KOBONBLOG
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プラハの若き市長の反骨

ボンジュールです。

いつもドイツから刺激的な記事を寄稿してくれている川口マーン恵美女史が、今回もたいへん興味深い記事を現代ビジネス誌に寄稿しているのです。
是非ご紹介したいと思いまして。


◆現代ビジネス◆
中国との「ズブズブの関係」をリセットする、

38歳プラハ市長の闘い民主主義と人権を守るために
(川口 マーン 惠美作家 2020.01.17)

 


 

■若きプラハ市長の挑戦状
 東欧の国々が、中国の過大な投資ですっぽりと呑み込まれそうになっている事情が、最近、ドイツでもようやく報道されるようになってきた。
 しかし、肝心の東欧のどの政府も、それを真剣に修正しようと努力している風は見えない。あまりにも深く嵌りすぎて、方向転換はすでに手遅れなのだろう。
 ところが、チェコの首都プラハの市長が果敢にも、その中国に戦いを挑んでいる。
 ズデニェク・フジブ(Zdeněk Hřib)、38歳。海賊党。はっきり言って、これほどマイナーな党から、100万都市の市長が出たということ自体が稀代の出来事だ(海賊党=国民の権利の強化、著作権や特許権の改革、直接政治などを掲げて、2006年にスウェーデンでできた政党。ドイツでも一時話題になったが、今はどこも下火になっている)。
 ちなみに、フジブ氏の本業は医者。2017年からは、官と民の双方の組織で、医療の行政改革に携わっていたという。そして、2018年11月以来、プラハの市長だ。
 さて、それからほぼ1年が過ぎた昨年10月、フジブ氏は、プラハ氏が北京市と結んでいた友好都市協定を白紙に戻した。しかし、もちろん、このような行為を中国が許すはずはないし、中国寄りの政治家の顔も潰れる。
 また、チェコ人の投資家には、中国との商売で多大な利益を得ている人たちも少なくない。つまり、フジブ氏のことを快く思っていない人たちが、とくに政界、財界にはたくさんいる。
 そのフジブ氏が1月、ドイツの大手紙「Die Welt」に寄稿し、ドイツの読者にその経緯の説明を試みた。それが大変興味深かったので、この場で紹介したい。

[…略…」 

 さて、ついに1月13日、プラハ市は台北市と友好都市協定を結んだ。フジブ氏の寄稿の中で印象に残ったのは、「民主主義と人権を守るということが、我々のビロード革命の理念だった。それが国の指導者に踏みにじられている」という言葉。台湾への接近で、フジブ氏の政治生命は、さらに危うくなったと言えるかもしれない。それを思うと、この文章には悲壮感さえ漂う。
 東欧の小さな国の市長が、勇気を振り絞って頑張っているのに、人口も経済力も比べ物にならないほど大きな日本の政治家は、長い物に巻かれすぎていると感じる。そして、その政治家を選んだのは私たち日本国民だということを、私は今一度、思い出している。<了>

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「共産主義のメンタリティー」という言葉が出てきているのですが、なるほど、そういうものがあるのかと。

また、「日本の政治家は、長い物に巻かれすぎている」という言葉もあるのですが、そうかもしれないのです・・・。


それにしても中国共産党のやり方は、とてもじゃないですが「目先自分たちがいかに得をするか」の観点からしか考えていないような感じなのですが、どうなのでしょうか。

中長期的にはそんなやり方では世界の人々から決してリスペクトされる訳もなく、結局は「中国なんか嫌いだ」として、世界中から軽蔑されるようなことになることを分からないでやっているのでしょうか、それとも・・・。

いやいやいや、「共産党」というもはや過去の遺物、亡霊のような政党が、この日本でも残っていることが不思議なのですが、一体どういうことなのでしょうか・・・。

世の中は、本当に一筋縄ではいかないものであると・・・。

ご紹介まで。

ではでは。

企業も国家も人も、繁栄は30年が限度…

【企業や産業の寿命】

おはようございます。

今日は朝から日差しがあって、気温はそれほど上がらないようですが過ごしやすい陽気になりそうです。

それにしても今年は暖冬のようで、どこも雪が少なくていいような悪いようなのようです。

さて、今しがた毎日読みに行かせてもらっているバンクーバーの社長ヒロ氏(岡本氏)のブログに、興味深い話がありましたのでご紹介したいと。

どうも「GAFA解体論」なるものがあるようでして・・・。

◆外から見る日本、見られる日本人◆
今日の常識、明日の非常識
(2020年01月15日)
・・・変われた好例が富士フィルムや任天堂だったと思います。フィルムの現像なんて今、ほとんど知られていないでしょう。それを祖業とした富士フィルムは今や日本を代表する精密化学メーカーに育っています。任天堂だって花札の会社だったのにゲーム業界では一目も二目も置かれる存在です。

GAFA解体論が思った以上に根強いようです。欧州ではGAFA支配体制に厳しい姿勢を貫き、課税を行いました。トランプ大統領もGAFA、特にアマゾンにはあまり好意的ではありません。大統領選で有力候補の民主党のエリザベス ウォレン議員はGAFA解体を政権公約にしています。

