森にキノコがある、とシルヴィアは言った。
 今朝食べたのはきっとこの庭に生えていたキノコだろうと、ウィリアムは自分でも探しに行った。

 ずっと部屋で読書にふけるより、たまには散歩するのもいい。
 シルヴィアの手料理は本当においしかったし、また作ってもらうにはキノコが必要だ。

 足元を見ながら木漏れ日の中を歩く。
 今朝はまともな朝食がとれたので妙な空腹感はない。
 懐かしいキノコ取りというのも楽しい。
 あのときは確か……。
(クラウスが、一緒だった……)

 ばあやの目を盗んで家を出た。
 少年の待つ木の下まで賢明に走った。


 クーラ
 またせて、ごめんね

 いいですよ、と少年は言って笑う。
 さぁ行きましょうと、幼い子どもの手を取り、森のような庭を歩きだす。

 ずっと怖かった森も、彼と一緒なら怖くなかった。
 泣いて歩けなくなった自分をおんぶしてくれた見知らぬ少年は、最初に会ったときからずっと優しいまま。


 わたしは、大きくなったら騎士になるから
 そうしたら、わたしの短剣を受け取ってください

 なぁぜ、と幼い子どもは訊ねる。

 その意味を教えてくれたのは婆やだった。
 少年は耳を真っ赤にして、教えてくれなかった。



 ふふ、と笑い声が漏れる。

 幸せで、くすぐったい思い出。
 無知な自分はどれほど彼を困らせたことだろう。
 手をつなぐときの頬の赤さ、抱っこするときの真剣な眼差しは忘れられない。

 ウィリアムの足が止まる。
(家が……)

 光の差し込む、小さな空間。
 森に抱かれる崩れかけの小屋があった。

 打ち捨てられてずいぶん経つのか、屋根に青い草が生えている。
 家の周囲の空き地は踏むものもなく草が立ち、王の執務室の絨毯のように深い。

 ウィリアムは無意識にきびすを返した。
 何も見なかったかのように、一度も振り返らず城に戻った。



 過去は過去。
 思い出は箱に詰めて物置にしまい込む。

 もう子どもではない。
 無邪気なままではいられない。

 もうかつての幼い子どもはいない。
 少年だった人はいない。
 もう彼は……


 ───……殿下


 思いつめた表情の青年。

 外套がいつものものと違う。
 いつものよりも暑くて、フードが付いている。
 長靴もなめした革を履いていて、まるで旅人のようだ。


 殿下


 どうした? と訊ねると、青年は思いつめた顔を俯けたがすぐに上げ、まっすぐな眼差しを向けてきた。
 磨かれた黒真珠のような瞳をまっすぐに。


 しばらく、お暇いたします、殿下


 どこに、行くな、と差し出した手を取られる。
 ひざまづいた彼にしがみつく。

 他にだれもいない夜の寝室はあまりにも暗くて、今にも青年を飲み込んでしまいそうだった。
 唯一の心の支えを失いそうな錯覚に、全身が震えだす。


 できるだけ早く戻るようにいたします
 それまで、どうぞ、ご辛抱を


 いやだ、と首を振る。
 小さい頃のように駄々をこねる。
 涙は知らずに頬を滑り落ち、青年の外套に吸い込まれた。
 行かないで、としがみつく。

 彼に会いたくて戻ってきたのに。
 奇異の眼差しを賢明に無視し続けて、国王の謁見中も王子としての姿勢を保って、何を言われても泣かなかったのに。

 太い腕が背中に回される。
 大きな手が髪を撫でる。
 それだけで泣いてしまう。
 嬉しくて。
 でも今は悲しみのほうが大きくて。

 そっと体を離されて、ぬれたままの瞳で青年を見上げる。
 彼はいつものような困った顔をしておらず、真剣な表情のまま左手を取った。
 そっと唇が寄せられる。

 なぜ左手に、と首をかしげた途端、痛みが走る。
 噛まれたのだ。
 青年が顔を避けると、左手の真ん中の指の付け根のあたりに歯形がついていた。


 今は、これだけを……───


 なぁぜ……?

 どうして、クラウス?

