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徒然草子

様々なテーマに関する雑感を気ままに綴ったブログです。



3 鎌倉時代・南北朝時代
 中世に入り、大峯山系での抖擻が活発に行われる様になり、かつ山林における修行の集団化が進行すると、それらに伴って抖擻や峰中での修行や行事の次第の整理もより一層進んだ。
 鎌倉時代においても大峯山系への峰入抖擻は熊野と吉野の両拠点から行なわれていたが、後に熊野から吉野に至る抖擻は順峰、吉野から熊野に至る抖擻は逆峰と呼ばれる様になった。
 此処で、1328年に青笹(小笹)の宿で良弘が阿闍梨尭海から伝授され、その後、内山永久寺に伝来した『青笹秘要録』に従ってその当時の抖擻を概観しよう。
 順峰の期間は100日、逆峰の期間は75日と言い、順峰の場合、吹越宿に27日、水飲宿に14日、深仙に17日留まるものとされ、一方、逆峰の場合、小笹に27日、脇宿に17日、深仙に17日留まるものとされた。
 又、抖擻行の先達はその役割によって大先達、宿、閼伽、小木、採灯の五先達から成っていた。大先達は抖擻全体を総括し、宿の先達は宿の設営、閼伽の先達は閼伽の作法、小木の先達は小木作法、採灯の先達は護摩を各々取り仕切った。
 閼伽の作法とは、Vam(金剛界・智・父)とA(胎蔵界・理・母)の二つの桶に閼伽水を入れて先達に納めるもので、父母の恩を報じ、悪業、煩悩を無垢にするものとされた。
 小木の作法とは、約55cmの枝(小木)36本を楮で縛り、持ち帰って先達に納めるものである。
 護摩の作法とは、他四先達の前で採灯先達が小木を焚いて祈念するもので、法華懺法と讃に合わせて小木を3本、6本、4本、6本ずつ火中に投じた。その際の護摩の火は自身の業を照らす鏡と解されていた。
 ところで、『青笹秘要録』には1465年に乗円が小笹で伝授された切紙が付記されていて、これによると、入峰の日から7日間は断食で、その後も1日1合のみの食事が定められている。
 南北朝時代の熊野三山検校である良瑜は5度の大峯入峰を行い、深仙、笙の窟、那智などで修行したが、1383年に深仙で深仙灌頂を行い、その後、葛城灌頂を行なっている。この時の灌頂次第として『大峯修行灌頂式』、『葛城修行灌頂式』が残っているが、その内、『大峯修行灌頂式』の中で大峯峰入について触れた「当峰制戒」によると、峰入修行は五智如来を象徴する五先達の許で木食草衣にて断食、懺悔し、護法童子の助けの許で捨身求菩提の修行を行い、深仙において灌頂により曼荼羅の中院に入り、即身成仏の覚位に入ると述べられている。又、同書には『青笹秘要録』と同じく、抖擻の日程に関して、順峰100日、逆峰75日とし、又、各宿での滞在期間についても触れている。尚、深仙は修験道の伝説的開祖である役行者常居の地とされ、大峯山系の中台と目された一大霊地であり、大峰修験の一大秘儀である深仙灌頂の道場でもあった。1503年に相模の盛厳が書写した『証菩提山等縁起』によると、深仙の北、経ヶ岳の西に7尺の岩の下から水が涌いている場所があり、其処は如法経書写の道場であったと言う。
 

4 室町時代
 室町時代中期頃になると、吉野からの峰入作法を記した書籍類も編纂される様になった。
 その一つである『峰中作法』によると、先ず、吉野山中の諸堂社を巡拝し、安禅にて入成の作法を行い、続いて山上ヶ岳で笈渡しを行なうとされ、その後、小笹の諸堂社を巡拝後、閼伽の作法、小木渡しを行なった上で、深仙において灌頂を行い、玉置山で出生の作法を行なうとされている。
 又、その後に成立した『峰中作法次第』によると、安禅で入成、山上ヶ岳で笈渡しを行い、小笹の宿で水断、穀断、小木、閼伽、懺悔を行ない、深仙で正灌頂、玉置山で出生作法と柴灯護摩を行なうとされている。
 一方、熊野修験系の資料で、室町時代中期成立と見られている『修験指南抄』によると、玉置山は熊野の奥の院、山上ヶ岳は吉野の奥の院であるとし、熊野から深仙は胎蔵界、釈迦ヶ岳から吉野は金剛界であるとしている。そして、釈迦ヶ岳などの高山で乳木を伐り、嶮難を凌ぎ、又、前鬼の三重の瀧で煩悩の垢を洗い、不動明王を念じ、『法華経』を読誦し、諸法実相の理を覚ることを勧めている。
 又、室町時代後期成立の『三峯相承法則密記』にはこの時代の峯入抖擻の作法がより詳細に記されているが、その内容は以下の通りである。

