分からない「チャーチ」)
(看板には「新宿シャローム教会」と書いてあるのです)
いやいやいや、何やらエキゾチックな雰囲気になっているのです。
しかも大久保は昔から異様に外国人比率が高いのです。昨日も行き交う人たちの民族系統が色々でして。年々増えている印象です。
しかも道教的な寺院の中には中国語を喋っている「おばさん」的な女性が数人です。
私は(大久保は昔から「韓国系」だったけど、最近は「中国系」もノシて来ているのかねぇ…)などと思っていたのです。
で、帰宅して今になってちょいとググってみれば、なんと、「中国」ではなく「台湾」だとか。
こちらに興味深いサイトがありまして。
(2021.03.07)
大久保駅はホームに降りた途端、ちょっとうれしくなる。新宿からひと駅隣にありながら、JR中央線の各駅しか停まらないこともあって人影はまばら、ひなびた感じが漂っている(褒めてます)。このあたりは、韓国を筆頭にネパール、ベトナム等々、エスニック料理店がひしめく新大久保エリアの西端に当たる。ホームから新宿寄りの南口への階段を降り、ガード下の改札をぬけて右手に出れば、渋い飲食店街のただ中。さらに目前の斜めに延びる小道へと踏み込むと、すぐ先に周囲とは空気を異とする朱色の屋根のど派手な建物がにゅっと突きだして見えてくる。「東京媽祖廟(とうきょうまそびょう)」である。在日の台湾人の方々が心のよりどころにと建てた、道教の立派な寺院である。・・・<以下略>
いやいやいや、そういうことだったのですかぁ、知りませなんだぁ・・・。
(これなら思い切って入って行って参拝してきたらよかったと)
このサイトでは詳しく色々書いてありまして、大久保駅周辺の様子なども写真付きで分かるのです。
さて、それで今度は「新宿シャローム教会」の方をググってみたのです。
そしましたらやはり出て来たのです、ホームページが。
(いやいやいや、そういうことでしたかか~、なるほど~…)と。
そして今度はちょいと動画も視聴してみたのです。
いやいやいや、驚いたのです。
なぜといって、それはあたかもアメリカの福音派の教会かのような雰囲気だったのです。
みんなで賛美歌を歌っているのです、それがもう、ゴスペルかという感じで。
何やら感極まって涙を流している人もいるという・・・
(ムムム・・・、こりゃカルトかいな・・・)、と思ってしまうような・・・。
いやいやいや、宗教です、宗教・・・、宗教・・・、
ムムム・・・、
正直、(なんだかなぁ・・・)なのです。
私自身がかつて、キリスト教系でもなく仏教系でもなく、神道系の宗教ではありましたが、いずれにしても宗教団体に入っていた人間でしたので、こうして宗教全般をひっくるめて、(なんだかなぁ・・・)というような感想を漏らすこと自体が、「そりゃどういうこっちゃねん・・・」ということではあるのです。
いやいやいや、もう複雑な心境というしかないのです。
そういうことでありまして、昨日、大久保という不思議な場所に行き、エキゾチックな雰囲気を味わって帰ってきて、それで今日、こうしてネット上を散策して「新たな感想、感慨」をもって振り返ったということでありまして、ご紹介したような次第なのです。
キリスト教も、
仏教も、
そして道教も、
神道も、
イイ面と悪い面とがありまして、
「完璧なモノ」など何もないのだと・・・。
「神はあるのか?」
と問われるならば、
「あると思う人にはあり、ないと思う人にはない」
というしかないのだろうなと、そう思えているのです。
ただ、これまでのような「神さま」などは無いと。
全知全能にして宇宙社会人間界を支配し司るような神は、無いと、思っているのです。
ただ、「命の究極の源である原初の命としての、従来の神の概念を超えた宇宙原理としての2大根源エネルギーとしての根源的存在」は有ると。それを神というなら神としてあるとも言えると。
ただそういう存在は従来の「神概念」とは全然別個の在り方にして、それを「神」と呼ぶなら呼べるでしょうが、いずれにしても「全知全能の究極唯一神」というようなモノではないと。
そもそも「一神」ではなく「二神」なのですから・・・。
話が逸れました、
いやいや、
それにしても、ああして賛美歌を歌って一体感を醸し出して、そして神の慈愛に触れて感動して生命の喜びを実感する瞬間というものが、あの人たちにはあるのだろうなぁと。
そしてそれはそれ自体としては決して悪いことではないと・・・。
あ~、
世界は広いのですねぇ~・・・、と。
ご紹介まで。
ではでは・・・。
(J.D.ヴァンス氏のことはまた・・・)
『ヒルビリー・エレジー』の映画版とな?!