ついこの前までGAFAを中心とする世界覇権が当たり前のように言われていたのに解体論が真剣に取りざたされているのです。それは「勝ち組の方程式」が必ずしも人々から好意的に思われなくなってきたことではないでしょうか?その点では楽天帝国も私はあまり楽観視していません。

企業や産業の寿命という話はよく聞かれます。今、流行しているビジネスやビジネス構造が5年後にも機能しているか、その確率は5割ぐらいしかないというのが私が多種の事業をしている中で感じていることです。だからこそ、事業の形を変え、改善を加え、更には一種の新陳代謝であるスクラップ アンド ビルトを自分の事業の中でどんどん進めていくしかないのです。・・・

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確かに「企業(や産業)の寿命論」は以前からよく聞く話でありまして、それがおおよそ30年くらいと言われているでしょうか。

かつて日本の花形産業だった白物家電業界も、パナソニック(松下、ナショナル)、ソニー、東芝、シャープ、などなど、今ではもう「昔日の感」という感じで見なければならないようになっているのです。

かつてなら、就職先として「寄らば大樹の陰」という言葉がありまして、とにかく大企業、とにかく一流企業なら安全安心、大丈夫などという感じで、親も本人も希望していたのです。

しかし、いつしかその「大樹」が根っこから揺らぎだしすようになっていたのです。

しかし、よく考えてみれば分かるのですが、実はそういう「就職希望先ベストテン」などという「今を時めく花形企業」など、あっという間にそうではなくなってしまうという事実は、もう何十年も前から知られていたことでもあるのです。

例えば、戦後一時期エネルギー産業では十分「勇者」であった石炭産業があるのですが、それが「エネルギー革命」で石油にその地位を取って替わられてからは、もう没落の一途であったのです。
三井三池炭鉱など、華やかな時代は就職希望先としてはきっと「寄らば大樹の陰」的な人気を誇っていたに違いないのです。

そういうことでありまして、今の時代世界的勝ち組であるGAFAなる存在も、気が付けば斜陽産業化していることがあるに違いないのです。

いやいやいや、時代の進むスピード、変化のスピードは速いのです。
クルマの自動運転なる技術が、もう近い将来に見えているのです。(信じられんなと・・・)

そうですねぇ、企業寿命はやっぱり30年くらいのものなのでしょうか。
そこから先はもう脱皮する、大転換するというような大きな進化を遂げないと没落するだけという。

人の一生におけるピークもそんなものでしょうか。
どんな素晴らしい人生を歩む人でも、30年もその繁栄が続くなら、後はゆるやかに衰退して行くのです。

死ぬまで、永遠にその繁栄を続けようと思うと、結局「終身独裁者」となって、毛沢東などのように晩節を汚して堕落の末路にしかならないという。

そしてそれは「国家」なるものにも当てはまるセオリーでしょうか。

「驕る平家も久しからず」という。


さて、話はもう一つ、「脳内で毒素が洗い流される」という話がありまして、とても興味深いものでしたのでこちらもご紹介したいと。


◆WIRED◆
睡眠中には脳内から“毒素”が洗い流される:米研究チームがメカニズムを解明、アルツハイマー病の治療に光
(2020.01.14 TUE)

睡眠中の脳内では、アルツハイマー病の原因のひとつとされるβアミロイドなどの毒素が、まるで洗い流されるかのように除去されている──。このメカニズムを、米大学の研究チームが解き明かした。アルツハイマー病の治療に臨床応用できる可能性がある研究結果だが、鍵を握るのはノンレム睡眠中に発生する脳脊髄液のゆるやかな「大波」である。
<以下略>

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なるほどと。

ご紹介まで。

「ノンズ」なる人たちが増えているとか・・・

ボンジュールです。

世の中の喧騒も、今はちょいと一段落しているようなことでしょうか。

さて、今しがた私は一仕事を終え、各種webチェックしていたのですが、興味深い記事に出会いましてご紹介したいと。

❝「私たちは神を信じない」アメリカで約4分の1が「ノンズ」❞
というテーマでアメリカ人の意識調査のようなことでレポートされているのです。

まずは以下に。




◆COURRIER◆
カトリックや福音派を抜いて初の首位「私たちは神を信じない」アメリカで約4分の1が「ノンズ」
ウォール・ストリート・ジャーナル(米国)ほか
Text by COURRiER Japon 2019.9.18
■無神論者について学ぶべくときが、ついにやってきた
自分は「どの宗教にも属さない」。そんな“Nones”(ノンズ)が米国でも増えている。

「2018年総合社会動向調査」の結果によると、米国人の23.1%、約4分の1が「ノンズ」だと回答。22.8%だったキリスト教プロテスタント福音派、また、それをわずかに下回ったカトリックを抜き、ついにノンズが首位に躍り出た。37歳以下の世代では、その割合は35%以上になり、もはや少数派ではない。

 



「ピュー・リサーチ・センター」の調査結果によると、ノンズのうち78%が「幼少期は特定の宗教的価値観のもと育てられ、それを信仰していた」と回答。

つまり、米国のノンズの多くは、大人になってから自分の意志で、宗教コミュニティを去り、神信仰を失ったと見ることができる。この点は、ノンズ人口世界第2位の日本と(ちなみに1位は中国)異なる点ではないだろうか。
  