○入峰に先立つ21日間、山内諸堂社を巡拝し、初夜、日中、後夜の三回、役行者像に香華、灯明を供え、読経する。尚、読経時には『錫杖経』、『般若心経』、金胎両部大日如来呪、不動明王の慈救呪、役行者と大峯八大童子の宝号を称える。

○入峰7日前に峯中正大先達の庵室に峯入2度目以上の度衆と初めて峯入りに参加する行者である新客が集まり、長床(長方形状の峯中の修行道場)の席次を決める。席次は道場奥正面に正先達、その左右に小木、柴灯、宿、閼伽、峯の五先達が座し、それに向かい合って左右に度衆と新客が座す。度衆中の席次は峯入の回数で、新客は年齢で定まる。又、この時に席次を記載した床座配帳、峯中の役務の割り当てを記した番帳、持物などが手配される。

○入峰当日、入峰者は正大先達の庵室で役行者像、手碑伝、笈、斧、閼伽桶の前に集まる。この時、錫杖経1巻、役行者と八大童子の真言を21遍称えて、着衣の八箇所の貫(くくり)を結び、法螺文を授かる。

○正先達の坊舎の入口の所で錫杖経を称え、山麓の行者堂に手碑伝を納める。この時、山内の修験者から峰入の先達に笈、班蓋、斧、閼伽桶などを受け取る(笈伝(おいわたし))。そして、現参(点呼役)の指示で斧、法螺、手碑伝、笈、正先達、閼伽桶、度衆、新客の順で隊列を組み、山内の堂社を参拝し、山へと入る。

○峰中の宿には閼伽を納める閼伽壇、小木を納める小木壇、結界の小柴が設けられている。一行は宿に近づくと、宿着の法螺(三音、三音、三音半)を吹き、宿の入口で錫杖経を1遍称える。そして、新客は慈救呪を称えながら、宿を行道し、宿の入口で宿先達に箱笈を納める。次いで正先達が新客に閼伽壇の前で閼伽文、閼伽札、閼伽桶を、小木壇の前で小木文、小木量(小木の長さを測る物差し)を授ける。尚、閼伽札、小木量には新客の名前が記されている。

○宿先達と度衆は長床で錫杖経、役行者と八大童子の宝号を称える入宿作法を行なう。

○宿先達が法螺を五音、三音吹いて新客を長床に集め、正先達より峰中の食事は1日手1合(※両掌1杯の米の意)である旨が新客に伝えられる。

○錫杖経1遍、役行者と八大童子の宝号を21遍称える施食作法を行ない、夕食を採る。

○翌午前3時30分、正先達が新客に「悪罵及捶打、皆悉当能忍、我今成仏身、瑞座思実相」という床(とこ)堅(がため)文を授け、十八条から成る峰中の掟を唱和する。次いで新客は正先達の前に進み、五体投地3礼後、峰中のことは口外しないとの誓誡をし、錫杖経、役行者と八大童子の宝号、本覚讃を称える。その後、法螺が三音吹かれ、一同長床に座し、点呼後、先達が度衆、新客の頭上で小打木(長さ5寸、周囲1尺の丸太)と肘比(長さ1尺2寸、周囲8尺の丸太)を打ち合わせる。

○次に床堅の作法に移る。新客各自の前に肘比(ひじころ)を横に、小打木をその前に縦に置く。次いで肘比(ひじころ)を左手で左腰に、小打木を右手で右腰に按じ、床堅文を称えて、自身の頭頂が空、額が風、心臓が火、腹が水、腰が地、そして全体として金剛界大日如来の種字Vam字であると観じ、即身即仏となることを期する。そして、本覚讃を称えて正面で肘比(ひじころ)と小打木を打ち合わせ、錫杖経、『般若心経』、両部大日呪、慈救呪、弁才天呪、 役行者と八大童子の宝号を称え、もう一度、 肘比(ひじころ)と小打木を打ち合わせる。           

