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【トンネルのむこうは・・】

前回紹介した『ちゃんと泣ける子に育てよう』では、次のような問題を掲げている。

三歳くらいになると、多くの子どもが「私うれしい」は言えるようになる。でも、「私、悲しい」といったネガティブ(で)不快な感情を言えるか・・は、個人差がある。

大学生になっても・・言えず、暴力をふるったり、暴言を吐いたり、いじわるやいやがらせをしたり、おなかが痛くなったり、ごはんを食べなくなったり、手首を・・切ったりする。

・・ネガティブな感情が社会化されることなく、感情を封印することにより適応して、「よい子」の姿を見せてきた子どもは、思春期に危機に陥ります。

今回はその教えをブリキなりに解釈し、「自分の気持ちを言葉にする力」について考察する。・・ただし、帯の「つらくなってしまうかも」が増幅されるかも。

試しに、自分が子どもに戻ったと想像してみる。・・

砂場で友だちと山を作り、両側からトンネルを掘る。・・穴が貫通し中で手を握り合い「アハハッ」となる。・・その手の感触やワクワクする気持ちを思い出しただろーか?

もう一度穴の中で手を握り合う。が、その相手がバケモノだったら?・・「ギャ~ッ」となり手を引っこ抜いて逃げる。・・そのキモチワル~い感触や寒けを感じただろーか?

今回のテーマは「子育て」だが、途中で「アダルトチルドレン」のテーマとつながる。・・その展開は「アハハッ」ではなく、「ギャ~ッ」となる。

しかも、なぜか「そのバケモノから手を離さないで~」となる?!・・

そんなバケモノ屋敷に入る前に、この帯(=大河原先生)がやさしくもきびしく声を掛けてくれている。と思える。

【言葉の覚え方】

なぜ子どもたちは、ネガティブな感情を言えないのか?・・を、赤ちゃんが言葉を覚える様子から探ってゆく。

まず「ものの名前」の覚え方は?・・

赤ちゃんが言葉を覚えていくとき、・・『もの』と『ものの名前』が一致することで、言葉を覚えていきます。

という。たとえば、
① 親子でイヌを見かける。
② 親が子に、「ワンワンだ、ワンワン可愛いねぇ~」と声を掛ける。
③ すると、子どもがイヌを指して、「ワンワン、ワンワン」と話し出す。
④ 親は「上手に言えたねぇ~♪、そうワンワンだねぇ~」と話し掛ける。
⑤ 子は嬉しそうに「ワンワン♪、ワンワン♪」と繰り返す。

ちなみに、ここで親の役割は2つある。①~③で「ものの名前」を教え、③~⑤で「行為の善し悪し」を教えている。(←今回は概ね前者に注目する。)

このとき赤ちゃんの中で「① イヌを見たという体験」「② ワンワンという名前」が一致し結びつけられる。なおAIでは、①を「入力信号」、②を「教師信号」と言う。またブリキは、便宜上これを次のように表記する。
・<ワンワン>~【イヌ(を見た体験や記憶)】

続いて「ポジティブな感情をあらわす言葉」の場合は?・・

早い話「ものの名前」と同じ。たとえば、
① 親子で一緒に楽しんでいる。
② 親が子に、「楽しいねぇ~」と声を掛ける。
③ すると、子も「たのしい、たのしい」と話し出す。

(④と⑤は省略)

このときも、赤ちゃんの中で次のように結びつけられる。
・<たのしい>~【ワクワク(を感じた体験や記憶)】

では、本題の「ネガティブな感情をあらわす言葉」の場合は、どーなるのか?・・

基本同じハズだが、たとえば、
① 子どもが悲しんでいる/怒っている。
④ そのとき親は子に「メソメソしないの#、やめて!、いいかげんにして!!、そんなの気にしないの」と声を掛ける。
⑤ すると、子どもは「・・・」。

要は②と③が無い。すなわち、親が「教師信号を与えていない」。すると 子どもは「何も連結できない」。だから 子どもたちは「ネガティブな感情を言葉にできない」。

しかも、④で そう感じたコト(=行為)が「否定されている」。だからカラダの中の感覚を アタマの中で消そうとする。つまり代わりに「我慢」を学んでいる。(←よい子ほど、そう感じた自分にダメ出しして 自己否定感を強める。←間違った認識と習慣。)