ノンズになった理由については回答が分かれるものの、「宗教の非科学性」が最も多かった。科学的証拠に基づかないことや、非合理的であることを理由に、神への信仰心を失った人が多いようだ。

また、「ウォール・ストリート・ジャーナル」誌は、教会に通うのを辞めた理由について、多くの人が「通ったところで得るものがない」と答えていることに触れ、そもそも宗教とは即時的な充足感を得るためのものではない、ソーシャルメディア世代にはそれが理解されにくいといった見解を紹介している。

ただ、どの宗教にも属さない「無宗教者」とはいえ、「無神論者」、または神の存在は証明できないとする「不可知論者」「信仰心はあるがどの宗教派にも属さない」など、タイプは分かれ、それぞれ根本的に違うが、両立しない概念でもないという複雑さを孕んでいる。

さまざまな宗教への理解を深めるためのサイト「ラーン・リリジョン」によると、不可知論者の多くは無神論者というレッテルを嫌うが、実際に無神論者の場合もある。

ノンズは1970年代以前からずっと存在はしていたが、多数派のクリスチャンに比べれは、あくまでも少数派だった。2019年春に米国の無神論者についての著書『我らが非キリスト教国』(未邦訳)を出版した法学者で作家のジェイ・ウェクスラーは、米「ヴォックス」誌にこう語る。

「無神論者ではない人たち、つまりなんらかの神的存在を信じている多数派人たちが、そうでない無神論者への理解を深めるべくときが、ついにやってきたのではないだろうか」
 
■ノンズは慈悲の心がない、宗教に無関心という誤解

[…以下略…]

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さて、翻って日本ならどうなるのでしょうか。

よく分からないのですが、とりあえず言えることは、「どんな宗教・宗派にも属さない人」が圧倒的多数なのであろうなと。

ただ、それと「神を信じるか信じないか」ということ、つまりは「有神論」なのか「無神論」なのかは別であると。

意外と日本人は多くは、「神さま?いないんじゃないですか?」という立場をとる人でも、実は「超越的な何か」、たとえば「サムシング・グレート」なる概念のような、その人独自の感覚においてそういう存在をなんとなく信じているのでないかと。

ただ、おそらくですが、日本人一般の「神観」はきわめて「ユルイ」ものでありまして、例えばユダヤ教のヤーウェのような厳しい妬む神でなく、あるいはイスラム教のアッラーのような厳格で偉大な神でもなく、とてもとても緩やかな、ゆるい神さまなるものを、「いても不思議じゃない」レベルで肯定的に受け止めているのでないかと推測されるのです。

そして実は、もし神さまがそういう「ゆるい神さま」であるなら、そういう神ならいてもいなくても同じだろう、ということにもなるのです。

そしてかくいう私自身がそういう神観を有しているのです。

ただ、きわめて例外的に何か特定の宗教・宗派に所属している人もいて、そういう人たちは真面目に宗教儀式にも精を出し、真面目に戒律なども守りして、とても敬虔な宗教的生き方を日常においてなされているのでしょう。

いずれにしましても、「日本人は無神論者が多いのか?」という問いに対しては、「確かに公式的に多いに違いないだろうが、実はゆるい神を心の中で容認している人はむしろ多数派かもしれない」ということが実態に近いのでないかと思ったりもするのです。

一人一人のイメージする「神さま像」が、ずいぶん大きく異なっているのですから、そういう問題を一括りに論じることがそもそも問題なのでしょう。

いや、「神さま」問題はとても興味深い問題でありまして、私はここでも「ネオ・デュアリズム」などと称しまして、「唯一絶対神」を信奉する「一神教」は誤っている、そうではなく「二神教」こそ正しいと主張しているのですが、私がそう主張する「二神(父神&母神)」も、実はとても大らかでそして全知全能でもなく、もう「そんなん神さまとは言えないのちがうの?」というくらいのボヤっとした神さまなのです。
父神の方がさすがに基本は厳しく理非、正義不正義を問う神さまなのですが、母神が「お父さん、そこを何とか助けてあげましょうよ」と言うなら、「じゃあ今回は助けてあげようか」などとして優しく赦してくれたりするのです。

とにかく「残念がってしまう神さま」なのですからかないません。


話が逸れましたが、今後ますます「神さま問題」は世界中で大きな問題になるでしょう。
何故といって、おそらく今後数十年で「イスラム教」というとても厳しい教えを奉じるムスリムさんが、世界中で多数派を占めて行くと予想されるからです。

たとえば、イギリスでは新生児の男子なら「ムハンマド」という名前がここ数年ずっと第一位を独占しているのですから。
何十年後かには、イギリスはクリスチャンよりムスリムが多数派を占める世の中になるのです。