○次いで床定の作法に移る。虚心合掌印を結び、Vamと称えて、頭を北にして西向きに横臥してVam字を横にした姿を示す右横臥座を採り、「Vam字法界種、相形如円塔、以理智不二、是名法身体」と称える。尚、この右横臥座の姿勢は釈尊入定の姿であると言う。

○床堅、床定の作法が終わる午前4時頃から初夜勤行に入る。初夜勤行の次第は床堅観文、『般若心経』3巻、胎金大日呪100遍、慈救呪100編、行者童子宝号100遍、南無行者八大童子1遍、三条錫杖1遍、五輪観文1遍、八句文1遍である。この間、閼伽と小木の先達が二本の散杖と手続(短い縄)を操作する鎮魂の床精を行なう。

○日中(正午)の勤行の次第は九条錫杖、『般若心経』3巻、胎金大日呪100遍、慈救呪100編、行者童子宝号100遍、小木文1遍、五輪観文1遍、八句文1遍である。この時も床精があるが、この勤行では、大日呪の後に柴灯先達が二度腰を捻って三歩ずつ九歩進んでから炉壇に到って白小木(皮を剥いた小枝)を炉中に投じ、次いで宝号の後に同じ所作で炉壇に進み、黒小木(皮のついた小木)を炉中に投じる床柴灯が行われる。

○後夜勤行の次第は小木文を略する他は日中勤行と同じである。

○尚、峰中正灌頂を終えると、床精はなくなり、代わって当番衆による柱源護摩が行なわれる。

○山中の宿に滞在中における汲水の閼伽、採薪の小木、当番・助番交替の番渡などの作務に関するも定められていた。
 上述の閼伽の作法とは、新客が毎日三荷の閼伽水を閼伽先達に納めるもので、先ず、新客は閼伽井に行き、井戸に向かって掌中に閼伽札を入れて虚心合掌を行い、「以Vam字浄水、洗浴煩悩身、五智徳顕現、心諸仏円満」という閼伽文を三度称えて閼伽水を汲み、閼伽桶を水で満たすと閼伽壇の当番衆に手渡す。かくして三荷の水を納め終わると、長床にいる閼伽先達に閼伽水の修行が終わった旨を伝え、閼伽札を渡す。其処で先達は閼伽行を終えた新客の名前を控え、翌朝、閼伽札を返すのである。
 小木の作法とは、新客が毎日三荷の小木を集めて小木先達に納めるものである。先ず、小木の長さを測る小木量を両手の中指と人差指の間に挟んで、「四大和合身、骨肉及手足、如薪尽火滅、皆共入仏地」という小木文を称え、腰に差す。続いて小木を三本ずつ同様に挟んで小木文を称え、一荷ずつ小木壇に運んで小木先達に納める。次いで長床にいる小木先達に小木量を渡す。其処で先達は小木の行を終えた新客の名前を控え、翌朝、小木量を返すのである。
 番渡とは、宿の当番の受け渡しのことで、正先達が当番衆に番渡を申し渡し、後番の者が「承う。」と三度応え、先番から松明と火縄を受ける。次いで、先番が引き渡す物を一つ一つ挙げてゆき、その都度、後番が「承う」と応えるのである。

○次の宿に移る時、先ず、宿で不動明王の慈救呪を称えて順の行道を三度行い、宿口にて錫杖経を称え、三音半、ニ音半、一音半の宿出の螺を合図にして出立する。

○山中の宿を移りながら、十界修行を行い、出生となる。出生の作法の方は山麓の宿口で出峰の山伏が待山伏に手碑伝、笈橛(笈の前に置く小鳥居)、閼伽桶、火のついた松明を渡し、正先達が笈を外して自分の被っている斑蓋を笈に被せて笈橛をたてかける。すると、待山伏の先達がその笈を背負い、斑蓋を被って退場する。一方、参加者は正先達から貫を解く様に言われると、貫を解き、宿に入る。その夜は宿で金剛贈と言われる直会が行なわれる。