【ハンドラとは?】

ここに潜む問題点を明らかにするため、『ハンドラ』という概念を使って整理してみる。

『ハンドラ』とは、【人】が【対象物】に関わるための道具全般を指す。

たとえば、クルマの場合は「ハンドル(=ステアリングやドアノブ)」をはじめ、「アクセルやブレーキペダル、シフトレバー、計器類」等となる。また、人やモノの場合は「名前、顔、ID」等となる。(※補足1)

試しに、「顔」「名前」も分からない【誰か】に、何か働き掛けられるだろーか?

無理でしょ。・・手も足も出ない。逆にそ~いうモノを総称して「ハンドラ」と呼ぶわけだ。

このハンドラの役割に注目し、言葉を覚える様子を次のように書き直してみる。
・【人】~<ワンワン>~【イヌ】
・【人】~<たのしい>~【ワクワク感】

・【人】~</  />~【イライラ感】

すると、「言葉にできない」(=ハンドラが無い)のは、糸の切れた凧みたいに、アウトオブコントロールの状態だと分かる。だろう。

そして、親が子に「自分の気持ちを言葉にする力を与えないコト」が、まるで「クルマからハンドルやブレーキを取り上げている」ように思えてくる。

一方よい子たちは、そのクルマに乗って走り出す。人生という山あり谷ありの道を。・・

って、「子育て」じゃなくて、「サスペンス劇場」なんじゃね?・・

【とんでもない客】

そんな無茶苦茶なクルマに乗る子たちの姿が、映画『千と千尋の神隠し』(宮崎駿監督)で描かれている。(※補足2)

この作品に登場する【カオナシ】は「顔」も「名前」もよく分からない。・・つまり、ハンドラが無い。

【人】は、ハンドラが無い【対象物】と 関われない。(←自分自身でさえも。)

そして、そんな得体の知れない【対象物】を怖れ、なるべく遠ざけようとする。(←基本、正常な防衛反応と言える。)

すると、その【対象物】は、無視され、手当てされず、問題が悪化してゆく。・・やがて暴走し破綻してしまう。

(↑ハンドラの役割が分かっていれば、そんなの当たり前じゃん。と思える。)

【間違い探し】

では、なぜ 親たちは、わが子からハンドラを奪い 千尋(せんじん)の谷に突き落とすのか?

その理由(わけ)は、・・

(1) 自分たちがしてるコトの意味を分かってないから。・・(←「父よ、彼らを赦したまえ。彼らは自分たちが何をしているのか分かってないのです。」の祈りも虚しい。・・←「無知・無明」と言える。)

(2) 自分自身も そう躾けられてきたから。・・誤った認識のまま身についてしまっている。だから(パブロフの犬のように)、泣いているわが子を見ると反射的に「泣くな!」と言ってしまう。(←「無意識・条件反射・習慣・癖」と言える。)

(3) 大切なわが子を、ネガティブなコトから遠ざけたいと願っているから。・・現代社会では、都合良さ(=合理性や利便性)を求め、悪さ(=ネガティブなコト)を排除しようとする。(←「近代主義・世界の合理化・モダニズム・無痛文明論」と言える。)

ここに潜む問題点を明らかにするため、再び次のように書き直してみる。
(1)【自分】~</  />~【責任ある子育て】
(2)【家族】~</  />~【ネガティブな感情】
(3)【人類】~</  />~【ネガティブな問題】

すると、どれもハンドラが無く、【対象物】と関わろうとしてないとハッキリ分かる。これらは、以前触れた通り、エゴで・未熟で・本物じゃない。

なお、どれも同じ構造に陥っているのは偶然ではなく、この社会に通底する欠陥だろう。

この未熟な社会システムによって、間違った認識が都合よく正当化(=目隠し)され、皆闇雲に便乗し、暴走している。(←まるでネズミ講。・・このツケは、後進&弱者たち、つまりカオナシや子どもたちへ。)

無論、これは子どもたちに伝えたいスキルじゃないでしょ?