あ~~・・・、

いやいや、実は深刻な問題なのであります、この宗教と神さま問題は。

ご紹介まで。

ではでは。

スマホ&ゲーム無しの生活が考えられない件

人生とは、何だろうかと思うのです。

人が生きるって、いったい何が目的なんだろうと。

「生きる意味」というのでしょうか・・・。

先日、私は中1の生徒から次のような話を聞いて驚いたのです。

それは、「正月をどう過ごしていたか」という話題だったのですが、その生徒は「ウチは正月から一泊で温泉に行きました。お婆ちゃんも一緒に」、などという話だったのですが、その生徒自身は、「でも僕はホテルではゲームばかりやっていました」などとも。

その延長で次のような話もあったのです。「僕の友達のウチでは正月は両親も子どももみんなゲームばかりやって過ごしていたそうですよ」と。(両親と本人と弟の4人家族)

いやいやいや、確かに中1くらいの生徒の親世代は、もう十分「ゲーム世代」なのです。40歳前後の世代は子どものときから任天堂の「ファミコン」で育っているのです。
つまり、親自身も「ゲーム世界」に染まって生きているということなのです。


しかも私が少々驚いたのが、親は親でも男親だけでなく母親もまた同じようにスマホでゲームをやっているということなのです。
そして両親と子ども2人なら4人が、それぞれに別のスマホとかゲーム機でまったく別個のゲームに興じているという図なのです。

会話などそこにはないのです。


正月三が日を、そうやって家の中でゲーム三昧で過ごしているご家庭があるのです。
推測するところ、それは決して「特別なウチ」ではないのであろうなと、むしろ意外と多いのかもしれないということなのです。


私のような世代の者には「サザエさん一家」のような古き良き昭和の暮らし的なイメージが強く残っていますので、「お正月」といえば、「凧揚げ」、「羽根つき」などのイメージで、家の中でのゲームにしても、家族でカルタ、百人一首、トランプゲームのような過ごし方がイメージされるのですが、おそらく今どきそんな正月の過ごしようをされているご家庭は滅多にないのでしょう。

それにしても、家族4人がそれぞれバラバラにスマホとゲーム機で勝手にゲームを何時間も何時間も・・・。

いや、改めて「今」という時代の実相を思い知らされたような気がしまして驚いたのです。


さて、ネットニュースによれば、何やら香川県では県議会で「子どものスマホ使用について時間的制限をかける条例案を審議中」とか。
それに対して当然ですが「そんなんアカンやろ!」的な批判が飛び交っているのです。

しかし、現実に子どもたちがゲームにはまり込んで、一昔前の言葉でいう「ネトゲ廃人」のような生き方でないにしても、いわば「スマホ中毒」、「スマホ依存症」的な状態にある人も実際多いのです。

彼ら彼女ら(スマホ依存の)の人生は、先日書きました「システム1」を中心に人生が回っているということでしょうか。
とにかく「目先の快(快楽)」を追い求めて生きているのです。
中長期の人生設計や、中長期の「生きる意味」など、あまり関係なく生きているのです。
まさに「目先の損得と目先の快」こそ最大級に重要案件なのです。
そのスタンスの先にスマホ依存、ゲーム依存もあるのです・・・。

マズローの「欲求5段階説」での4段階目までしか眼中にないような生き方でしょうか。
【参考】マズロー5段階説

はてさてそういう彼ら彼女らの人生観、人間観というものは、どうにも短絡的でお手軽お気軽ノー天気なものでありまして(そこは私と共通するのですが)、「人間なんて、毎日美味しいごはんが食べられて、ギャハハハと笑えて面白可笑しく日々が過ごせればいいんじゃないの?それで後お金の心配がないなら上出来でしょう、ハハハ・・・」という。

言われてみるなら、実になるほどと。

人生において、確かにマズローの言う欲求5段階説の5段階目(自己実現)を明確に自覚して生きている人などどれほどいるのだろうかと思えるのです。

しかしよく考えてみるなら、どれほど上層階層の人たちでも、結局求めているのは、「毎日美味しくごはんが食べられて、面白おかしく笑える日々であって、そこに少々の別種の生きがいや喜びも感じられる日々があればいい」ということになるのでしょう。

つまりは、貧乏人も金持ちも、日々を生きるということではほとんど求めるところは同じようなもの、似たようなことでしかないということなのです。

だとするなら、正月三が日を「3日間毎日ゲーム三昧で過ごす」過ごし方と、さざえさん一家のような昔ながらの過ごし方と、何が違うというのでしょうか・・・。

それは単に「何を楽しいと感じ、何を意義あると感じるかの違い」だけに過ぎないのでしょうか。

いや、何がどうなってこうなっているのでしょうか・・・。


「それじゃあんたの言う理想的な正月三が日の過ごし方とはどういうものなんだ?子どもが中学生にもなって今さら凧揚げするのか?百人一首を一緒にするのか?」と問われるなら・・・。

いやいやいや、時代の変化が・・・。

ただ、言えることは、あまりにもお手軽に「すべての楽しさがスマホに詰まっている」という現実は、そりゃ確かに子どもたちをスマホ依存にさせてしまような、ということなのです。

