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ボクらの映画めし

映画に出てきたごはんを作ってみた。なるべくヴィーガン

平山さんが神社の境内で毎日食べるサンドイッチ

 

 

私のは、近所のおいしいパン屋さんユロの全粒粉のパンで、前回書いたポテトサラダのラディッシュ入りのと、ニンジンとキヌアを塩コショウとオリーブオイルであえたのを挟んだ


コンビニ牛乳ではなく、豆乳と一緒に

 

 

以前観た、ヴィム・ヴェンダース監督作品「まわり道」(1975年公開) ←息子がレビューを書いてます

 

タイトルがなんか違うんだよなあってずっと思ってて、原題を調べたら

 

Falsche Bewegung = 間違った動き (Google翻訳)

 

目的地がある「回り道」ではなく、「間違った動き」なら、わかる気もする。

 

外から見ると意味がなくて間違ってるけど、無駄ではなくて、その人の内面のごはん(あえて栄養とは言いたくない)というか、生きることそのものであるような「間違った動き」

いや、間違ってないけどね

 

この映画の場合は「旅」ですが。

 

1975年といえば、やはり前回書いた「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」の公開年で、ヴィム・ヴェンダース監督の生きてきた半世紀

社会も文化も変化の大きかった半世紀

 

もやっとした感じの「まわり道」と

こうして生きていけば大丈夫と感じられる「perfect days」

どこかに到達するため、何かを成し遂げるため、ではなく

よき日の積み重ねで生きていく

 

その延長で死んでいく

 

と、なりたいもんだ。

 

この映画は、もともとユニクロが企画した、東京都の公共トイレの広報から端を発したそうで、そこはちょっと悔しいし、ユニクロ的大量生産大量消費大量廃棄な生活スタイルは、平山さんとは対極にあると感じるが

 

でも平山さんも、ヴィム・ヴェンダースさんも、この映画も、大好き過ぎて、そこはどーでもよくなりました(笑)

 

あと、「まわり道」も「パリ、テキサス」「ベルリン、天使の詩」も、大好きだけど、私にとってあまり印象に残る食べ物はなくて、平山さんのお昼はコンビニのサンドイッチなんだよね、おにぎりじゃないのかと、私的にはちょっと合わない感。

 

平山さんがガスの火をつけてからやかんに水を入れるとか、歯磨きのときに水出したまま(詳細忘れた)とかも気になってしまう(笑)映像的効果を狙っているんだと思いますが。

話がだんだんこまかくなってきたのでこのへんで。
感謝感謝の映画でした。ありがとうございました!

今日は畑で昼休みして、木を見上げてみました

 

前回、「家事か地獄か」(マガジンハウス)の著者、稲垣えみ子さんの暮らしとの共通点をいろいろ書いたが、違うのは、平山が過去の家財道具を捨ててないことと、毎日のごはんである。

 

多くの男は自分でご飯を作って食べる楽しみを知らなくて、平山さんの食生活もしかりで、甲本雅裕さん居酒屋と、休日はちょっとランク上の石川さゆりママのおばんざいバーみたいなとこで賄われている。

 

 

この日のつきだしはポテトサラダ

常連客達が、平山さんだけママにひいきされてるとか、突き出しの量が多いとか(笑)

役所広司だからな~、嫉妬するよな~

※わたしのポテサラは、ジャガイモ、ニンジンを茹でて水分を飛ばし、ヴィーガンマヨネーズ(玉ねぎのみじん切りを米酢につけたもの、豆乳ヨーグルト、米油、梅酢、塩、コショウ、砂糖少し)で和えました

 

 

昼は毎日コンビのサンドイッチと牛乳500mlパックを、神社の境内で食べながら、木漏れ日を眺め、フィルムカメラで写真を撮り、こぼれ種から芽吹いた木の赤ちゃんをそうっと掘って持ち帰り育てる。

 

清掃員の同僚や彼がアタックしてる女の子、トイレを利用する人とのかかわり、踊るホームレス田中泯さんとか、平山の日常にちりばめられているものや人が、みんな平山の視線によって、やさしくなる。