【黄色いレンガ道を歩む】

では、子どもたちのために、自分たちのために、この世界のために、どんなスキルが必要なのか?

それを教えてくれるのがこの本だと言いたい。・・つまり、そのスキルとは「ネガティブな感情を言葉にする力」であり、ブリキの解釈では「ハンドラを掴むコト」である。となる。

今われわれの前後に次のような2つの道がある。・・
「ディスファンクショナルワールド」←「ハンドリングしない子育て」←【われわれ】→「ハンドリングする子育て」→「パーフェクトワールド」

どっちに進むか?・・は、子どもが悲しんでいるとき、悔しがっているとき、怒っているときなど、ネガティブな感情を抱いたときに毎回問われるコトになる。その度に、

しっかりと子どもの気持ちに寄り添い、適切な言葉(=ハンドラ)を伝え、一緒にその課題の意味や解決策を探り、せめてイヤな感情が収まるまでぎゅっと抱きしめる。・・

そんな風にゆっくりあせらず、ただしっかりと、みんなで泣きあったり笑いあったりしながら、この黄色いレンガ道を歩めたらいいなと思う。・・・<つづく

【補足1:古(いにしえ)のハンドルネーム】

昔の人たちは、名乗るときに「字(あざな)」「諱(いみな)」「官職名」などを使っていた。

それは「あだ名」や「愛称」の類と思われがちだが、そーではなく「本名」を隠す道具だった。・・

つまり、匿名性の高いハンドラ(←現代のSNSの「ハンドルネーム」みたいなモノ。)と言える。・・(←当時の文字の発明が、現代のインターネットと同様だったと想うと面白い。)

その時代、もし敵に実名を知られれば、カラダを操られ命まで奪われると怖れられていた?!・・

それほどまでに、名前(=本名)というハンドラに力があると信じられていたのだろう。

ちなみに、古い家系図などで妻や娘たちが「女」としか書かれていないコトがある。・・

それはひどい差別だと思われがちだが、「ハンドラの力」に気づくと、むしろ大切に守られていた証し(←SNSで子らの顔写真に付す★印みたいなモノ。)に見えてこない?

【補足2:やんやー、やんやー】

『千と千尋の神隠し』は、ハンドラに注目して観るとオモシロイ。

たとえば、湯婆婆は、相手から名前を奪って支配しようとする。・・って、これはも~イイでしょ。

ブリキのお気に入りは、大湯に浸かるオクサレさまに、千が「トゲみたいのが刺さってる」と気づく場面。で、彼女が掴むのが まさに(自転車の)「ハンドル!」・・(←って、マジで鳥肌立つ)。

その「ハンドル」をしっかりと掴み、湯屋一同で引く。やがて問題が解決し、やんやー、やんやーとなる。・・(←これこそが「感情の社会化」の真価であり、「学ぶべき社会スキル」だと思う。)

まだまだある。この町の人々の登場シーンは皆恐ろしい。でも千は、ちゃんと彼(女)らに会いに行く。たとえ怖くても、独りになっても、帰りの切符が無くても。その姿がハンドラをしっかりと握る覚悟を示している。

中でも、摂食障害ぎみに暴走したカオナシの処へ行く場面はトラウマ級に怖い。・・彼(?)を鎮められたのは「苦団子の力」・・ではなく、それは両親を救うという千にとって最も大切なモノの象徴(=ハクのときと同様、愛?)で、「それをも差し出す覚悟」で臨んだからこそ救えたのでは?

千が真摯に向き合ったバケモノや恐ろしい世界は、次々と優しい人物や穏やかな光景に変わってゆく。

それと対照的なのが、親たちの姿。娘の話しに耳を傾けてなかったり、タダ食いしたりして無責任さを示している。

最後に映る髪留めに、あの不思議な町の人々宮崎駿監督らが紡いだ糸が編み込まれている。・・それがトンネルから出てきても消えずにつながっている。・・そのハンドラに気づき、ちゃんと掴んでね。と言っているように思える。