 以上が『三峯相承法則密記』に記された峯中抖擻の諸作法であるが、この時代になると、様々な作法の次第が整理され、又、抖擻以外にも併せて様々な修行が行なわれていた事が伺える。
以下、高校の世界史レベルの備忘録である。
近時、イスラーム主義過激派の一派である「イスラーム国」の活動が何かと耳目に飛び込んで来るので、イスラーム法を少し概観するに当たっての極めて初歩的な個人的準備をしようと思い、纏めてみようと思う。
尚、此処で言う4大学派とは、専らスンニー派のイスラーム法学の学派の事である。嘗ては、以下に纏める4大法学派以外にもザーヒル派、アウザーイー派等の学派も存在していたが、今日のスンニー派のイスラーム世界において現存するのは、4大法学派のみである。
又、シーア派の主流を成している12イマーム派では第6代イマームに由来するジャーファル派の法学が行われているが、これについては此処では触れない。

1 ハナフィー派
8世紀の法学者アブー・ハニーファに由来する学派。事案の解決に類推(キヤース)を多用する。トルコ、中央アジアや南アジア、エジプトなどで主流を成す。オスマン・トルコ帝国の公認学派でもあった。

2 マーリク派
8世紀の法学者マーリクに由来する。預言者ムハンマドの言行録である『ハディース』を重視し、事案の解決に類推(キヤース)の使用をなるべく抑制する。北アフリカや西アフリカなどで多い。

3 シャーフィー派
マーリクの弟子であった法学者シャーフィーに由来する。マーリクの伝統を継承しつつも、ハナフィー派の方法論を導入したシャーフィーにより確立された。又、「イスラームの知性」と称されたガザーリーは神学者であると同時に同派の法学者でもあった。東南アジアやエジプトなどで多い。


4 ハンバル派
シャーフィーの弟子であった法学者イブン・ハンバルに由来する。預言者ムハンマドの言行録である『ハディース』を重視し、かつ『コーラン』や『ハディース』などの聖典における記述を論理的整合性よりも優先するから、類推(キヤース)に関しても極めて消極的である。今日、サウジアラビアの国教となっているワッハーブ派の祖である18世紀のムハンマド・ワッハーブも同派に属しており、又、サウジアラビアも同派の法学に依っている。イスラーム主義過激派の思想的源泉とも言うべき13世紀の法学者イブン・タイミーヤも同派に属していた。
1.導入

 奥駈とは、大峯修験において吉野から熊野にかけての、所謂、大峯山系の峰々を抖擻する行の事で、大峯修験における最も根本的な行である。
 以下、大峯山系における抖擻行、すなわち、奥駈の歴史を備忘録がてらに修験道研究の泰斗宮家準氏をはじめとする諸賢の研究を基に纏めてみようと思う。