お疲れ様です。
予告編のご紹介です。
(2分27秒)
後でまたJ.D.ヴァンス氏について少し書いておきたいと思っているのです。
とりあえずご紹介まで。
ではでは。
「ヒルビリー」なる物語・・・
おはようございます。
雨が降り始めているのです。
降りみ降らずみの梅雨らしいシトシト雨です。
さて、今朝は台所のテレビから「・・・副大統領候補を指名」とかいう言葉が聞こえてきまして、「おぅ、ついに・・・」として驚いてテレビの前に駆け寄ったのです。
聞けば何やら「J・D.ヴァンスなる上院議員」とか。
私はその名前に聞き覚えがなく、(誰なん?、下馬評に上がっていたっけ・・・)と訝しんでいたのですが、朝食後2階に上がってきてPCの前に座りさっそくググってみれば、(おぅ!)と。
私が驚いたのが、なんと、その人は自伝的著作で『ヒルビリー・エレジー 』なる本を書いていて、それがベストセラーになっているとか。
私はヒルビリーエレジーなる言葉を聞いて、(そういえば確かブログで書いたことがあるような・・・)となったのです。
私は確か数年前に2度ほど「ヒルビリー」なる言葉に言及しているのです。
それで(ひょっとして・・・?)と思いましてKOBONBLOGのブログ内検索に打ち込んでみたと。
確かに、出て来たのです。
①どこもかしこも「政治」は困ったことに・・・
2021年03月02日
②ご紹介(ヒルビリーといわれる人たち…系)
2016年11月08日
このうちの②の2016年の記事でJ.D.ヴァンス氏について著書と氏について紹介しているのです。
そして読めばさすがに私も(あ~、そうそう、そうだったよな・・・)として書いた当時のことを思い出したのです。
その当時は、まさかこの著者が8年後にトランプ氏の副大統領候補者となって表舞台に登場してくるなど思いもよらずです。
いやいやいや、不思議な巡り合わせというのでしょうか、まさかあのトランプ氏がヴァンス氏を担ぎ出すとは。
しかし私が全然知らなかっただけで、NHKではもうすでにこのヴァンス氏を有力候補の一人として紹介していたのです。(先ほどこの記事を見て驚いたのです)
(そうですかそうですか、なるほどね、そうでしたか・・・)
いや、そして私は自分の記事(①の方)にあった川崎大助氏のこの記事を改めて読み直して、(う~~む・・・、そういうことか・・・)と納得したのです。
改めて、トランプ氏が「負け犬たち」に目を向けていることが分かったのです。
それは、「真実、心から負け犬たちに共鳴共感して」ということからでなく、単に「選挙に勝つために必要だと思っているから」ということからかもしれないのです。
その「心」までは分からないのですが、いずれにしても「それが選挙の行方を左右する重要重大なポイント」であることに違いはないのでしょう。
もし前者なら、トランプ氏は見かけによらず「心優しき人」であり、後者ならそれはそれで「政治家として賢い」のです。
トランプ氏が「ラストベルトの人たちに呼び掛けている」という事実、「アメリカを再び偉大な国に!」と叫んでいる事実、そしてそのために「アメリカファースト」を叫んでいるということが、確かにそれは「頭悪い連中の目の前にニンジンをぶら下げて、選挙を有利に展開するというきわめて利己的で幼稚な発想」に見えるのですが、果たしてそれだけでやっていることなのかと、私は少しく疑問に思えてもきたのです・・・。
クリントン→ブッシュ→オバマ、と続いて来ているアメリカ政治は確かに「エスタブリッシュメント」の系譜なのです。確かに「エリート達による政治」であったことは事実なのです。
そんな「エリート支配によるアメリカ政治」に、断固「ノー!」を突き付けているという意味では、確かにトランプ氏は「革命的」な政治家かもしれないのです。
トランプ氏は自らはむしろエリートの出身なのです。
