「月寒の防空指揮所で無線通信の仕事」 源吉さんの証言 その3
「月寒の防空指揮所で無線通信の仕事」
一数字の暗号で道内、樺太、千島、満州、北支などへ--
吉本源吉 氏(1924T13年生)
●幕別で現役入隊
昭和19年1月6日、現役で十勝の幕別にある無線通信隊に入隊した。
早速、幕別小学校に設置された教育隊でモールス信号(無線)の練習が始まった。トツーツーツというやつだ。午前は幕別のお寺で8時から12時半まで、午後は児童が帰っていない幕別小学校で行われた。1から10までのト通法というのを3月末までのおよそ3カ月練習した。
最後に教育訓練1期(初年兵教育)の検問で成績などによって通信隊と作業隊(自活班)に選別された。成績のよくなっかた人が作業隊にされるが、各々が各地に送られ、カボチャや芋を作ったりの畑仕事などに使役された。後で私が勤務した月寒の所でも作
業班が畑仕事をしていた、通信隊はさらに正と補助(暗号を解く仕事)に分かれた。
幕別の通信隊入隊から1週間、ビンタを38コ取られ、目から火が出た。
しかし、私はあることを経験してから自信がつき、恐いものはなくなった。ある日、お寺の使用について確かめたいことがあって、たまたま近くにいた他の兵長に聞いてみようと「○○兵長」と呼んだ。ところが、あとでわかったのだがその兵長は中隊一のつわもので、
「兵長とは何事だ。よし、軍人精神を叩き込んでやる」と言われて、叩かれた。叩かれているさなか、ハツと気がつき、「○○兵長殿」と敬称をつけたところ、許してもらえた。要領を知って、以後自信がついた。
●防空指揮所の通信隊億9574部隊で無線通信の再教育
昭和19年4月、月寒の防空指揮所の通信隊(正式名は達9574部隊)に移動した。
隊長は村上中隊長で内務班は8つあった。私は8班に入った。部隊の獅子挺身隊員(私らは「女通」と呼んだ)の通信隊宿舎の隣にあった。そこからコンクリートの指揮所に通ったが、ここでは実践的な無線通信の再教育が始まった。戦局が厳しく、寝ても醒めてもト通法の訓練だった。なんと、練習後に打通150までとれた。
無線の電報というのは、1から10までの数字を電鍵の打通の仕方が決まっていた。
例えば、1はトツ、2はツー、3はト、ト、ト、と決まっていた04つの数字を一文字(暗号)にしてそれを電鍵で打つ練習。暗号は毎月変えていた。樺太の大谷まで電報を送っていた。
8斑の班長は「ドモリ」の人で話しが聞き取りにくく、又その癖が信号にまで出て電鍵の打ち方も下手で、理解するのに苦労した。
練習中、班長に竹のムチで頭を叩かれて、「班長に叩かれなくても電報はとれます。」
口を利いたら「何!」と言われた。班長に口を利いたのは私だけだった。
行く前から兵隊だった兄から言われて歩兵典範令、無線典範令を暗紀していたのでその分上司の目に留まり、楽をした。
ある時、「中隊長や班長の髭剃りできる者、誰かいないか?」と皆の前で聞くが誰もも出ないので私が「ハイッ」と手を挙げた。それを契機に私は中隊隊長と班長の専属当番に抜擢され、中隊長は週に3日位、班長の場合は毎日のように安全カミソリで髭を剃る事になった。その後、古年兵の髭も剃ってやった。私は嫌でも自分ことは後回しにして積極的にあっらへこつちへ行って飛ぶようにして世話をした。
そうしないと軍隊では出生もしない。班で整列・集団ビンタの時、私は当番などで忙しく、そこにはいなくて、ビンタを喰ったことがなかった。
それで中隊長と班長とはとりわけ親しい関係になり、秘密のような話も耳にするようになった。
北海道は外国です。と昨日の吹雪で帰れなかった千歳空港の若者は言いました。
北海道共和国宣言
北海道は外国です。と昨日の吹雪で帰れなかった千歳空港の若者は言いました。
やっと気づきました。東京と一緒の国と思っているから、隣の芝生は綺麗に見えるのです。
内地の景気は別な国のお話なのです。イギリスで言えば、北海道はアイルラント、本州はGREAT BRITAINなのです。
道州制、経済特区は未来永劫勝ち取る権利です。北海道は倭人の植民地ではないのです。北海道にはドバイのような非関税経済区を千歳と苫小牧臨港地区に作るべきです。アイルランドにはあります。
スコットランドも自治権を大幅もっています。worldcupも代表をおくれます。
北海道は独立国なので、入札は道内の企業しか参加できないのは当たり前です。内地の大企業に吸い取られるのは中小企業にはたまらないです。
それを阻止しようとした鈴木宗雄さんは北海道共和国の代議員としては当たり前で、内地の行政機関の検察庁に裁かれるのは植民地の反乱者であるシャクシャインも抹殺と似ています。
北海道共和国の議員は自民党 民主党 官僚のいいなりにはならない人が必要です。
上海のように道州制、経済特区を勝ち取り、ドバイやシンガポールのように発展しましょう。
「自分探し」 第2弾 を書いている途中です。
いま 「自分探し」第2弾 を書いている途中です。
これは日本を背負っていく若者への鎮魂歌とエッセイです。
まずこの詩から1歩を踏み出します。
「けれど」
いつか○○先生が何かに書いておりました
「けれど……」という奴は結局は何もやらないと
ほんとにそうだ ほんとにその通りだ
「けれど……」の次にくる
言葉は必ず弁解と言いわけだ
それはやれなかった理由ではなくて
やらなかつた弁解だ
自分がやらなかったことを
なんとか、やれなかったことにする定めの
ていさい体裁のいい言いわけだ
しようと思ったのですけれど
やらなければいけないと
考えたんですけれど……
思うだけ、考えるだけでは具体的な形にならぬ
やれなかったのじゃない
要するに
やらなかったのだ
やらなかったことに
「けれど……」なんて
余分なものをつけることはない
後にもさきにもかけがえのない
たった一つのいのち
あす明日知れぬ
はかないいのち
と、いうことを骨身にしみて感じながら
生きている者は
「けれど……」なんて
おまけはつけない
具体的にやるか、やらぬか
ニつに一つの選択だけ
余分なおまけを
つけているひまがないのだ
やらなかった時は
やらなかった
ただそれだけでいい
それでおしまいにすればいい
一切おまけはつけぬこと
そうすれば
毎日の生活
どんなにさわやかに
なることか
毎日のいのちが
どんなにはつらつと
なることか
人生のプロは
けれど……という
ことばは使わぬ
これは誰にいう
セリフでもありません
くちばかりで
身体の動かぬ
怠け屋のわたし自身への戒めです
(相田みつをの詩より)