2.平安時代
 古来、大峯山系の一峯を成す山上ヶ岳を中心とする金峯山と呼ばれる地域一帯は古くから修行の山として知られ、平安時代初期、入唐前の弘法大師空海も登ったと言われ、又、伝教大師最澄の高弟である光定も812年に金峯山にて修行を行なった。その後、金峯山では真言宗小野流の祖である理源大師聖宝がその青年期に修行をしている。
 かかる山中では修行僧達が様々な修行を行っていたが、山中の窟における籠行もその一つであり、
 『扶桑略記』によると、941年、金峯山の笙の窟において道賢という僧が21日に亘る念仏行を行なっていたと言い、その後、道賢が気息を断つと、その霊魂が執金剛神に導かれて金峯山の浄土や地獄を遍歴し、蔵王菩薩に会ったと言う。因みに、此処で出てくる蔵王菩薩は後に修験道の本尊である金剛蔵王権現に発展したと考えられている。又、山上ヶ岳の大峰山寺本堂解体修理時における発掘調査の際には護摩壇の遺構や平安時代以降の仏像、仏具、祭器などが多数発見されており、諸記録に見られる通り、古くから金峯山が行者達の重要な行場であった事が考古学的に裏付けられた。
 ところで、当時、大峰修験の方は金峯山の山麓に当たる吉野の金峯山寺が統括し、同寺の長である検校が管理運営を担ったが、先掲の理源大師聖宝以来、大峰修験は真言宗小野流系の醍醐寺派と関係が深く、又、醍醐寺4世座主の貞崇が金峯山において30年近く修行したこともあり、醍醐寺系の修験者は主に金峯山を抖擻していた。
 平安時代中期に入り、金峯山が弥勒菩薩下生の地と目される様になると、金峯山(金の御岳)詣が盛んに行なわれる様になり、900年、905年の宇多法皇の御幸を嚆矢として金峯山(金の御岳)詣が貴顕層の間で定着し、1007年、関白藤原道長も厳重な精進潔斎の末、金峯山詣を志し、金剛蔵王権現への供養の他、『法華経』、『弥勒三部経』、『般若心経』、『阿弥陀経』などを埋納している。
 平安時代後期になると、熊野本宮が阿弥陀如来の浄土と目される様になると、金峯山に代わって熊野の方に貴顕層の注目が集まる様になり、それに伴い、本宮をはじめ、新宮、那智山から成る熊野三山を参詣する熊野詣が盛んになり、皇室、貴族ら貴顕層は競って熊野を訪れた。かかる熊野詣の先達を務めたのが、熊野三山を拠点とする熊野修験の行者達であった。平安時代中期、天台宗寺門派の拠点である園城寺(三井寺)長吏で聖護院の開山でもある増誉が熊野三山検校に任じられて以来、熊野修験は園城寺(三井寺)の管轄下に入り、後の室町時代になると、園城寺(三井寺)の末である聖護院が直接的に熊野修験を統括する様になった。
 さて、今日の奥駈行の原型とも言うべき熊野から吉野に亘る大峯山の峯入抖擻は上掲の熊野修験の行者によって始められたと考えられており、彼らは熊野本宮を拠点に峯入抖擻を盛んに行なった。11世紀後半、熊野三山検校を務めた行尊もかかる行者の一人で、大峯、葛城の諸山で抖擻に励んだが、特に深仙では57日間に及ぶ岩上の修行を行なった。
 ところで、大峯修験を形成した行者達は、当初、真言、又は天台宗の密教僧だったこともあり、彼らによって大峯山系全体が一大曼荼羅と看做されたが、具体的には熊野側南半分は胎蔵界、吉野側北半分は金剛界と目され、大峯山系の峯々は曼荼羅諸尊と結び付けられた。そして、峰入の行者やその信者達は諸尊と結び付けられた各峰に仏像、仏具、経などを埋納していった。
 又、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて編纂されたと見られる『熊野三所権現金峯山金剛蔵王権現垂迹縁起並大峯修行伝記』(略称『大峯修行伝記』)によると、大峯山系の中心と目されていた釈迦ヶ岳は仏生国(インド)の霊鷲山と檀特山が飛来したものであり、大日ヶ岳は金剛界・胎蔵両部が合したものであり、それ故、大峰山は即身成仏と大乗懺悔の霊地であると述べられ、又、大峯山は熊野権現、金剛蔵王権現、金剛童子出自の地ともされていることから、平安時代末期頃までには大峯山系の峰々は顕密両教、神仏習合の一大霊地という見方が定着していたことが伺える。
 そして、当該『大峯修行伝記』によると、大峯山の峯入抖擻に関して、春から夏にかけて熊野から吉野に向けて100日間抖擻するものと秋から冬にかけて吉野から熊野に向けて70日間抖擻するものの二つがあるとし、更にこれらの峯入に際して金剛供を行なうべきこと、又、入峰の日には大食をすべきことが述べられていることから、平安時代末期には大峯山の峯入抖擻の原型が完成していたことがこれらの記述から知られるのである。
 さて、大峯山の峯入抖擻が盛んになると、大峯山系の各所に拠点や行場が設けられる様になったが、その過程で深仙や前鬼などが山中の修行の重要な拠点になっていった様である。又、『金峯山本縁起』には山中の行場として120箇所の宿の名が挙げられているが、こうした宿には抖擻の行者達に宿泊の場を提供していたが、宿泊の場とは言え、奥深い山中の事である為、その多くが簡素な避難小屋程度の施設であった様である。
 平安時代末期、歌人として著名な西行も上掲の行尊を慕って峯入抖擻を2回行なっているが、第1回は夏に吉野から熊野へと至る抖擻を行い、第2回は秋に熊野から吉野に至る抖擻を行っている。
 又、抖擻が盛んになると、それに伴う作法の方も整理されてゆき、『大菩提山等縁起』「菩提峯宿付吹螺様次第」には1160年に播磨の禅定坊応久が述べたとされる山中の宿間を移動をするに際して行う法螺の作法が記録されている。
 そして、長期間に亘る峯入抖擻において水の確保が極めて重要事項であったから、先の禅定坊応久の切紙には山中の霊水の所在地も記載されている。
7 仏教におけるサラスヴァティー信仰
(5)日本