それでも「目は虐げられた人たちに向いている」のです。(フリをしているだけかもしれませんが)
それゆえに、そういう階級、そういう階層の人たちがトランプ氏に熱狂するのも無理はないのかもしれないのです。
かつてヒラリー女史が、「トランプ氏支持者たちの多くがどうしようもない人たちだ・・・」と失言して大いに支持を失ったことがあったのですが、そういうヒラリー女史と異なり、この点ではトランプ氏の方が「スタンスとして正しい」となるのです。
いやいやいや・・・、
かつて私が子どもの頃ですが、『じゃじゃ馬億万長者』なるテレビ番組があったのです。
(51秒)
もう記憶の彼方のことなのですが、今でもうっすらと覚えているのですその番組を見ていたことを。
その番組の背景に「ヒルビリー」があったことなど、当時は知る由もなく。
アメリカ、
オザーク高原、
ヒルビリー、
カントリーソング、
テイラースイフト、
ジェニファーローレンス、
そしてJ・D・ヴァンス・・・
う~~む・・・、
高々と理想を掲げて「弱者救済!」、「ポリコレ!」、「BLM!」、「キャンセルカルチャー!」と叫ぶ高学歴意識高い系の民主党支持の人たち・・・
方や、「そんなこた知らねーよ!それより移民をなんとかしてくれ!給料上げてくれ!」と叫ぶ低所得階層で意識低い系トランプ氏支持の人たち・・・
(そりゃ意識高い系のパックンが嫌うのももっともだが・・・)
う~~む・・・、
どちらもアメリカ、
どちらも「その通り・・・」
はてさて11月、アメリカ国民は、いや正確にはアメリカの「スイングステートの人たち」はどちらの候補を大統領に選ぶのでしょうか・・・。
いや、「どちらの候補」という言い方がもう不正確になっているという。
民主党は果たして誰を「民主党大会で選ぶ」ことになるのでしょうか・・・。
こんどはそっちが焦点になってきているという。
いやいやいや、アメリカ大統領選、これほど混迷を極めることはなかったのでないかと。
いやいや、こりゃ最高の見ものだなと・・・
ご紹介まで。
ではでは。
【おまけ】
ヴァンス氏の奥さんのようです、
https://ja.campusintifada.com/j-d-vu-ansuno-pei-ou-zhe-usha-chirukuri-vu-ansutoha
「プーチンは止まるのか?」の件
おはようございます。
今日は午後から雨が降り出すとか。
梅雨の時期もいよいよ今週いっぱいとなったようです。
毎年こういう流れですが、
梅雨明け → 夏休み始まり → 日差しがカーッと照り付け夏が本番、
今年も大体そうなりそうです。
さて、昨日のトランプ氏銃撃事件で世界中がそれ一色となったのですが、国内的にはどうも「石丸氏問題」がテレビでも取り上げられてなかなか興味深い話題になっていたのです。
私としましては池田氏の見立てがだいたいその通りだろうと思われていますので、もう興味を惹かれることもなく、むしろ(早く消えて欲しいのだがなぁ‥‥)という感じでいるのです。
もう一つのトランプ氏事件ではどうも犯人は単独犯であって特段に「裏」があるような感じでもなさそうです。
安倍氏銃撃事件犯人の山上ナニガシと似たような事情(きわめて個人的な理由という意味)でしょうか。
さて、今朝ほどwebチェックしていてご紹介したいと思った記事を2本。
1つは橘玲氏のブログから「日本の植民地支配を考える」という。
1つは篠田英明氏のアゴラ寄稿記事から「プーチンは止まるのか?」という。
❝近現代史の歴史家のあいだではすでに常識になっていることのようだが、ヨーロッパ諸国の「歴史認識」は日本とはかけ離れている。もし日本がフランスを「見習え」ば、「韓国・台湾の植民地化や満州国建国にも“肯定的な役割”がある」と学校で教えるべきだ、という法律をつくることになるだろう。“進んだ”欧米諸国と比較して日本の戦争責任を論じるひとたちは、この事実を知っているのだろうか❞(by橘玲)