 ……殿下───





「王子様?」
 ぼんやりとした輪郭が視界に迫った。
「…………あ」
 ウィリアムの目の前には心配げな表情のシルヴィアがいた。
 何度も声をかけたらしい。
「あ……ご、す、すまない。
 ぼうっとしていた」

「聞きたいことがあるの」
「何だ?」
「騎士や兵士は全員、国王について行ったの?」
「いいや。
 たしか、側近の一師団だけだ。
 あとは……領地や故郷に戻って、散り散りになったと聞く」

「あなたをここに置いていくのに、反対した人はいないの?」
 ウィリアムは胸を押さえた。
 なんてことを聞いてくるのだろう。
「……いた」
「その人たちも帰ったの?」
「……あぁ。そう聞く」

「騎士の誓いを立てたのに、王の側を離れたの?」
「それが王命なら」
 ふーん、と少女がうなずいた。

「わたしね、策略とか戦術とかわからないの」
「ほぉ!」
 ウィリアムは笑った。
「わたしもだ」
「慣れた人がいるの」
「…………」
「頼んではいけないかしら?」
「見返りは保障できない。
 国王さえいない首都を守ろうなんて無謀だ」

「…………。
 あなたも……あなたも国を、見捨てるの?」
「なに?」

「犯された国はたやすく取り戻せない。
 蹂躙された土地は痩せ、川は濁るわ。
 愛し尽くされた国は、簡単には馴らせないの」
「やめろ。
 占い師のようなことを言うのはやめろ!」
「占いじゃないわ。
 見てきたことを言ってるの。

 どんな平和な国でも、戦いと無関係ではいられない。
 いかに平穏を、いかに富を、いかに贅沢を……求めるものはみんな一緒。
 どんな大義名分を振りかざしても、結局自分の欲のために戦場を作り出すのよ」

 少女の目の奥にうごめく炎が産まれた。
 怒りと屈辱の色が絡み合い、ウィリアムを困惑させる。

 少女の怒りの理由がわからない。
 王命を受けたウィリアムの身を案じるのは何もシルヴィアだけではなかった。
 多くの同情を送られた。
 だが怒りを向けたのは、彼女だけだ。

「なぜ……? どうしておまえが怒らなければならない? わたしはおまえを巻き込むつもりはないんだ。
 今からでも逃げるのに遅くはない」
「違う!」
 少女が激しくかぶりを振る。
 柔らかな髪が宙で振り回される。

 少女は両手で顔を覆った。
 震える声で、賢明に訴える。
 一緒に逃げて、と。
「だめだ。
 わたしは、ここに残る」

「わからず屋! 命を粗末にする人なんて、犠牲にもならないわ!」
「…………!」

 言い捨てて、少女は部屋を出て行った。
 興奮のあまり閉め忘れられた扉が虚しく揺れる。

「粗末になんて……」
 していないはずなのに───確かに気持ちが揺れた。
 突き刺されたような痛みが胸を襲った。

 遠い海を眺める。
 午後の陽射しを目一杯浴びようと広がる海は別宅にいたときよりも小さい。

 潮騒を子守唄に、猟師たちの掛け声を目覚ましの合図にしていた、たった数ヶ月が懐かしい。
 腕を重たくする腕輪も、耳が引きちぎれそうな耳飾りも要らない。
 きれいに均された髪がいつ乱れるかなんて気にする必要はなかった。

 服一枚で駆け跳ねた幼い頃。
 まだまだ子どもで、婆やを困らせてばかりだった、静かで柔らかなとき。



 あの日、自分はキノコを探しに森にいた。

 玉子を全部取り出して籠を用意し、おやつに焼き菓子を三つ、ポケットに入れた。

 まだそのころ、家の周囲を囲む森が庭の一部だとは知らなかった。
 婆やと二人で住む家と取り囲む森のすべてが自分の世界だった。

 迷ったのだと気づくのに、どれくらいかかっただろう。
 延々と続く木々の乱立。
 遠くを見つめても緑が濃くなるばかりで目的の地は見えそうにない。
 歩いても歩いても家にすらたどり着けない。
 幼い自分はいつしか座り込み、不安で泣き出した。


 どうしたの?
 お家に帰れないの?


