衆院選で大勝した自民党は国土強靱化なる計画を持っている。一説によれば、10年間で総額200兆円という巨額の公共事業投資を目論んでいるという。

 民主党が政権を奪取してすぐのころは、『事業仕分け』なる言葉のもとに、あれは×これは○と劇場裁判でもするかのように、タレントだった議員の蓮舫が国家事業の計画の削減を颯爽と仕切っていたのはついこのあいだの出来事である。
 当時は、財政赤字を縮小し、国家財政の健全化を謳う民主党の方針が正しきものと国民の目にはマスコミを通して映っていたはずだ。当時にも異論はもちろんあっただろうが、そんなことを言えば『日本国の未来を悪に導き、己の利益を誘導する売国野郎』と非難されいてたはずだ。
 それが、10年で200兆円を使うという。
 金額のケタが違いすぎて、景気回復後の税収とのバランスがどうなのか?なんてとこは、小生にはまったく判断がつきませんが、果たしてこれで良いのだろうか。
 方向の転換が急すぎやしないか?
 億円単位の計画を○とか×としていたのに、一気に200兆円。

 まあ、気分は明るくなりますわな。
 元手が500円から競馬をはじめて、オッズの低い単勝、複勝を買うよりも、元手1万円で3連腹、3連単で馬券を買う方が、夢があるようにも感じるし、イッパツ当てればチャラだという大きな気分にもなれますからな。
 国家運営と財政は、もちろんギャンブルである競馬とはまるで違いますが、どうも、そんなふうに捉えてしまう小生なのだった。

 国家の運営をきっちり見据えようという機運は日本国民のなかに芽生えつつあるとは思いますが、『金をじゃんじゃん使う事にしたからな』という安倍党首の声で、株価が上昇したりしても、財政が脆弱であることはあまり変わっていないのですからね。 
 円高の是正が日本の根幹産業の利益を生み出すのは理解できますが、さて、どうなんでしょうか。

 今回の衆議院選挙の結果から民意の反映ということになるでしょうから国民の選んだ結論なのだと思っています。
 地震があったり、国家の浮き沈みがあったりと、これも最近小生が感じている無常観のひとつなのかもしれません。

 今年もあとわずか。
 日々生きる。そして生きる歓び。
 
 ガンバレ ニッポン。
 ガンバレ オレ。
 師走になると思い出す。
 小生の父親は厳格、、、というか家庭では、超ワンマンオヤジでした。そんな父親が大晦日にとある事件を起こしたことがあります。

 あれは小生が8歳くらいの頃の12月31日の出来事。大みそかのテレビ番組といえば『NHK紅白歌合戦』。当時中学2年生くらいだった姉貴は大そう楽しみしていたようだった。
 そんな姉貴の姿が、父親の目には『テレビに囚われているアホガキ』と映ったらしい。 
 姉貴の楽しみにしていた『NHK紅白歌合戦』がいざ始まらんとする夜の9時。
 父親はテレビのチャンネルをNHKではなく別の番組にチャンネルを回した(ココが大切で、当時のテレビのチャンネルというのは、リモコンなどではもちろんないしプッシュボタン式でもなく、ガチャガチャと回してチャンネルを切り替えるものでした)。
 『紅白歌合戦』を楽しみにしていた姉貴は、猛抗議。
 厳しかった父親をモノともせず猛抗議をし始めた。
 父親はちょっと意地悪な気持ちと、テレビ番組なんぞに心を奪われているその姿が気にいらなかったのでしょう。
 姉貴を一喝したあとに父親が起こした、大晦日の夜の恐るべき行動。

 テレビのチャンネルを引っこ抜き、当時住んでいた集合住宅の窓から、眼下に広がる闇夜に向かって、引っこ抜いたテレビのチャンネルを放り投げてしまったのだ。
 チャンネルの引っこ抜かれたテレビでは、映し出す番組の切り替えが不可能になり、ずーっと同じテレビ局の番組が映し出させているのみ。
 『恐るべし、わが父親』と、大してテレビなんぞに興味のなかった小生であるが、そのワンマンな行動を畏敬の念で眺めておりました。