(2024年7月12日)
「歴史認識」というものは、本当に難しいものだと思うのです。
戦後、そしてオバマ大統領時代ですら、安倍首相が靖国神社参拝をした時などでも、アメリカ政府は日本に対して正式に「遺憾の念」を表して「歴史修正主義はヨクナイ」とイチャモンを付けてきたのです。
21世紀の今日ただ今でも、左派系は「歴史修正主義はヨクナイ!」の看板を金科玉条のごとくに、もう自明の理のことのように掲げているのです。
いやいやいや、なんとしたことかと・・・。
もう1本ですが、こちらです。
(篠田 英朗、 2024.07.15)
私はオルバン首相の動きを高く評価するのです。
その点ではEU首脳と大きく異なる見解なのです。
もちろん「日本政府公式見解」とも。
ポイントは、「プーチンはウクライナで止まるのか?」という問いに対する答えです。
ゼレンスキー氏やバイデン氏、その他欧州主要国の公式見解が、「止まるはずがない。次はバルト三国がやられる。よってここは何としてもウクライナを負かせる訳にいかない!」と考えているのです。
それに対して親露派の人たちは「そんなことはない。ウクライナ侵攻は特殊事情であって、ブーチンに領土的野心があってのことだと考えるなど、それこそバカな発想だ」ということになるのです。
そしてそれがミアシャイマー氏や伊藤貫氏など、ごく少数の国際政治学者に支持されている見解でありまして、それゆえに「ウクライナ支援はむしろ平和を阻害する間違った方策である」という見解に至るのです。(私もその考え方を支持しているのですが)
さて、そういうことでありますが、篠田氏も「それにしてもオルバン首相を泡沫欧州国の異端児として無視しづけることは、無理だ。今回の「平和ミッション」で、停戦要請の包囲網が目に見えて形成されたことは、11月以降の情勢展開の可能性に、大きく影響すると考えておくべきだろう。」と述べておりまして、これまでの「停戦より戦争継続→ロシアを負かす」というシナリオより、この停戦シナリオの方がより現実性が高いものなのでなかろうか、というくらいには柔軟に見始めているような感じです。
これが世界的に主流派になることによって初めて、ウクライナ戦争が終わることになるのなら、このオルバン氏の今回の動きは大きな一歩になるに違いないと、そう思うのです。
ガンバレ、オルバン!
ご紹介まで。
ではでは。
トランプ氏暗殺未遂とな?!
お疲れ様です。
今は未だ事件の真相は闇の中なのですが、篠田氏のエックスに興味深い見方が紹介されていましたので、ご紹介したいと。
篠田英朗 Hideaki SHINODA
@ShinodaHideaki
見方A:通報を受けた警備側スナイパーが犯人を発見して狙い、犯行を確信した後に無力化したが、犯人の動きが早かったため、狙撃を防げなかった。
— 篠田英朗 Hideaki SHINODA (@ShinodaHideaki) July 14, 2024
見方B:犯人が狙撃するのを(あえてわざと)待ち、狙撃したのを見て犯人を射殺した。
犯人側の動きと照合できないとわからないな。 https://t.co/KrMu5MPoTE
そして現場の様子ですが、
はて、一体どういうことになっていたのでしょうか・・・。
確かに120~130メートルの距離から「頭部を狙う」とは、プロの仕業だろうかという疑い
も・・・。
なぜといって、まさに「耳を貫通」といって、もうほとんど狙撃成功じゃないのかと・・・。
そしてプロだとしたら一体「裏に誰がいるのか?」という・・・。
ムムム・・・、
ケネディ暗殺が結局迷宮入りしたように、この事件も同じような顛末に終わるのかもしれないと・・・。
一寸先は闇という・・・。
ご紹介まで。
一寸先は闇、but、迷いは尽きない件
おはようございます。
薄曇りの朝です。
今日の東京は一日曇りとか。
