サラスヴァティー4 | 徒然草子

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7 仏教におけるサラスヴァティー信仰
(5)日本


(一)導入
 漢訳仏典においてサラスヴァティーは音写して薩囉娑嚩底などと表記され、又、意訳して弁才天、妙音天、大弁功徳天、大弁才天、大弁才天女等と称される。日本では弁才天という名が一般的に知られているが、後世、財宝神としての性格が強調される様になると、「才」を「財」と読み替えて、弁財天と表記する事も広まった。
 さて、日本のサラスヴァティーこと弁才天信仰は大きく以下の三つの系統に分類する事ができる。

①『金光明経』系弁才天
 『金光明経』所説の軍神としての弁才天

②二臂弁才天
 密教諸経典に登場する音楽神としての弁才天

③宇賀弁才天
 宇賀神と習合した財宝神としての弁才天

上記の内、歴史的に最も古い弁才天信仰の在り方は上記①であるが、後世、最も今日に至る日本の弁才天信仰の在り方に大きな影響を及ぼしているものが上記の③である。
本節では神仏習合思想とも複雑に関わり、極めて多様な展開を見せている③に関しては別述するとして、専ら①と②について触れる事にする。

(二)『金光明経』系弁才天

修験道の伝説によれば、日本における弁才天信仰の始まりは役行者が大峰山にて修行中に感得した事によると伝えられているが、史実としては中国や日本において護国経典として尊ばれた『金光明経』の伝来とともに奈良時代に始まったと見る方が当たっているであろう。
さて、弁才天に関して、『金光明経』の「大辯才天女品」において「聰明大智,巧妙言詞,博綜奇才,論議文飾,隨意成就」等とある様にインド以来の智慧、知識、弁説の神としての性格の他に、「增長福智諸功德,必定成就勿生疑」等という箇所から財宝神としての性格も僅かに伺う事ができ、又、「勇猛常行大精進。於軍陣處戰恒勝。」等という箇所から軍神としての性格も知る事ができる。
そして、その図像に関しても『金光明経』において憍陳如婆羅門の口を借りて弁才天を一面八臂の美しい女神としながらも、「各持弓箭刀槊斧,長杵鐵輪并罥索」と述べられ、様々な武器を持物として武装している事が知られ、その様相からも軍神としての性格が濃厚である。
かかる弁才天の在り方は、先述したヒンドゥー教シャークタ派系のサラスヴァティーであるマハーサラスヴァティーと類似しており、マハーサラスヴァティーも一面八臂にして諸々の武器を手にしてアスラ達を滅ぼすとされているから、恐らく、『金光明経』所説の八臂弁才天はマハーサラスヴァティーの姿の仏教における投影ではないかと推察し得る。

そして、後世、宇賀弁才天が大流行する以前において弁才天信仰としてはこちらの『金光明経』系の弁才天が一般的であった様であり、平安時代末期の図像集である『別尊雑記』の「弁才天」の図像の頁に「竹生島弁才天」と註された八臂の弁才天と「大弁才天 唐本」と書かれた一面三眼六臂の弁才天が描かれているが、これらの弁才天も『金光明経』系の弁才天からの派生と考えられる。
以上が『金光明経』系弁才天の概要であるが、『金光明経』における弁才天の位置づけが決して軽いものでは無いにも関わらず、平安時代前期以前の場合、『金光明経』系の弁才天信仰に関しては全体的に低調気味であり、奈良時代の作である東大寺法華堂の弁才天像はその貴重な造像例である。恐らく、智慧、知識等に関しては仏教尊である文殊、虚空蔵菩薩などが信仰を集め、福徳に関しては吉祥天、戦勝に関しては毘沙門天などの方が信仰を集めており、それらの祈願に応えるとされていた『金光明経』系弁才天が登場すべき場面が無かった事も一つの要因と推察される。
しかしながら、平安時代も時代が下ってゆくとともに現世利益を成就させてくれる新奇な尊格が求められる中で改めて弁才天も注目される様になり、先述の『別尊雑記』の例から伺える様に、平安時代末期には竹生島に祀られていた八臂の弁才天がその信仰を当時の人々から集めていた様子が知られるのである。

(三)二臂弁才天

二臂の弁才天は平安時代に入って密教経典や密教図像が続々と伝えられる中で伝わってきたものである。
『大日経疏』によると、弁才天は妙音楽天とも美音天とも称されているから、音楽神としての性格が濃厚である事が伺われ、又、現図胎蔵曼荼羅における弁才天も琵琶を奏でている姿で表されている。

今日、二臂の弁才天の図像としては琵琶を奏でている姿が一般的であるが、日本伝来当初は必ずしも一定してはいなかったらしい。

例えば、『別尊雑記』には弘法大師空海の高弟である智泉が伝えたとされる二臂の弁才天が所収されているが、こちらは琵琶では無く、西域起原のハープ状の楽器である箜篌を奏でている。

又、「胎蔵旧図様」の弁才天は琵琶を持するものの、左肩に担いでおり、「胎蔵図様」に至っては琵琶すら持していない。又、「醍醐寺本天部形図」の二臂像は蓮華と宝珠を持する特異な図像である。

かかる二臂弁才天は、当初、数多く存在する天部諸尊の一つとして、特段、目立つ存在では無かった様であるが、平安時代末期頃に俄かに音楽神として注目を集める様になり、鎌倉時代に入ると、琵琶を家芸としていた西園寺家が中心となって琵琶を奏でる二臂弁才天信仰が称揚される様になった。
かかる西園寺家が護持していた二臂の琵琶弾奏の弁才天像は平安時代末期の琵琶の名手藤原師長の念持仏であったとされ、又、鎌倉時代に入り、琵琶が楽器の最高位に位置づけられる様になった事情もあり、当該念持仏を護持していた琵琶の家である西園寺家を中心に二臂の琵琶弾奏の弁才天信仰が称揚される様になった。
そして、恐らくは上述の動きと連動する形で二臂の琵琶弾奏の弁才天が、鎌倉時代中期以降、日本各地に普及するとともに造像や祭祀も盛んに行われる様になり、別述する宇賀弁才天と並び、今日、日本で最も知られている弁才天の図像の一つになった。

又、二臂の琵琶弾奏の弁才天の図像の一般的普及とともに、その性格も本来的な音楽神という制約を離れて宇賀弁才天に求められるべき財宝神的な役割をも担う様になり、現在では弁才天と言えば、通常、琵琶を奏でる女神の図像が連想されるに至っている。