 元旦の朝から、『テレビのチャンネル、チャンネル、、、』と呟きながら、母親、姉貴ともどもテレビのチャンネルつまみ部品を探したのでした。
 今から思えば、せっかく家族全員が顔をそろえている大晦日の夜、、1年を振り返る家族の会話なんてものより、テレビ、テレビと騒ぐ娘のアホさ加減に怒り心頭したのであろう。
 それにしても、大晦日の夜にテレビのチャンネルをベランダから思い切り闇夜に放り投げる父親ってのもどうなんだろうか。さぞかしスッキリしただろうな、、、、なんて思いますな。

 そして、時は流れて、、、、、
 父親がチャンネルを闇夜に掘り投げてから40年近い時間が経過し、元旦の朝からチャンネル探しに奔走していたガキだった小生が、今では子供3人の父の役割を担っている。
 テレビは進化し、ガチャガチャ回すチャンネルは、リモコンに取って代わっている。ハードディスク録画なんてのができて、録画しておいたテレビ番組を瞬時に検索できるし、100時間程度のテレビ番組がキレイな画質のまま録画できて便利この上ない。

 小生も父親の影響かテレビ番組ほとんど見ないに等しい。しかし、我が家の子供らには難しいと思っていたテレビ番組録画の方法もあっという間に習得し、ドンドンと録画するようになっていった。簡単、便利になるというのは人間を堕落の道にいとも簡単に導く。とにかくテレビを録画しておく、、なんていう傾向は我が家の子供らにも浸透してきて、とにかくちょっと見たいと思ったテレビ番組は録画しておいておくようになり、あっという間に100時間のHDDの容量が一杯になるほどテレビ番組が録画されるうようになってきた。さらには、1度見た番組をデータ消去することなく、繰り返し見るなんていう姿も見られるようになり、我が家の3人も『テレビに囚われている子供』になりつつあったので、厳重注意を何度かしたことがありました。『便利になったテレビに自分の時間を支配されるな』と彼らに繰り返して言ってきたつもりなのですが、、、、、

 そして今朝、娘は早朝6時30分から部活動に出かけ、次男はサッカーの試合に行くべしと準備し、小生は朝飯を食べ、妻は次男を送り届ける準備やら家事やらでバタバタし、ひとり長男だけが録画してあったテレビ番組を眺めておりました。ちょっとイライラモードの入っていた妻は、長男が自宅でひとりになった時にやるべき事の指示をしておりました。
 1度見たはずのテレビ番組の録画をあらためて必死に見ている長男。妻の声は耳に届いていない様子だった。妻がイライラして『ねえ、ちょっと聞いているっ!』と声をかけても、その言葉さえも聞いていない。

 『許せんっ! 成敗の時がやってきた!』
  
 妻と長男のやりとりを眺めながら朝飯を食べていた小生でしたが、心の中が『織田信長モード』に切り替わりました。長男を名を大声で叫び、彼が振り向くやいなや、愛の拳を彼の額にやや控えめに一発。よく父親にビンタを食らっていたせいか、こういう時に小生は、思いっきり子供を張り飛ばすことはしないのである。母親の話に返事もしない態度を諌め、テレビが生活の中心になっている生活態度を叱った。
 ビビりながら頷き、涙を浮かべ反省した様子を見せる長男。

 が、しかし、冷徹な判決文を小生は読み上げた。
 『判決、過去にハードディスク録画したテレビ番組をすべて消去せよ』
 番組消去の刑は即時執行された。
 涙を浮かべながら、録りためた番組がすべて消去されていくテレビ画面を眺める長男。

 繰り返し彼らに言ってきた言葉を、あらためて裁判長である小生が述べる。
 『意味なくテレビを眺めるのはヤメロ。お前たちはテレビを見ているのではなく、テレビに見させられている。便利になったテレビに完全に生活のリズムを侵されている』
 激昂して怒鳴ったものの小生の心のなかは案外と冷静でした。
 その時に小生の脳裏に走ったものは、38年前の大晦日の夜にテレビのチャンネルを闇夜に放り投げた父親の姿でした。
 ああっ、きっと父親もこんな気持ちであったのだろうな。
 世の中が便利になり、モノに心を奪われて、家族の対話がなくなっていくことが許せなかったのだろうと。

 モノとココロ、、、38年前の父親の姿を自分を重ね合わせながら、通勤電車の車窓から流れゆく風景と師走の曇り空を眺めた今朝なのでした。
 
 