それでもそれほど暑くなりそうもないので有り難いです。
世の中のことは毎日毎日、小さなことから大きなことまで話題が尽きることなく湧いてきています。
ですが私の方、まさにプライベート関係で「ウチをどうするか問題」がいよいよ最終局面に入りつつありまして、そちらの方に色々頭が占領されているようなことで、落ち着いてブログを書くような事情でないのです。
いやいや、人生というものは、難しいものでありまする。
かつて私は自分の人生を振り返りますと、いくつか「大きな選択と決断」ということがありまして、その時その時に大いに迷い悩み揺れ動き、優柔不断というなら優柔不断でなかなか最後の決断が出来なかったものなのです。
たとえば、20歳の時、「いったん成立して戸籍まで換えた養子縁組を破談にするかどうか」、
同じく「大学を辞めて東京に帰るかどうか」という事案。
22歳の折り、「母の思いを振り切って再び大学へ戻る(復学する)かどうか(=東京から天理へ舞い戻る)」という事案。
33歳の時、再び舞い戻った天理から「東京(実家)に帰るかどうか」という事案。
さらには40~50歳頃に断続的に起こってきていた「遺産相続問題」に絡んでの「兄」「姉」「私」の三者三つ巴の利害の中での「どうするか」の悩みでしょうか。
いやいや、どれもこれもなかなか大変な苦渋の選択でありまして、どちらにするにしても「あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず」のトレードオフ的な構図になっていたのです。
つまりは、どちらを選んでも相応の困難(嫌なこと)があり、どちらかが決定的にオールハッピーな選択になることなどないのです。
まぁ、それが人生、ということなのでしょう。
私の今回の「どちらにするか」という選択にしましても、A案をとればコレは良いがアレとソレがダメ、B案をとればソッチは良いがコレとアレがダメ、C案をとればアレは良いがコッチとソッチがダメ、的なメリットデメリットが付随するのです。
それは言うなら「ハイリスクハイリターン」と「中リスク中リターン」と「ロウリスクロウリターン」の選択のようなことでもあり、あるいはまた、「良いモノは高く、安いものは悪い、ほどほどの値段のモノはほどほどの良さ」ということの中からどれをとるか、ということと同義でしょうか。
あるいはまた、「高い山に登ろうとするならそれなりに苦労も大変(良いモノは高い)」だが、「山が低ければ登るのも楽(安いモノはそれなり)」ということとも同義でしょうか。それはイコール「宝が多ければ難儀も大きい、難儀が小さければ得られる宝も少ない」ということと同義でもあるでしょう。
(私は基本的には「難儀は嫌なので宝は少しでもそっちを選びたい」タイプの人間ですので、ハイリスクハイリターンよりローリスクローリターン、高い山より低い山でいいです傾向なのです)
そういう構図の中で選んで行くのですが、「私」、「トミさん」、「長男」、「次男」、「娘」という5人のそれぞれの考え、思いや希望、さらには利害(利得)が絡んで来ますので、どれほど「名義人が私」ということであっても、昔の「亭主関白的オヤジの在り方」で私一人が勝手に考えて「こうする!」という風に独断専行することも出来ず、結局「どれをとっても誰かに不都合、誰かの不満」という構図になっている訳でありまして、タイヘンなのです。「全員がオールハッピーなプラン」などないのです、最初から。これはもう「ミニ国家の政治」と同じことなのでしょうか・・・。
そういうことでありまして、はてさてどういう風にこれを収めて行くのが良いことなのか、なかなかに悩ましい事情なのでありまする・・・。
まさに人生最後の大決断という格好なのです。