ユーチューブからゲームから、友達との会話から何から何まで、スマホなしに片時も過ごせないのです、彼ら彼女らは。

だからといって短絡的に「規制しましょ」というなら、それも何だかなです。


「サザエさん一家」というようなある種の「理想形」のファミリー像が消え去った今、現代、果たしてあるべき理想形のファミリー像とはどのようなものなのでしょうか。

そしてまたそういう理想形に近い家庭内生活を実現している人たちはどれほど多くいるのでしょうか。

いやいやいや、両親2人に子ども1人の3人家族が、正月三が日をどのように過ごすならそれが理想的なものになるのでしょうか。

結局みんな、「そんなにすることなんかないじゃないですか。結局スマホに行っちゃうんじゃないですか?」ということなのでしょうか。

いやいやいや、難しい時代だなと・・・。

ではでは。

(2本目)ご紹介(人間は基本的にバカ、系の話)

ボンソワールです。

たま~~に読みに行くサイトに「基礎科学研究所」というサイトがあるのです。
何やら関西に本拠地がある学者さん達が運営しているサイトのようなんですが、そこの松田卓也氏という方のコラムがなかなか味わい深いのです。

今しがた読みに行ったのですが、たまたま「人間は基本的にバカである」とい表題でして、私は(おう!)と思いまして読み始めたのです。

真面目な論考なんですが、ちょっと軽いタッチで面白く、かつ勉強になるのです。
で、ご紹介したいと。


◆基礎科学研究所◆
人間は基本的にバカである
(松田卓也 2020年1月09日)
どういうことか?人間は自分が思うほど合理的でも論理的でも理性的でもないということである。合理的、論理的、理性的に物事を考える人を賢いというとしよう。だって非合理、非論理的な考えをする人を賢いとはいえないだろう。でもさまざまな証拠から大部分の人間の考えは合理的でも論理的でもないことが分かっている。だから人間は基本的にバカだということだ。それは私もそうだし、皆さんもそうだ。重要なことは、自分は基本的にバカであるということを認識することだ。これが本稿の結論だ。

■速い思考と遅い思考
 2002年にノーベル経済学賞を受賞した心理学者のダニエル・カーネマンという人がいる。彼は「ファスト&スロー」という本を書いている。心理学者がなぜノーベル経済学賞を受賞したかといえば、彼の理論が元になって行動経済学という分野ができたからだ。それまでの経済学は人間の経済行動が合理的である、つまり人間は基本的に賢いという前提で組み立てられていた。つまり自分の利益を最大に、損失を最小にするように賢く合理的に行動すると考えられていた。例えば同じ性能や質の商品が2つあったとする。両者の値段が違えば、人間は安いほうを選ぶだろうということだ。それが合理的な行動だ。でも実験の結果は必ずしもそうでないのである。高いほうを買う場合も多いのだ。例えばネーミングが違うとか、宣伝の量とかによるのだ。

人間が物事を考えるときに2種類のモードがある。つまり考えるやり方には2種類ある。モード1の思考とモード2の思考である。あるいは速い思考と遅い思考ともいう。これがカーネマンの本のタイトル「ファスト&スロー」のゆえんである。もっと単純に言えばモード1の思考、つまり速い思考は直感的、感情的な考え方である。モード2の思考、つまり遅い思考は合理的、理性的な思考である。

速い思考は直感的、無意識的であり楽である。一方、遅い思考の典型例は数学の試験問題を考えるときだ。このときには感情ではなく理性を働かせてじっくりと合理的、論理的に考えなければならない。しかしそれは大変疲れることだ。数学の問題を考えるのが好きだという人は少ないだろう。人は速い思考を好み、遅い思考は嫌がるのである。

人は常になにか意思決定をしなければならない。例えば買い物でどちらの商品を買うか決めなければならない。その場合、損をしないためにはじっくりと理性的に考えねばならないが、多くの人は衝動的に買うのではないだろうか。

■アップルウオッチ 
一例を挙げよう。私はアップルウオッチを持っている。これを買ったときのことを思い出す。現在の商品ではなく初代のものである。この商品の値段には最も安いもの、それよりも高いもの、そしてとてつもなく高いものの3種類があった。安いものは値段が4万円台、次は8万円台であるが、高いものはなんと100万円以上したのである。最高は218万円であった。このときに私を含む多くの人々はどれを買うであろうか?たぶん真ん中のものを買うであろう。100万円以上もする時計を買う人はまずいないだろう。しかも機械としての性能は同じなのであるから。だから人々は下の2商品を比べて、真ん中のものが最も安いものよりかなり割高であっても。一番高いものよりは圧倒的に安いので、割安に見えてしまうのだ。経済合理性でいえば一番安いものを買うのが正しくてもである。もっとも高い商品は、アップルは売る気はなく釣りなのであろうと思う。それで多くの人間は4万円台の安いものでなく、その倍もする8万円台のものを選んでしまう。私もそうした。アップルの術中にはまったのである。

■バカが多いのには理由がある
橘玲(たちばな あきら)という作家の書いた「バカが多いのには理由がある」という本がある。橘氏は速い思考しかしない、あるいはできない人をバカと定義して、日本人のほとんどはバカであると決め付ける。世の中のニュースや世論を見ても、とても賢明なものとは思えないようなものがまかり通っている。具体的な例を出すと差しさわりがあるので言わないが、私もそれには同感である。