 送っていくよ、と差し出された手に縋りついた。

 家の周辺で髪を振り乱した婆やが二人を見つけ、足をもつれさせながら駆け寄ってきた。
 いつもリンゴのように赤い頬は真っ白で、唇は菫色の花びらのような色だった。
 ぷっくり突き出た頬は濡れ、それを擦り付けるように幼い自分に縋りついてきた。

 胸が張り裂けそうだった、と婆やは幼い主を抱きしめ、大声で泣き出した。
 安堵と、婆やを泣かせてしまった申し訳なさに、ただ泣くしかできなかった。

 婆やは少年に向かって深々と頭を下げた。
 名前を聞くと、クラウスと名乗った。
 子爵子息だった。

 三日間はおとなくしていたが、我慢できずに森に出かけた。
 彼も探していたらしく、再会は簡単だった。


 よかった。
 また、お会いできて
 父からちゃんと許可をもらいました
 見つかっても怒られませんよ


 婆やには怒られるかもしれないがかまわなかった。
 遊び仲間ができたことが嬉しかった。
 もう森で怖い思いをしなくていいのだ。


 殿下
 ずっとおそばにいます

 ずっと

──────……


 少年の姿が揺らめいた。
 夏の海上の蜃気楼のように。

 揺らめいて、細く伸び上がり……。


 殿下
 お約束します


 大人の男性の手が伸びた。
 ウィリアムの肩にかかったショールの端をそっと手に取り、跪いたクラウスはそれに口づけた。


 ずっと、あなたのおそばおります


 けれど彼は、短剣はくれなかった。

祈り 届けと
願い 叶えと

聞き届け給う


 聞き慣れない声で目が覚めた。

 清潔な敷布から身を起こす。
 朝の清らかな陽の射す室内を、首をゆっくり巡らしながら見渡す。

 しばらく待ってみたが、主を起こしに来る侍女が扉を叩こうとする気配がない。
 もう誰もいないのだと思い出す。

 羽織を着て、寝台から降りる。
 毎日聞こえてきていたはずの侍女たちの声が聞こえない。
 乗馬の途中で必ずくるはずの友人も、いつまで待ってもこない。
 彼がいつも持ってきてくれる花を朝食の席に飾りたいのに。

 来ないのだと、実感した。

 小鳥のさえずる声があちこちから聞こえてくるばかりの庭。
 澄み渡り、ただ広がり続けるだけの空と、流されるままの雲。
 風は通り過ぎるばかりで留まらず、露台の足元に咲く花もぽつりぽつりとあるだけ。

 顔が熱くなった。
 昇っていく太陽に温められたせいではない。
 証拠に、一番熱い目から涙が零れた。

 両手で顔を隠し、露台にしゃがみ込む。
 声は出なかった。
 何度もしゃくりあげて喉が痛くなった。

 泣くたび痛む喉を心配してくれた人を思い出す。
 目を潤ませると渋面になり、涙が流れるとおろおろするのだ。
 もう二度と、彼の不器用な慰めも受けられない。

「……クラウス……」
「お友だち?」
 はっとしてウィリアムは顔を上げた。
 声のするように視線を向けると、両手で籠を抱えた少女が露台の下にいた。

「おはよう、王子様。
 朝ご飯、食べるでしょ? これから作るわ。
 あ、そうだ。何か食べれないものある?
 って言っても、食材が限られているから、わがままは言えないけど」
「あ、ない、と思う。
 ……生臭いのは苦手だが」

 了解、と少女は言い置いて、厨房の勝手口のほうへと歩いていった。
 昨日のうちに王宮内の二階までは見終わっているから、迷うことはないだろう。

 さてどうしようかと、ウィリアムは暗い気持ちになる。
 少女はいっこうに帰る気配がない。
 ばかりか、ウィリアムも連れて行こうと考えているらしい。
 昨夜、ウィリアムの寝室の敷布を替えながら、少女は明るく語ったものだ。

 困ったのはウィリアムである。
 途中まで行って姿を消そうにも、王命があるから迂闊に動けない。
 人がいれば丁重に連れて行ってもらえるだろうが、残念ながら誰もいない。
 説得はするだけ無駄なようだし。

 困ったとうなだれていると、少女の呼ぶ声がした。
「ねぇ、王子様ったら!」
「あ。え、な、何だ?」
 少女はすでにウィリアムの部屋で朝食の準備をしていた。
 ずいぶん長く熟考していたらしい。

「早く座って」
 言われるとおり、ウィリアムはいつもの机と対の椅子に着席した。
 パンとスープ、茹でた野菜。
 いつもは一人で座る机だから二人分は少々狭いが、その分ご馳走がたくさんあるように見える。

「パンは簡単に作れるのか?」
「小麦粉はたくさんあったわ。
 砂糖もまだあるから、お菓子もできるわよ。
 でもお肉は無理ね。鶏がいたけど、わたし捌けないもの。
 野菜ばっかりになるけどね、森からキノコは採れたの」