イメージ 1

 たぶん、5年くらい前に購入して読んでいなかった本で、秋山駿の対談をまとめた文庫『信長 秀吉 家康』学研文庫 です。

 秋山駿という人の本は、野間文芸賞を受賞した『信長』を読んだことがあるのですが、そのときも著者の歴史観に思いがはせることはなかった。戦国の世を生きた武将の行動指針を、物理的に捉えるその観点が好きにはなれなかった。そんなこともあって、この本は書棚に積みっぱなしで手にとることがなかったのかもしれません。買いだめた本が尽きてきたこともあって読んでみたのですが、、、、。
 やはり、秋山駿の歴史観はどうにも好きになれない。
 戦国時代の武将は激烈なる精神力と行動力があってこそだと小生は思うのです。

 信長と秀吉、家康の3人の武将ばかりが現代において多く取りざたされるのは、現代日本人の性格づけか、3人の武将のいづれかに当てはまるからではないからでしょうか。小生は特に家康の考え方や行動に秘められた性格というのは、現代日本人の基礎になっているように思います。

 性格的には、信長のような直観的で、激烈なる人物に好感を持っていますが、信長が上司だったら大変でしょうな。
 それにしても、この手の本で学研が出版元だったりすると、だいたいハズレの本に感じてしまいます。
 この本も小生にとっては、完全なるハズレなのであった。
 担当編集者さん、、、、テーマが大きいわりに、構成が適当すぎると思いまっせ。

 小生の勝手な評価★☆☆

イメージ 1

 吉村昭著の『殉国』文春文庫です。
 この本を読み終えたのは、奇しくも12月8日。今から71年前の昭和16年の12月8日「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文の発信を機に、大日本帝国は米国との4年にわたる戦争に突入したのだ。

 吉村昭氏はいくつもの太平洋戦争にまつわる記録小説を書き遺している。すべてに目を通したわけではないが、著者吉村昭がどうして戦争の記録小説の執筆に掻き立てられたのか、少しずつ理解できてきたように思える。
 綿密なる取材のもと、史実と事実を捉え、著者なりに咀嚼し、真実を捻じ曲げることなくその歴史的背景を記すことで、激烈なる戦争に突入しなければならなかった日本国の姿と日本人の精神を追いかけていたのではないかと。

 『殉国』と題されたこの歴史小説は、米軍が上陸寸前の沖縄での少年兵の物語である。玉砕すべしという軍の教えに育まれた精神と、『死』をみつめる自分の本心の葛藤を胸にした15歳の少年兵の目を通して沖縄での戦争が語れている。
 戦争で命を落とすことに恐怖を憶えつつも、国のため故郷沖縄のために無駄死にではなく玉砕して国のために命を賭すべく生きた少年の心。少年の精神が、敵軍の攻撃により死す軍人、民間人の姿を目の当たりにすることで、殉死すべきだという心がどんどんと尖鋭していく様が真摯に伝わる小説である。
 
 日本人がどうして、あそこまで激烈なる戦いをしたのか。身を呈して玉砕する日本人の精神構造。
 アングロサクソンの兵士には理解のできない精神であり、さぞかし畏れと同時に憎しみが沸いたことであろう。戦後の日本人を骨抜きにすべく、戦争放棄の憲法を押し付け、民主主義の旗印の元に娯楽と快楽を浸透させるべく占領戦略がとられたのだなと。
 
 吉村昭は右でもなく左でもなく、歴史が作った日本人の姿をただただ追いかけていたのではなかろうか。東京の焼け野原を、日暮里の高台から見続けていたことが著者の本ではよく語られているが、ありのままを受け入れる無常観がそこにあったような気がする。結果や結論などはなく、そんな歴史が我々の中にはあるのだと吉村昭の小説が教えてくれる。

 71年前に真珠湾を目指し、択捉島の単冠湾からの出撃から始まった戦争で命を犠牲にした230万人の日本軍兵士の英霊と、世界中の国で命を落とした2500万人の兵士、3000万人の民間人犠牲者の鎮魂を改めてここに念じた今回の読者でした。

 
仕事の現場の店頭に立っていたら、たまにくるフィリピン人の女性が、
小生の顔をみてひとひと言。
「チョット スコシ ヤセタネ、、」

『ワタシ ウンドウ ガンバッテルヨ』 
 日々精進。