こんなふうに、毎日を過ごしたいと思わせる。

 

 

平山が無口過ぎて、本人のセリフはわずかだけど

 

妹と姪の登場で平山の過去がぼんやりと明かされ、そして、バーのママ石川さゆりのモト夫(三浦友和)の自分語りを聴く平山の姿で

 

彼の過去への想いや、今の心持ちを想像する。

 

 

平山も、「家事か地獄か」の稲垣えみ子さんも「ミニマム生活」だけど、自分にとって大切なものをちゃんと手の中に置いている

 

そうして暮らしていけば、死ぬまでそれを続けていけば、きっと死もまた、その日常の中の出来事とすることができるよ

 

と教えてくれているように、私には感じられる。

 

ねえ、ヴィム・ヴェンダースさんも、そんなふうに感じてるんじゃない?

 

ってことで、また話が終わらくなってしまったので、後編に続きます

あまりにも今の自分にフィットする映画だったので、書き出すときりがないのだけど、ひとまず甲本雅裕店長の居酒屋に行ったつもり。

 

 

平山(役所広司)の仕事は、東京の公共トイレの掃除で、毎朝、近所の道路を掃く箒の音で眼ざめ、清潔で几帳面な朝のルーティンから、玄関ドアを開けて空を見上げいい顔して、さあ、仕事へ。

 

掃除道具満載の車の運転席で、毎朝のお祈りのように、カセットテープを選び、ガシャン。流れるのは、60年代70年代のほぼ洋楽だ。


このへんでもう、過去にたっぷりの経験と苦悩を食べて自分の身体を作ってきたおじさん、という像が私の中に仮に出来上がる。

 

仕事を終えると、自転車で銭湯へ。一番風呂を満喫し、地下街の居酒屋へ向かう。

 

席に着くとすぐに、甲本雅裕さん店長が、いつもの焼酎の水割り?とお通しを運んできて、顔の前で両手をパーにして「おつかれさん!」と。

これ、言われたい~💛

 

なにを食べてるのかわからなかったけど、平山は、細長い何かを箸でつまんで、ゆるい顔して満足そうに飲んでたよ。

※わたしのつきだしは、赤かぶと大根の拍子切りに、塩と米酢、柚子の皮。平山さんのふりして座ってるのは、うちの猫ましろくんでした(冒頭の写真)

 

 

この映画の公開終了前夜のこと、友人Y子がやってきた。私が最近読んであまりに面白かった本「家事か地獄か」(稲垣えみ子著,マガジンハウス)を借りたいから行くねと前日に連絡をもらっていた。

 

来るなり、せっつくように「ねえ上がっていい?〇〇くん(うちの息子)いる?」と言うので、何事かと思えば、さっき「映画館で見かけたのよ」とのことで

 

話が止まらないので「晩御飯食べる?」「うん」となり、「ネタばれ厳禁」と叫ぶ私をしり目に、すでに観ていた夫も混じって、ごはん&絶賛映画評論会となった。

 

で、私も観ないわけにはいかなくなった(笑)

 

それはさておき、彼女が借りに来た「家事か地獄か」は、「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」(1975年公開,シャンタル・アケルマン監督)の、半世紀後の答えであると、前回書いた本である。

 

 

平山の暮らすアパートは、テラスハウス形式の古い木造住宅で、1階に台所と、小さな部屋があって、そこには、ソファとか風呂のイスとかの家財道具とともに平山の過去が押し込まれていて

 

彼の生活は二階の一部屋と、彼が植物を育てている小部屋と、洗面所兼台所で完結している。

 

部屋の片隅に、きちんと布団がたたまれていて、タンスがひとつ、あとは本とカセットデッキとテープと、寝る前の読書に使う電気スタンド。

 

 

まさに、「家事か地獄か」の著者、稲垣えみ子さんの部屋と暮らし方なのだ。トイレの便器を中まで、雑巾でごしごしするお掃除ぶりも、同じだ~と思った(笑)

 

大きく違うなと思ったのは、彼が過去(の家財道具)を捨ててないことと、ご飯かな。

 

長くなるので、続きはまた次回とします。