ヴィムヴェンダースの「まわり道」を観て(by映画好き息子) | ボクらの映画めし

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映画に出てきたごはんを作ってみた。なるべくヴィーガン

シネマルナティックにて鑑賞。

この映画は見た後で何かを考えずにはいられない映画である。

「ブレードランナー2049」や「灼熱の魂」で有名なドゥニヴィルヌーブ監督によると映画には3種類あるという。

 

劇場から1歩外に出たら忘れてしまうもの、

考えさせられたり人と分かち合いたくなるもの、そして

考えすぎて人と話したくないもの、

 

この3つであるという。

ヴィルヌーブの言葉を借りるなら、個人的には考えすぎて人と話したくない映画である(人によっては、人と分かち合いたくなるものかもしれない。というのも今作中は会話劇が中心になっている)。

だが、何を何を考えたらいいかわからなくなってしまうようだ。

 

ヴィムヴェンダースの映画は「パリ・テキサス」「ベルリン天使の詩」「ブエナビスタソシアルクラブ」を視聴済みで、今回の映画はそれらよりも前の75年に撮られた映画だった。

「ブエナビスタソシアルクラブ」はドキュメンタリーであるから除外するとして、パリテキサスでは家族愛、ベルリンでは人類

全体に対する愛、そして両方の映画で男女間の恋愛を描いていた。

 

 

今回の映画は外の他人に向けられた感情よりも、自身の内面への探求を主とした映画だった。

自己否定、孤独、客観的に見た自分、そして自分自身が感じる自分へのギャップ。

 



それらを詩にしたり文章にしたりして、旅に同行する仲間たちと共有する。

仲間たちもそれぞれ別々の考えを持っているが、根本的な問題は同じかもしれない。

矛盾するような相反する考えが、同じ人間の頭に共存していても何ら不思議ではない。

 



もしかしたら物事はもっと単純で、外から見ている人からすれば、くだらないことで悩んでいるだけに見えるかもしれない。

しかしまわり道をしたからこそ見えた景色があり、この映画を作った人たちは、まわり道をしたからこの映画を作れたというだろう。

 



まわり道とはつまり上手に前に進めないことへの自虐であり、そこには自己否定の感情が含まれているが、ただ何も考えず前を歩くだけの人よりも、多くの考えの選択肢を持っているという自己肯定の言葉でもある。

 

この映画はそんなまわり道をして悩める人への慰めであり、問いかけかもしれない。

 

※画像はお借りしました。ありがとうございます