 献立としてはいつもの朝食からすれば格段に質素だ。
 だが一人になってから初めて、まともな食事にありつけるのは確か。

「さ。食べましょ」
「あ、あぁ、そうだな。
 いただこう」
 誰かと朝食をとるのはどれだけぶりだろうかと、ウィリアムは思った。
 誰かと向かいあうことなんて滅多になかったから。

 一時、城を離れ別宅に移されたときがあった。
 静かで、穏やかな数ヶ月だった。

 朝起きて、朝食をとって、散歩に出かけた。
 庭で昼寝をしたり、本を読んだ。
 天気のよい日は海辺まで乗馬に出かけ、雨の日は部屋の中で侍女たちのおしゃべりに付き合った。
 夕焼けを見ながら夕食をとり、静かな夜に眠る───。

 毎日が同じことの繰り返し。
 けれど小さな発見と、それ以前の騒々しさから逃れられた時間はとても貴重で、ありがたかった。
 宮廷にいたときと変わらず、友人は花を届けに来てくれたし。

 幸せな時間は短く、瞬きでしかなかった。

 別宅に移って三月もしないうちに呼び戻された。
 着替える間もなく王の執務室に案内され、王命を受けた。


 王宮に残り、敵を足止めせよ
 これは王命である

 ここまで育ててやったのだから


 シュワルド国王には恩がある。
 返すべきだろう。

 この身をもって、国とともに落ちるのもいい。
 この身を生み、この容姿を育んでくれた土地と最期まで一緒にいられる───そう思うと、心はどこまでも穏やかになる。

 このままどこか遠くへいけるのなら、たとえそれが敵中であろうと幸せだろう。


あなたが幸せならいいんだ


「…………」
 左手が視界にはいった。
 左手が近づいてくる。
 どんどん大きくなる。
 指先が鼻の先までたどり着いた。
 滑るように下降する。
 指の付け根で止まる。

 もう、あのときの跡はない。



「王子様?」
 呼ばれて、はっとする。
「大丈夫?」

 視界から左手がなくなっていた。
 ウィリアムは背筋を伸ばして座ったままで、両手はお行儀よく膝の上に置いている。

 机の上にはお茶が湯気を立てる茶器があった。
 いつのまにか食事を終えていたらしい。
「王子様?」
「大丈夫だ。
 少し、眩暈がしただけだ」
 まぁ、と少女が驚く。

「今ごはん食べたのに? だめね、王子様。
 もっとたくさん食べないと」
「は……?」

「腕なんてわたしより細いんじゃない? それって許せないわ!」
 ずい、と差し出される腕に沿って、ウィリアムも自分の腕を差し出した。
 細い。
 痩せたかどうかはわからないが、健康的な少女の腕からすれば骨の浮き出しようが恐ろしい。

「今日はだいぶいいけど、昨日は顔も真っ青だったのよ。
 ちゃんと食べてぐっすり寝なきゃ、体にも悪いわ。
 わたしが王子様みたいになったら、兄はうんと心配するわ」

「……いや、だが、わたしは、もう、心配してくれるものなんて……」
「あら。
 わたしは心配するわ。
 わたしじゃ役不足かしら?」
「え?」

「権力者ってね、よくわからないことをしたがるのよ。
 意味もないことをいかにも重大だって顔して言うの」

 少女は急に変わった。
 いたずらっぽい笑みをして、机に肘をついた手にあごを乗せる。
「何のことだ?」

「なぜ王様は、三番目といえどお子のあなたをおいて逃げたのかしら?
 兄君は亡くなって、あなたが王太子のはずよ」
「やめろ。
 陛下への侮辱はよせ」

「違う? 違わないでしょ。
 全部とはいかないだろうけど、金目のものは持ち出して、立派な馬車に詰め込んで。
 食料ももてるだけ持って行ったみたいね。
 馬も一頭もいないわ。

 もしわたしが国王で、自分の子を一人置いていくとしたら、せめて護衛を一人と、身の回りのことをしてくれる者を一人つけるわ。
 それと充分な食料ね」

「人は皆、わたしが引き取るように言った」
「最後に残っていたのは、剣を持つような人たちじゃなかったでしょ?」
「ここにいても、無駄に命を落とすだけだ」
 少女が眉を跳ね上げる。