しかしこれは日本人に限った話ではなく世界共通なのである。例えば米国でトランプ大統領が選出されたのも、英国でブレグジットが決まったのも、合理的、理性的な選択というよりは多くの人たちの皮膚感覚とか感情といったもので決まったのであろう。つまり速い思考で政治が動いているのだ。

[…略…]

■まとめ
思考には速い思考と遅い思考がある。速い思考は直感的な感情的な思考である。遅い思考は理性的、論理的な思考である。人々はほとんどのことを速い思考で済ませている。速い思考しかできない人をバカと橘氏はよんだ。しかし人間が速い思考を好むのは進化論的な理由がある。昔はそのほうが有利だったのだ。しかし複雑な現代の社会では事情が異なっている。バカは経済的にも政治的にも損をするのである。しかし人間が基本的にバカであることは避けられない。だから大事なことは、自分も人間だから、基本的にはバカなのだということを自覚することだ。そうすれば損をせずにすむかもしれない。<了>

*************************

いや、私はモード1とモード2の「2つの思考」を、そもそもそれ自体が「独自の実在である」という立場(ネオ・デュアリズム)ですので、ちょっと前提が違うのですが基本的には「理性」と「情動」という2つのモードを認める点では同様なのです。

橘玲氏が「バカが多いのには理由がある」という本で、速い思考しかしない、あるいはできない人をバカと定義して、日本人のほとんどはバカであると決め付けているようですが、面白いことです。

私は私のことをよく「バカ」と言うのですが、まぁ、似たようなことでしょうか。

面白いことに、人は自分で自分をバカだと思っているときには何の腹も立たないのですが、人から「あんたバカだよね~」などと言われるなら、怒りの炎が心内に燃え広がるのを禁じ得ないのです。

そういうことで、「バカ」という言葉を使う時には注意が必要なのですが、とりあえず人はみんな、自分のことはたいてい(バカだよな~)と思っているのです。
そしてそれは当たっているのです(たいてい)。


さて、私は私のバカを直そうと思っているのですが、成功するならそれはもう・・・。



いや、ご紹介まで。

ではでは。

「バカを直す!」という決意・・・

ボンジュールです。

 

今日は日差しが温かく風もなく、窓際に座っているなら平和そのものなのです。

 

午前中、ちょいと考え事をしていたのです。

で、今日は私事(わたくしごと)を少々。



人は、どのようにして限界を打ち破って次のステージに進むことができるのでしょうか。


私は自分自身の限界を知っているのです。
それを、いつの日か乗り越えて行こうと、行けるはずと、そう思って生きて来たのです。

難しい言葉でなくあけすけに言うなら、要は「軽率を直す」ということなんですが・・・。

(すでにもうここでは散々書いてきたことなのですが)

言葉を換えれば「欠点をどうしたら直せるか」という。

直そう、直したい、直さなければダメだ、という通奏低音のような意識は常にあったのですが、実際には「そうは思っているが何もしないまま」ということでしかなかったのです。

自分の軽率が原因で何か大きな失敗をしでかしても、私の場合多くが「人様に大きな迷惑や被害を及ぼす」ようなことでなく、たいていが自損事故で済んでいたのです。たとえば、大怪我をするとか、自分のクルマを電柱にぶつけて壊してしまうなどという。

そんな時、さすがに「これはまずい、これじゃダメだ、直さないといけない、いつかもっともっと重大な事故を起こすに違いない」という感じで、己の悪しき癖、性分、性格を直そうという気分にはなるのです。

ですが、実は、それは気分だけで、気持ちだけで、結局危機感も喉元過ぎれば暑さ忘れるが如くで、気が付けばいつもの日常に戻っているのです。つまりは、何の変化も、何の努力もしないままに。

そしていつの間にか、こういう結論に達していたのです。
「人間の性格など、癖性分など直るはずがないのだ」、「雀百まで踊り忘れず」だし、「バカは死ななきゃ治らない」のだし、そういうものなのだと・・・。

ですが、ここ数日、「それはやっぱりダメ結論だよな・・・」と思い始めてきているのです。

そして「本当にここでチャレンジしなければ、もうこれは本当に死ぬまでこのままだ・・・」と、
そして「それは許されない・・・」と。


そういうことで、私は私の悪しき癖、性分、性格の一つの象徴である「軽率」さと「いいかげんさ」を克服しようと思い始めているのです。

これが克服できないようなら、私は自分を「結局何も分かっちゃいない奴でしかなかった」と認めるしかないのです。

私が私をアンダーコントロールの下に置くことができるかどうかの瀬戸際なのです。

私が、アンコトローラブルな私を放置したままでいるのかいないのかの、瀬戸際なのです。

私が私の指揮官であることができるのかどうかの。

私が我が魂の指揮官であることができるかどうかの。

必要なものは、「決意」でしかないのだろうと思っているのです。

私に、その決意ができるのかどうか・・・。

死ぬまでバカなままで行くのか・・・、


「そんな固く考えなくても」、
「人間誰だって少々の欠点はあるのだから、そんな軽いダメさは大目に見てもいいんじゃない?」
「あんまり厳しく自分を追い込まない方がいいんじゃないの?」
「できなかった時のダメージの方が大きいよ」
「欠点を直そうなんて思わないで、どう欠点と折り合っていけるかを考えた方がいいんじゃないの?」
「あんた、そんなこと言ってても、分かってるの、その方法?」
「それが分かっていないでチャレンジしようなんて、無理無理」

ま、そういうこともあるのですが、

とりあえず、

私は自分の今を許せなくなりつつあるのです。

分からないながらも、暗中模索で歩み始めようと。

とにかく、「バカ(軽率)を直す!」と、
決意しようと。

ふ~~・・・・



てなことを考え始めているのです。

ではでは。

(2本目)明るく死んで行こう!

