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最近ニセコに豪州人がたくさんきます

久しぶりにスキーに行ってきました。10年ぶりのモイワスキー場です。いままで色々な子供用のスキー場を探しましたが、ここが一番だとゆうことが分りました。 最近ニセコに豪州人がたくさんきます。

 10年前オーストラリアにいた時の新聞求人のOLの年収は200万でした。

タクシーは頑張って350万ぐらい今タクシーの年収は900万近くでしょう。

日本総研の有名なコメンテーターは1200万と言っていますが、まゆつば物です。せいぜい800から900でしょう。

当時のオーストラリアの不況はひどかった。仕事がなくてみんなひどい暮らしだった。ホームステイの学生の食費をかすめとる家がほとんどで、留学生はみんな腹をすかしていました。学生がいなくなってからオーストラリア人が隠れて食事するからです。teabreakに私のチーズサンドを隣の韓国人によくあげていました。私は米を鍋でたけるのでご飯に困ったことはありませんでした。


8月15日を過ぎても終戦にならなかつた。吉本源吉さん その2

吉本源吉さんのいた北部軍司令部防空指揮所は8月15日を過ぎても終戦にならなかつた。

樺太から東北北部の電話回線が直通でつながっていた防空指揮所には8/20

樺太の郵便局女性交換手たちの「 皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」という最後の通信まて゛逐一 刻々と前線の様子が送られてきました。


以下 映画 「氷雪の門」でのその様子です。


16日、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出されたため、女性交換手たちも全員緊急疎開せよとの指示が出ました。しかし彼女達は、重要な電話網を守るため引揚げるわけにはいかないと主張し、真岡に留まりました。

 そして、本土ではとっくに「戦後」であった8月20日早朝。真岡の沿岸に突如ソ連艦隊が現われ、艦砲射撃を開始しました。上陸したソ連兵は町の角々で機銃掃射を浴びせ、一般住民を見境無く撃ち殺していきました。町は戦場と化しました。
 真岡の日本軍軍使一行はこのとき、非道にもソ連軍によって殺害されました。白旗を掲げて誠心誠意停戦を求めに行った軍使を、ソ連軍は銃撃して虐殺したのです。明白な国際法違反の暴挙です。

皆さん、これが最後です

 この戦闘の中でも真岡電話局の交換嬢九人は、緊急電話の回線を繋ぎ、避難経路の指示を続けました。多くの人々の生命を守るために、彼女らは職場を死守したのです。しかし局の窓からも迫るソ連兵の姿が見えてきました。もはや絶体絶命・・・。班長の交換嬢はただ一本残った回線に「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と叫び、プラグを引き抜きました。そして、彼女らは用意していた青酸カリで自決したのでした・・・。


の後もソ連の違法侵攻は北方4島まで及び 吉本さんは道東の通信駐屯地に戻れとのの命令を受け再び前線に戻ったのでした。 つづく


ソ連軍の国際法違反の北方領土侵攻と北部軍司令部防空指揮所1

私の隣の吉本さんの青春物語1を語ります。


源吉さんはマンモスの化石がでるハーブの里 由仁町東三川で生まれ志願して陸軍に入りました。通信兵と憲兵をしていました。札幌市豊平区月寒にある「北部軍司令部防空指揮所」(札幌市豊平区月寒東二の一)にある 北部軍達9574部隊で米軍艦載機の情報やソ連軍の国際法違反の侵攻の無線の送受信を担っていました。



(1)役割

 対米の北部軍司令部作戦室。米軍による空襲に耐えられる施設(厚さ1~2mのコンクリート製)として1942(s17)年に建設を開始し、翌年春に完成した。道内、南樺太などからの米機襲来情報を基に直ちに作戦会議を開き、防空警報等を発令していた。


24時間体制。地上2階、地下3階。地下3階の床から3~4本の地下道。地下1F~地上2Fの正面中央の約半分は吹き抜け。



 前方の下から上までの壁に標示板(山形から南洋太・千島までの大地図)が掛けてある。


軍司令官(最上段に)や師団長、参謀、書記、幕僚らが標示板に向いて座っている。


情報入手・発令などは電話と無線で行われていた各地からの敵機来襲の情報は女子挺身隊の10代後半(女学校卒業生)の女子が電話で受けていた。

 指揮所の裏手「対空無線通信所」があり、敷地内の5~6塔のアンテナ(鉄首)で行われていた。時に源吉さんが通信兵が担当していた。警戒警報などの発令は所内にある


NHK放送室(高橋圭三アナウンサー)に伝えら、月寒のNHK送信所のアンテナ塔から全域(ラジオ)に流された。


地下2Fは自家発電機室、地下3Fは御真影室(護身室。床に鉄板の入口あり、地下道に繋がっているとのこと)だったと言われている。地下2F以下は現在入れない。