「あなたの命は無駄ではないの?
 王族としてここで死んで、あるいは捕らわれて……どちらにしても屈辱を受けるわ。
 王族として、人として。

 あなたの心は鋼でできているのかしら?
 それともすべてを包み込んでしまう空のような色をしているの?
 自分の命の重さがどれくらあるのか知らないの?」

「………………」
 ウィリアムは言葉に詰まった。
 少女の雄弁な言葉に驚き、その声の強さに戸惑った。
 一介の平民とは思えないほど、目の前の人は威厳を含んでいる。

「……おまえは、だれだ?」
「え?」
「クラウスの知り合いか?」
 何度も連れ出そうとしてくれた彼の代理人だろうか……いいや、とウィリアムは首を振る。
「……いや。まさか」

 ふぅ、と少女がため息をつく。
 椅子の背もたれにもたれ、ウィリアムに注がれたままだった視線はやっと外した。
 ウィリアムは解放された。

「ねぇ。
 そのクラウスって人、だれ?」
「……え」
「朝も言ってたわね」
「彼は……友人だ。
 幼なじみなんだ」
「…………」

「花を、その……毎朝、花を届けてくれたんだ。
 別宅に移ったときも、毎朝来てくれたんだ。
 ……それだけだ」
「…………」
 ふーん、と少女。
「それだけ、ね」


 それだけで、いいんです


 ツキン、と胸が痛んだ。
 両手を当ててみた。
 治まらない。
 また、ツキンと痛む。
 ツキン、ツキンと、鼓動のように胸を打つ。


 ……あなたが幸せなら


 胸を押さえる手に力が入る。

 それに応えるとき、ときどきだけれど勇気がいった。
 応えたとき胸が痛んだ。
 ツキン、と。


 わたしの───……


 一度だけ、囁かれたことがある。
 耳元で。
 はしたないと思った。

 王より謹慎を言いつけられて落ち込んでいたときだった。
 喧騒から外れて静かに暮らしていたとき。

 別宅に移って最初の朝、露台から庭を見て驚いた。
 彼がそれまでと変わらず騎乗した姿で現れた。
 手に花を持って、それを差し出した。


 おはようございます


 声が出なかった。
 喉が震えて。

 崩れそうな足を賢明に突っ張り、差し出された花を受け取った。
 震える手を引き寄せ、その香りを楽しんだ。
 高揚した。
 香りにではなく、彼の変わらない姿に。

 嬉しかった。


 ありがとう、クラウス殿


 彼が初めて近づいた。
 互いの手を伸ばしてやっと届く距離にしてそれまで来なかったのに。

 ドキドキした。
 朝の白い光のなかで自分の頬が赤くなるのがわかった。
 胸に抱いた花を支えにして、逃げまいとするだけで精一杯だった。

 彼は馬の上から手を伸ばし、まだ櫛を通してもいない栗色の髪を撫でた。

 触れられたのは髪だけなのに、その手の温もりが全身に伝わるようで、ドキンと胸が打たれた。
 耳がジンと痛くなった。

 熱い。


 クーラ……


 髪が引っ張られた。
 体が自然と前に傾く。
 彼が近づいた。

 ドキン、と胸が鳴った。
 彼の目を見てドキンとなり、彼の鼻を見てドキンとなり、彼が近づいているのだとしると胸を打つ鼓動はいっそう早まった。
 唇が微かに震えた。

 目を閉じた。
 暖かな吐息が頬をかすめた。

 あごを引き寄せるのは大きな指。
 吐息は耳元で大きくなった。


 わたしの───……


 一度だけ、囁かれた。

 美しい魔導士の治療を受けている間、彼はボーっとしていた。
 そのあまりの美しさに口が半開きになっていることにも気づかなかった。よだれがあごを伝ってやっと気づいた。

「大きなたんこぶ……」
 任務中にケガをして、それを隠していたら先輩に殴られた頭が痛い。ケガよりそちらが痛む。
「先輩ってぜんぜん手加減ないんスよ!」
 くすくす、と美しい魔導士は笑った。笑うとなお美しいと彼は見惚れた。

「ゴロ師はあなたのために言ったのよ。
 ケガの痛みがもとで任務に支障をきたすかもしれないし、最悪、命を失うことだってあるわ。
 あなたたちの任務には忍耐が必要だけど、我慢強さや見栄は必要ではないの」
「……はい。すみません」
「それはゴロ師に言ってね」
 美しい魔導士は頭をなでてくれた。
 どうやら子ども扱いのようだ。

