2015/8/9本日の気づき
今朝は北風が流れる廊下でプラーナヤーマを行った。
途中、勢いのある少々冷たい風を浴びた。
その時ふと、夏が終わり、秋の始まりの季節を思い出した(まだまだ夏は続くのだが)。
なんか少し寂しい気持ちが湧き出てきた。
今年の夏の終わりを感じた時にはきっと、
廊下で寝て朝を迎えた事を懐かしく感じるだろう。
汗を流しながらグランドで走った事を懐かしく感じるだろう。
暑さの厳しい中では、早く夏が過ぎて欲しい位に思う時もあるのだが、
いざ去ってしまうかと感じると、名残り惜しさを感じるんだろうなと思うのは私だけだろうか。
ない物欲しさという性分を感じさせ、
心地よさに、見事に妄想に囚われてしまった今朝の北風であった。
2015/8/8本日の気づき
先日ご紹介した『ひろさちやの般若心経88講新潮文庫』からまた1節。
題は、「第二の矢は受けてはいけない」
「聖者と凡夫の違いは、第一の矢は受けても、第二の矢は受けない。
これはどういう事かというと、
私たちが何かに躓いたとする。
その時‘痛い’と思います。
お釈迦様の様な方でもやはり‘痛い’と感じます。
それが第一の矢です。
ところがお釈迦様は、それで終わりです。
私たち凡夫はそうはいきません。
続いて第二の矢を受けるのです。
‘誰だ!? こんな所にこんな物を置いたのは・・・・・? 危ないじゃないか、気を付けろ!’
そう怒りたくなる。
美しいものを見たときも同じ。
美しい花を見て‘ああ、きれいだなあ・・・’と思います。
それが第一の矢。
お釈迦様はそれで終わりです。
しかし私たち凡夫は、それに執着してしまいます。
花を摘んで家に持ち帰りたくなる、写真に撮っておきたくなる。
痛いと思ってもいい、きれいだと思っていい、それにこだわるなというのが教えです。」
静坐の時も同じ、
雑念が浮かんではいけないと思うのは自然の流れに反している。
無心は、何も思わない、心がなくなるという事ではない。
生きていて脳が働いていれば、頭の中に何か浮かぶのは当然の事。
それにこだわらない精神力を養う、
これが精神修行なんだろうと感じた般若心経の教えでした。
2015/8/7本日の気づき
昨日の静坐でいいものが残ったので、
今日もその感覚を引き継いで静坐しようとするのは逆方向に向かう。
肉体レベルでは、テクニックで前に進むことが出来るが、
精神レベルになるとテクニックを用いるという意思は相反するもので、
テクニックを用いないという事がテクニックになるのではないかと思う。
過去のいい経験に囚われては後退する。
そもそも前進、後退という事に囚われる必要もないのであろう。
ここが精神修行をす積む上での厳しさの一つなのだなと改めて感じた朝だった。
2015/8/6本日の気づき
今朝の静坐。
今日は自然と丹田に意識が向いた。
丹田から落ち着いてくると、気が丹田より上に上らなく、
目は閉じる必要もないし、開けておく必要もない、気にならない感だった。
心身の中心が丹田に感じられ、次第に丹田の深いところまで落ち着くのを感じる。
静坐を終えた後、安定感と静寂が残る本日の静坐だった。
2015/8/5本日の気づき
頭寒足熱に関し、夏はアイス枕もしっかりと睡眠を取る為に、私にとっては必需品だ。
冷房のかかった部屋で寝ると、朝起きた時に身体がだるい。
よってここ数日、ベランダのドアを開け網戸にし、廊下にご座を敷き、アイス枕で寝ている。
朝陽が入ってくると目が覚めるが、冷房、扇風機なしでもしっかりと眠れる。
頭を冷やすとこんなにも違うものかと、
夏にはないと不安になってしまう位頼もしさを感じる、朝までしっかり冷たい私のアイス枕です。