(一)導入
 漢訳仏典においてサラスヴァティーは音写して薩囉娑嚩底などと表記され、又、意訳して弁才天、妙音天、大弁功徳天、大弁才天、大弁才天女等と称される。日本では弁才天という名が一般的に知られているが、後世、財宝神としての性格が強調される様になると、「才」を「財」と読み替えて、弁財天と表記する事も広まった。
 さて、日本のサラスヴァティーこと弁才天信仰は大きく以下の三つの系統に分類する事ができる。

①『金光明経』系弁才天
 『金光明経』所説の軍神としての弁才天

②二臂弁才天
 密教諸経典に登場する音楽神としての弁才天

③宇賀弁才天
 宇賀神と習合した財宝神としての弁才天

上記の内、歴史的に最も古い弁才天信仰の在り方は上記①であるが、後世、最も今日に至る日本の弁才天信仰の在り方に大きな影響を及ぼしているものが上記の③である。
本節では神仏習合思想とも複雑に関わり、極めて多様な展開を見せている③に関しては別述するとして、専ら①と②について触れる事にする。

(二)『金光明経』系弁才天

修験道の伝説によれば、日本における弁才天信仰の始まりは役行者が大峰山にて修行中に感得した事によると伝えられているが、史実としては中国や日本において護国経典として尊ばれた『金光明経』の伝来とともに奈良時代に始まったと見る方が当たっているであろう。
さて、弁才天に関して、『金光明経』の「大辯才天女品」において「聰明大智,巧妙言詞,博綜奇才,論議文飾,隨意成就」等とある様にインド以来の智慧、知識、弁説の神としての性格の他に、「增長福智諸功德,必定成就勿生疑」等という箇所から財宝神としての性格も僅かに伺う事ができ、又、「勇猛常行大精進。於軍陣處戰恒勝。」等という箇所から軍神としての性格も知る事ができる。
そして、その図像に関しても『金光明経』において憍陳如婆羅門の口を借りて弁才天を一面八臂の美しい女神としながらも、「各持弓箭刀槊斧,長杵鐵輪并罥索」と述べられ、様々な武器を持物として武装している事が知られ、その様相からも軍神としての性格が濃厚である。
かかる弁才天の在り方は、先述したヒンドゥー教シャークタ派系のサラスヴァティーであるマハーサラスヴァティーと類似しており、マハーサラスヴァティーも一面八臂にして諸々の武器を手にしてアスラ達を滅ぼすとされているから、恐らく、『金光明経』所説の八臂弁才天はマハーサラスヴァティーの姿の仏教における投影ではないかと推察し得る。

そして、後世、宇賀弁才天が大流行する以前において弁才天信仰としてはこちらの『金光明経』系の弁才天が一般的であった様であり、平安時代末期の図像集である『別尊雑記』の「弁才天」の図像の頁に「竹生島弁才天」と註された八臂の弁才天と「大弁才天 唐本」と書かれた一面三眼六臂の弁才天が描かれているが、これらの弁才天も『金光明経』系の弁才天からの派生と考えられる。
以上が『金光明経』系弁才天の概要であるが、『金光明経』における弁才天の位置づけが決して軽いものでは無いにも関わらず、平安時代前期以前の場合、『金光明経』系の弁才天信仰に関しては全体的に低調気味であり、奈良時代の作である東大寺法華堂の弁才天像はその貴重な造像例である。恐らく、智慧、知識等に関しては仏教尊である文殊、虚空蔵菩薩などが信仰を集め、福徳に関しては吉祥天、戦勝に関しては毘沙門天などの方が信仰を集めており、それらの祈願に応えるとされていた『金光明経』系弁才天が登場すべき場面が無かった事も一つの要因と推察される。
しかしながら、平安時代も時代が下ってゆくとともに現世利益を成就させてくれる新奇な尊格が求められる中で改めて弁才天も注目される様になり、先述の『別尊雑記』の例から伺える様に、平安時代末期には竹生島に祀られていた八臂の弁才天がその信仰を当時の人々から集めていた様子が知られるのである。