しかしまぁ、どれほど大真面目に真剣に考えてベストな方策を選んだつもりになっていたとしても、3年後にあっけなく「ガン再発→天国へ」というコースが待っているかもしれない訳でありまして、「なんだそりゃ?」ということになるかもしれないのです。
つまりは「一寸先は闇」、「何が起こってくるか分からないのが人生」ということでありまして、まぁ、人生というものは「そんなはずじゃなかった」ということの連続でもあるのです。
だからといって「じゃあ、お気楽に考えたらいいんでない?」ということになるかと言えば、もちろんそんな訳にも行かず大真面目に真剣に考えざるを得ないのです。
ということでありまして、ここ当分、この案件で頭を悩まして行くことになりそうなのです。
ご紹介まで。
ではでは。
【おまけ】
素晴らしい動画を発見しましたので。
日本人は、ほんまに凄い…
それに比して「左翼」がどれほど日本の国益を毀損してきたことか。
それを知らず未だに蓮舫女史支持の「市民連合」などが断末魔のように騒いでいるという。
成田の悲劇と悲惨を、左翼は痛切に反省するべしと思うのです。
(27分08秒)
民主主義の幻影という…
❝多数決は正か、という議論は延々と行われています。フランスのルソーは多数決は一般意思の結果であるとし、少数派は「自分が間違っている」とまで言ったわけです。ところがそんな馬鹿なことがあるか、と文句を言ったのがプラトンです。「イデア」と称する物事の本質や価値基準のことで正(善)はその世界に精通している哲人によって行われるべきであるとしました❞
❝私は哲学者でもないし、この答を引き出すのは極めて困難だと思います。地球規模で我々は壮大なる実験場にいる、そう思ってよいでしょう。そしてこの実験は古代ギリシャ時代からずっと続く実験であり、結論は何百年待っても出ないのかもしれません❞
~4つの選挙結果にみる有権者の分断化~
お疲れ様です。
今日は33℃とあまり強烈な暑さでないので助かります。
そういえば、何やらテレビで「千葉の勝浦はここ100年間、猛暑日は一日もない」、「海風が冷たいので避暑地のような涼しさ」という話をしていたのです。
う~~む、凄いなと。
そんなところが首都圏にあったとは意外なことだったのです。
さて、そんな梅雨もどこへの暑い日本なのですが、私の方もなかなか「どうする?」ということで迷走、といいますか決め手に欠けてなかなか思い切って決断を下せずグダグダしている状況なのです。
最終的には近々に結論(どうするにせよ)を出してハウスメーカーの方報告して行かなければならないのです。
基本的には「何もしないでこのまま行く」という案は却下されておりまして、次の「ニ択」になっているのです。
A案:「丸ごと案」(ハイリスク・ハイリターン型)
B案:「分割案」(ローリスク・ローリターン型)
私の基本性格からするならB案になるのですが、私の一存で「そうする!」という訳にも行かず、現状ではA案に傾きかけてはいるのです。
これでもしトミさんが「B案で!」ということなら、迷わずB案なのですが・・・。
いや、まだ最終結論には至っていないのですが、とりあえず「方向性は」ということで。
はてさて、日本も世界も不透明なまま、あるいは混迷、迷走というべき状況にあるのです。
カナダご在住の岡本氏のブログにも、「民主主義」ということについての言及があったのですが、まことにその通りですねと同意するのです。
本当に政治は難しいことです。
ほんまにいっそのこと「AIに任せる」方が、きっと断然効率よく良き政治が実現するのです。
しかし現実にそういう時代が来るまでには長いことかかるに違いないのです。
当分はこういう「おかしな事態」が仕方がないこととして続いて行くのでしょう。
いやいやいや、「民主主義は結局衆愚政治」という古くて新しい言葉が厳しく思い起されるのです。
ほんまにこれを乗り越える新しい方策はないのかと・・・。
ご紹介まで。
ではでは。
「普通選挙」が実はダメシステム?