そういえば、昨夜、仕事を終えて階下に降りてきたら、居間のテレビが点いていたのです。

聞けば何やら「認知症の第一人者が認知症になった」というようなテーマのドキュメンタリーであるとか。(NHK)

そして私は台所に行き、遅い夕食をその番組を今度は台所のテレビで見ながら食べていたのです。


う~~む、重いテーマです、どうにも。

感想は、一口では言えないのですが、そうですねぇ・・・、「人はそして死に行くものなのか・・・」という。


で、私は思ったのです。


「どうせなら、明るく死のうではないか」と。

どうも、どうにも「死」は暗いもの、嫌なもの、忌避すべきもの、ダメなものという印象が強いのです。

しかし本当にそうなのだろうかと思うのです。


もちろん、そういう死もあるでしょう。
そしてそういう死はむしろ少なくないのかもしれないのです。

同じ死ぬのでも、90歳、100歳などという天寿を全うしたと言えるような死なら、むしろ「おめでとうございます♪」などとして祝福されたりするかもしれないのですが、そうそう多くはないのです。

多くは、まだ若い中、まだまだ生きていたいのに、やむなく死んで行かねばならぬ事情の中で死に行くのでしょう。


ですが、たとえそうであったとしても、「死」は、決して暗く、嫌な、ダメなものではないと思うのです。

それは確かに近親者にとっては悲しい悲しい出来事に違いないのですが。



それにしても、と思うのです。

それにしても「死は、明るく受け入れてもいいのでないか」と。


私もいずれ死に行くのです。
死なない人はいないのです。


私は、せめて私は死を明るく受け入れてやろうと思っているのです。
もう、なんなら笑って死んで行ってやるさと。

周りを笑かせながら死を迎えられたら最高だなと。

そういう面白い死を、楽しい死を、実現したいと思うのです。

死ぬまで、周囲を笑わせながら生きられたら、そして死ねたら最高だと。


そしてそういう風に、多くの人が死ぬことができるようになることが、実は人類の偉大な進歩になっているのだとも思えるのです。

その先鞭をつけたろと。


いや、今の時点では何も具体的なことは言えないのですが、そう思えるのです。


死は、決してダメなことでも嫌なことでも悪いことでもないと。


以前、ここでも書いたのですが、仲東氏のご父君が死ぬときには、枕辺に集った人たちに「世話になったな」、「世話になったな」と言って一人一人の手を握って感謝の言葉を述べて、そして静かに眠るが如くに最期の時を迎えられたという。

いや、素晴らしい出直しぶりです。

「世話になったな、世話になったな」ですか・・・。




私は、実はもうずいぶん以前から認知症と似たような物忘れがひどい状況になっておりまして、家人などはもう「お父さん、もうそれは認知症よ、認知症!」などと半分大真面目に言ってくれるのですが、私ももう「本物の認知症」でも「うそんこの認知症」でも同じだなと思えているのです。

つまりは私はもう「半分認知症」なのです。

テレビの中の「第一人者のお医者さん」と同じようなことなのです。


さて、私の寿命があと何年あるか知らないのですが、5年でも10年でも20年でも、あるいはそれ以上でもそれ以下でも、「死」が見えてきたら考えようと、如何にして周囲を楽しませ、笑かしながら死ねるかを。


スローガンは、「明るく戦え、そして明るく死んだろ!」なのです。


まぁ、もちろん、そんなことを今は言えていても、実際になればオロオロうろたえ、オロオロ狼狽し、そして悲嘆にくれて周囲を悲しみの淵に落とし込むような残念な死を迎えなければならないことになるかもしれないのです。

私という人間のこれまでを振り返るなら、そんな立派な死を迎えられるような出来た人間でもないですので、結局は「残念な死に方」で終わるかもしれないのですが、とりあえず、とりあえず今は、「明るく戦え、そして明るく死んで行きまっしょい!!」というスローガンを掲げて頑張りたいと。

そう思うのです。

ではでは。
 

それは結局「洗脳」・・・

ボンジュールです。

昨年より私がとても推している気鋭のイスラム研究者の飯山陽女史のツイッターを読みに行きましたら、大変興味深い情報がUPされておりまして、ご紹介したいと。

何やらイランではソレイマニ司令官殺害を機に、反体制派が声を挙げ始め、デモなども起きているとかで、少々不穏な政情が醸し出されているようなのです。


◆飯山陽ツイッター◆
https://twitter.com/IiyamaAkari
・昨日イランではソレイマニの写真を引きちぎり「ソレイマニは殺戮者!」と叫ぶデモが発生し、彼は「英雄」などではなかったことが露見。日本のメディアと「専門家」の結託による「反米イラン推し」フェイクニュースに対して、反証を挙げ徹底的に論駁しました。アゴラへの寄稿。