(三)二臂弁才天

二臂の弁才天は平安時代に入って密教経典や密教図像が続々と伝えられる中で伝わってきたものである。
『大日経疏』によると、弁才天は妙音楽天とも美音天とも称されているから、音楽神としての性格が濃厚である事が伺われ、又、現図胎蔵曼荼羅における弁才天も琵琶を奏でている姿で表されている。

今日、二臂の弁才天の図像としては琵琶を奏でている姿が一般的であるが、日本伝来当初は必ずしも一定してはいなかったらしい。

例えば、『別尊雑記』には弘法大師空海の高弟である智泉が伝えたとされる二臂の弁才天が所収されているが、こちらは琵琶では無く、西域起原のハープ状の楽器である箜篌を奏でている。

又、「胎蔵旧図様」の弁才天は琵琶を持するものの、左肩に担いでおり、「胎蔵図様」に至っては琵琶すら持していない。又、「醍醐寺本天部形図」の二臂像は蓮華と宝珠を持する特異な図像である。

かかる二臂弁才天は、当初、数多く存在する天部諸尊の一つとして、特段、目立つ存在では無かった様であるが、平安時代末期頃に俄かに音楽神として注目を集める様になり、鎌倉時代に入ると、琵琶を家芸としていた西園寺家が中心となって琵琶を奏でる二臂弁才天信仰が称揚される様になった。
かかる西園寺家が護持していた二臂の琵琶弾奏の弁才天像は平安時代末期の琵琶の名手藤原師長の念持仏であったとされ、又、鎌倉時代に入り、琵琶が楽器の最高位に位置づけられる様になった事情もあり、当該念持仏を護持していた琵琶の家である西園寺家を中心に二臂の琵琶弾奏の弁才天信仰が称揚される様になった。
そして、恐らくは上述の動きと連動する形で二臂の琵琶弾奏の弁才天が、鎌倉時代中期以降、日本各地に普及するとともに造像や祭祀も盛んに行われる様になり、別述する宇賀弁才天と並び、今日、日本で最も知られている弁才天の図像の一つになった。

又、二臂の琵琶弾奏の弁才天の図像の一般的普及とともに、その性格も本来的な音楽神という制約を離れて宇賀弁才天に求められるべき財宝神的な役割をも担う様になり、現在では弁才天と言えば、通常、琵琶を奏でる女神の図像が連想されるに至っている。
7 仏教におけるサラスヴァティー信仰
(1)上座部仏教圏
ガネーシャの項でも触れた様に上座部仏教圏においてヒンドゥー教神は現世利益を祈願する神々として信仰されている。

ミャンマーではサラスヴァティーはスラタディ(Thurathadi)と呼ばれ、一般的に一面二臂でハンサ鳥に乗り、本を持する図像で表される事が多い。

一方、タイではスラサワディー(Surasawadee)と呼ばれ、一面二臂でヴィーナを持する姿が多い様である。

(2)インド密教
インド密教の成就法集『サーダナマーラー』には大きく一面二臂系の図像と三面六臂系の図像のサラスヴァティーが説かれている。
(一)一面二臂像
○マハーサラスヴァティー
 身色白色、右手は与願印を結び、左手は白蓮華を持する。

○ヴァジュラシャーラダー
 身色白色で三眼、右手に蓮華を持し、左手に経巻を持する。

○サラスヴァティー
 身色白色、右手に金剛杵、左手にヴィーナを持する。

(二)三面六臂像
○ヴァジュラサラスヴァティー(1)

 身色赤色で三面の色は赤、青、白。右第一手から第三手まで蓮華、剣、カルトリ刀を、左第一手から第三手まで輪、宝石、鉢を持する。

○ヴァジュラサラスヴァティー(2)
 身色赤色で三面の色は赤、青、白であり、逆髪。右第一手から第三手まで経巻を載せた蓮華、剣、カルトリ刀を、左第一手から第三手まで輪、宝石、ブラフマー(梵天)の首を持する。