 治療が済むと美しい魔導士は部屋を出ていき、かわりに先輩が入ってきた。
「生きていたか?」
「ホレ死にそうです」
「外で死ね」
「…………」
 先輩は限りなく冷たい。
 先輩は彼の師匠の兄弟弟子にあたり、いうなれば伯父だ。
 なのにちっとも優しくない。



 まったく修行をつけてくれない師匠のせいで導師をわたり歩いていた彼にとって、大魔導師直属の肩書きを持つ先輩は輝いて見えた。
 なんであのバカ師匠の兄弟にこんな人がいるのだろうかと、驚いたものだ。
 世の中って不思議だ。

 憧れついでに見習い直師までたどり着いたって言うのに、この扱い。
 見習い試験が終わったら準直師として候補期間がある。
 やっていけるだろうか。
 ちゃんと受かるだろうか……。
 若いうちに悩むとハゲるって本当だろうか……。
 ハゲるくらいならザンティ導師やイサみたいにつるっつるに剃ってやる!

「先輩! オレがんばります!」
「死なないていどにな」
「死なないていどにガンバったら、現大師に会えますか!?」
「無理だ」
 即答だった。
 口数の少ない先輩ならではの簡潔で愛想の欠片もない返答だった。
 涙が出そうだ。

「直師だからといって、現大師は簡単にお会いにならない。
 セサ直師くらいになれば、ご報告にあがらせていただけるがな」
「そ、それって、どれくらいかかるんスか?」
「どれくらいと言うと?」
「時間とか、成績とか」
 先輩は少しだけ考えた。
「ご報告に上がるセサ直師でいえば、補佐から数えて約二十年だと聞く。そのあいだに三年ほどの休暇があったが」
「に、にじゅう!?」
 二十年も同じことしてたんだあの人!

「わたしたちの師匠……おまえの祖父師匠にあたる方のように、補佐の期間が十年に満たない人や、見習いどころか補佐まで飛んで役目に就いた方でないと、現大師にお会いすることは難しい」
「そ、そんな人いるんスか!?」
「……話だけは聞く」
「だれ!? 生きてんの!?」
 ごす、と頭を殴られた。
「痛い!」
「……ご存命だ。引退されてはいるが」
「引退!? 隠居してんの!? どこに!?」
 先輩は黙り込んだ。

 こ、これは!
 居場所を知っている。
 確実にやつはクロだ!



 先輩の胸倉を掴み、目を覗き込む。
 真っ黒な目は白いところが少なくて犬のようだ。……獰猛な。
「教えてください!」
「イヤだ」
「なんで!?」
「ご迷惑がかかる」
「迷惑? 誰が? なんで?」
「おまえは態度がでかくて生意気で、礼節に欠け、言動がおかしい。相手にご迷惑がかかる」
 なんて失礼な!

「俺だってやるときはやります!」
「無理だ」
「なんで? 何が無理で何がおかしいんですか!?」
「すべて」
「……は?」
「おまえのすべてがおかしい」
「!」

 ショーック!!

「せっ、先輩だっておかしいじゃないスか!」
「どこが?」
「犬みたいな目!!」



 そのとき彼は、まだ知らなかった。
 組織一の謎とされる師匠を持ちながら、まったく持って彼は知識不足だった。
 師匠の兄弟弟子には、言ってはいけない言葉があるということを。

「……っ…………!」
 無言で目一杯殴られた彼はうめき声も出ず、床に突っ伏した。
「このクソガキ!」
 呪われるような低音の罵りは、幸運にも彼には聞こえなかった。





 大魔導師直属の魔導士を直師という。
 その見習い期間は約五年。
 それを、一年で見切られた男がいる。

 その男は、毎日先輩に殴られるため、たんこぶが絶えなかった。そのせいでいつもたんこぶを作っていた。
 だから周囲は彼のことを『瘤のテテ』と呼んで笑っていた。

 無情にも、彼の大先輩『たんこぶラスア』と似たような呼び名だった……。
 という事実は、騒ぎを起こさぬよう、先輩は隠し続けた。





 殴られて気絶した彼は、任務の疲れもあってそのまますやすやと眠った。
 親切にも寝台まで運んでくれた先輩が、その足で彼の見習い失格の報告に向かうなんて、まだ知らない……。