(ムムム…)
おはようございます。
今日も今日とて猛暑日になるような・・・。
さて、昨日私は都知事選について書いたのですが、その後池田信夫氏のエックスを読みにいって少々驚いたのです。
なぜといって、池田氏が「石丸、あかんね」とバッサリと断罪しておられたからなのです。
池田信夫@ikedanob
石丸は発達障害ですね。
— 池田信夫 (@ikedanob) July 7, 2024
・他人の話を聞かない。
・相手を面と向かってバカにする。
・表情がなく、一緒に笑わない。
・他人に関心を示さない。
・細かいことにこだわりが強い。
・言い出したら聞かない。
高学歴にありがちな病気。国政に出してはいけない。 https://t.co/VWT7e8QOIQ
読めば、(あ~、なるほどね、そういうことだったのですか・・・)ということで納得できまして、私は改めてこの石丸氏を(そう簡単に買ってはいけないってことだ・・・)と認識を改めたのです。
で、今朝になってwebチェックしていたのですが、冒頭の記事を見かけまして、(う~~む・・・、)と唸った次第なのです。
そして次に池田氏のエックスを読みに行けば、そこではもう石丸氏話題のオンパレードでビックリしたのです。
池田氏のエックスでは圧倒的に「反石丸」状態です。
池田信夫氏エックス
(※)この中に小泉進次郎氏の自分の演説の話が入っていまして、面白くて笑えたのです)
私の感想なのですが、まず確かに石丸氏はアスペルガーかもしれないなと思えたのです。その点は私も断言できないのですが、あの池田氏が自信満々に仰るからにはそうなのかもしれないとも思うのです。
その点はともかく、いずれにしても「石丸氏を政治家としてどこかの首長にしてはいけない」という点につきましては、きっとその通りのことだろうと納得するのです。
私は今回、石丸氏を「いいんじゃないか?」として「買った」ことについて、それは短慮だったということを認めるのです。(まぁ、平たく言えば「アホでした…」という)
難しいものです、政治は。
「政策」と「人物」という異なる資質が両方同時に求められるのですから。
たぶん(あくまでも多分ですが)、石丸氏は「政策的にはけっこうマトモなことを言っている」んじゃないかと思えるのです。
しかし、もう一方の重要な側面である「人物(人間性、性格、徳)」などという点におきまして、確かに極端に偏りがある訳でしてそこが買えないところだったのです。
安野氏もそうですが、石丸氏も「参謀」や「知恵袋」「ブレーン」というような立場で「政治家をサポートする役回り」のポジションでなら、いい仕事ができる人かもしれないのです。
いやいやいや、ほんまに「政治家を選ぶ」という作業は、難しいことですと。
いや、それ以上に、「本当に有為な優れた人物を探し出して政治家として立候補させて行く」という作業が難しいことなのだと。
それをすることが政党に求められている第一優先課題なのかもしれないのですが、しかし、今の政党はそうではなく「勝てる候補(人物)を探し出す」ということを第一優先課題にしていますのでダメだと。
「優れた人物」より「勝てる人物」が優先されるようになってしまうのですからアカンのです。しかしマーケティング的には「それが当然」のことなのです。
それはテレビ局において、「イイ番組」を作りたいと思っても、それがどれほどイイ番組でもつまらないダメ番組に視聴率で勝てないなら、ボツにされるようになることと同義だろうと。
テレビ局でも「イイ番組」より「勝てる番組」を作ることがマーケティング的には第一優先事項になるのです。
「人々が求めるところ(モノ、コト)を提供する」のが市場経済の鉄則的在り方なのです。それはもう善悪を超えてそういうものであろうと。
故に、夜の新宿にお若いみそらの女性が「タチンボ」するのです。
人々が、「良い番組」より「低俗番組」を求めるなら、結果低俗番組が良い番組を駆逐して行くことになるだろうと。
政治が、マーケティング第一優先で行われるようになるなら、永遠に「優れた人物」が「勝てる人物」に勝てずにボツになって行くのでしょう。
というより、そもそも「勝てないので選挙に出ない」のですから。
ということは、やはり「需要と供給ですべてが決まる市場経済」というようなマーケティング原理の世界に政治を追いやってはダメなのだろうと。
つまりは、選挙に基づく民主主義は良さそうでダメなのだと、そういう結論になってもいいのでないかと・・・。
ムムム・・・、
プラトンの「哲人政治」が実現するようになるには、一体どのようなシステムが考えられるのでしょうか。
明治の昔の「制限選挙」に立ち戻るのも一つの手であろうかと・・・。
難題です・・・
ご紹介まで。