以上の他に『サーダナマーラー』では具体的な図像の言及は無いものの、ヴィーナを奏でるサラスヴァティーを指してヴァジュラヴィーナサラスヴァティーと呼んでいる。
その一方で、今日、知られているインド密教におけるサラスヴァティーの多様な図像において彼女は必ずしも楽器ヴィーナを持物としていない点が大きな特徴である。とは言え、実際の当時の信仰において『サーダナマーラー』系のサラスヴァティーが、どの程度、支持されていたかは不明である。
又、後世の日本の弁才天信仰において弁才天はしばしば蛇を眷族としているが、ヒンドゥー教やインド密教のサラスヴァティーの図像において蛇を伴う例は見られない。しかしながら、インド密教の別の女性尊であるジャーングリー(穣虞梨童女)の場合、ヴィーナ(琵琶)を持し、更に蛇を伴う事から、日本の弁才天における蛇の要素は一説にはジャーングリー(穣虞梨童女)の要素が入ってきた為とも言われている。

(3)ネパール

ネパールでもサラスヴァティー信仰が盛んであるが、それらをヒンドゥー教神としてのサラスヴァティーなのか、仏教神としてのサラスヴァティーなのかを区別する事は困難の様である。

(4)チベット
度々、述べてきている様にインド密教の諸教法を受容してきたチベットにおいても様々な図像のサラスヴァティーが知られている。以下にそれらの主要なものを概観する。
又、チベット密教においてサラスヴァティーはしばしば文殊菩薩の妃と看做される事がある為、文殊菩薩とともに表現される事もあり、又、同時に文殊菩薩の化身とされる忿怒尊ヴァジュラバイラヴァの妃ヴァジュラヴェータリーはサラスヴァティーの化身と看做されている。

○シタヴィーナサラスヴァティー
 身色白色で一面二臂、ヴィーナを奏でている。


○ヴァジュラサラスヴァティー
 身色白色で一面二臂、右手に蓮華、左手に経典を持している。


○一面四臂像
 身色白色で一面四臂、左右第一手でヴィーナを持し、右第二手で数珠、左第二手で経典を持する。


○三面四臂像
 身色白色で、左右第一手でヴィーナを持し、右第二手で剣、左第二手で蓮華を持する。


○シタヴァジュラサラスヴァティー
 身色白色で三面六臂。右第一手から第三手まで剣、蓮華、カルトリ刀を、左第一手から第三手まで宝珠、輪、髑髏杯を持する。


○シャーキャシュリーバドラ流ラクタサラスヴァティー
 カシミール地方出身のインド密教の学匠シャーキャシュリーバドラが伝えたとされるサラスヴァティーの図像である。
 図像は身色赤色一面二臂で、若々しく16歳の少女の様であり、極めて美しく穏やかで微笑を浮かべ、その仕草は魅力的であると言う。そして、右手に宝珠を持し、左手に智慧の鏡を持すると言う。


○ラクタサラスヴァティー(ニンマ派系)
 主にニンマ派において伝えられてきたサラスヴァティーの図像である。身色赤色三眼の一面二臂で忿怒の相であり、右手に宝珠、左手に法螺貝を持する。



○クリシュナサラスヴァティー
 身色青色の一面二臂のサラスヴァティーで、夫である文殊菩薩とともに表されるか、抱かれている姿で表される事が多い。


○ヴァジュラサラスヴァティー(クリシュナヤマーリタントラ系)
 ヤマーンタカ(大威徳明王)の一種であるクリシュナヤマーリについて説く『クリシュナヤマーリタントラ』に登場するサラスヴァティー。
 三面六臂の身色赤色であり、面色は白、赤、青であり、逆髪の忿怒相である。右第一手から第三手まで蓮華、剣、カルトリ刀を、左第一手から第三手まで輪、宝石、髑髏杯を持する。
 


○オチェンバルマ
 オチェンバルマはサラスヴァティーの忿怒相と伝えられているチベット密教の守護神である。身色黒色の逆髪の忿怒相であり、一面二臂。右手は棍棒と屠殺用の棒を持し、左手は索とあらゆる病を納めた袋を持する。更に12人の眷族を伴っているが、眷族達は剣、三叉戟等の武器を持し、中には馬、狼、騾馬などに乗っている者もいる。