・ウクライナ機墜落で多くの学生が死亡したアミールカビール大学で、仲間を失った学生たちが抗議デモを行い、当局に対し報復を宣言、体制の打倒を呼びかけている。

・テヘラン市内で「我々の敵はここにいる!あいつら(体制)は敵はアメリカだと嘘をついている!」「革命防衛隊が罪を犯し、ハメネイがそれを支持している!」などと叫ぶデモ隊。

・イランの最高指導者に対し「ハメネイやめろ!」と叫ぶテヘラン市内、シャリーフ大学前で発生しているデモ隊。ローハーニー大統領に辞任を求めたり、嘘つきだ!と体制全体を非難する声も上がっている。

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◆アゴラ◆
イラン情勢を巡る日本メディアの奇妙な偏向報道(特別寄稿)
(飯山陽 2020年01月12日)

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さてさて、どうも世の中、少しずつ少しずつ動き始めているようです。

結局、どこの国もみんな最終的には「民主化」されて行くのです、きっと。
それがどこの国の国民も等しく求め、願い、希求するものなのです。

そういうことで、イランだけでなく、北朝鮮も中国も、どこかもかしこも最終的に民主化の波に洗われるのです。
それはもう「遅かれ早かれ」の違いでしかないのです。

ただ、それがあまりに大きな混乱や悲劇を伴わずに、穏やかに、平和裏に実現したらいいのですが、そんなに甘いものでないだろうことは誰でも分ることなのです。

とりあえずイランですが、基本的に「イスラム法に支配されるイスラム教国家」というおかしなシステムである限り、どうしたっていつかはそういう体制は崩れ去って行くしかないのだろうと。

それは北朝鮮の3世代にわたる独裁国家が永遠に続いていく訳がないことと全く同義であろうなと。

時間の問題であると。

ただ、「イスラム教絶対価値観」と「西欧民主主義的価値観」とが、どうにも相容れないものであることも確かなことであるようで、そこに巨大な深淵がぽっかり口を開けているようで、そこの対決は過去最大級の難問であると。

果たして世界中のムスリムは「アッラーに背く」ことが出来るのでしょうか・・・。
いや、難問過ぎる難問だ・・・。

それは極論すれば、「世界中のムスリムの洗脳が解けるのか」ということなのですから・・・。

それは人類最後の巨大な戦いになるかもとすら思われるのです。
そして飯山女史の出番がますます増えることは疑いを容れないことであると。

いや、ご紹介まで。

ではでは。

(2本目)ご紹介、ゴーン氏関連

ボンジュールです。

今日のテンションは低くてどうしようもないのですが、それでもご紹介したい記事はご紹介しようと思いまして。


◆アゴラ◆
【言論アリーナ】ゴーン事件は検察の大失態
(2020年01月10日 アゴラチャンネル)



ここでは郷原信郎氏と池田和夫氏がゴーン氏問題について二人で語っているのです。

郷原氏の方がゴーン氏擁護の気持ちが強く、池田氏は「主張は分かるがそれでも逃げるべきじゃなかったろう」という感じで、少々厳しい見方をしているのです。

ですが池田氏も日本の「人質司法」については改善するべきと話しているのです。

ただ、その件については郷原氏の方が「そう単純な問題ではない」ということでより慎重論であったのが少々意外でしたが、言われてみるなら(確かに…)と思えるところもありまして、一口に「司法改革」と言ってもなかなか難しい問題であるのだなと認識を新たにした次第なのです。

ご興味のある方だけどうぞ。

(動画は約35分)

ご紹介まで。

絶不調の今日この頃・・・

ボンジュールです。

今日はもう週末土曜日でして、1月も早や中盤戦を迎えようとしています。世の中はもういつもながらの「ニュース目白押し」状態で、何かを捉えてモノを言おうとするなら題材にはこと欠かないのです。

ですが今日の私は少々テンションだだ下がり気味でありまして、どうにも筆が進まないのです。
 

仕事面での「不調」がありまして、基本いつもお気楽ノー天気な私でも今は悩み深き状態なのです。

いやいや、私自身のダメさ、弱点に直面させられているようなことでありまして、なんとも気が滅入るようなことなのです。

誰が悪いというより、結局自分自身の中に理由、原因があるのですが、しかし自分の欠点を克服しようとすることは、はぁ、もう・・・。

この歳になってもこういう事態に直面しなければならないとは・・・。

いやいやいや、自分自身が自分自身をアンダーコントロールに置けていないのです・・・。

むしろアンコントローラブルな状況という。

思うようにいかない苛立ちで、ついつい冷静な判断ができずに怒りの感情で事態を悪くしたり・・・。

いやいやいや、自分自身をコントロールできないのですからナニヲカイワンヤという。


そういうことで、しばらくは絶不調の中で生きなければならないのだと。

困ったことでござりんす・・・。

ではでは。

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