祈り 届けと
願い 叶えと

聞き届け給う


 聞き慣れない声で目が覚めた。

 清潔な敷布から身を起こす。
 朝の清らかな陽の射す室内を、首をゆっくり巡らしながら見渡す。

 しばらく待ってみたが、主を起こしに来る侍女が扉を叩こうとする気配がない。
 もう誰もいないのだと思い出す。

 羽織を着て、寝台から降りる。
 毎日聞こえてきていたはずの侍女たちの声が聞こえない。
 乗馬の途中で必ずくるはずの友人も、いつまで待ってもこない。
 彼がいつも持ってきてくれる花を朝食の席に飾りたいのに。

 来ないのだと、実感した。

 小鳥のさえずる声があちこちから聞こえてくるばかりの庭。
 澄み渡り、ただ広がり続けるだけの空と、流されるままの雲。
 風は通り過ぎるばかりで留まらず、露台の足元に咲く花もぽつりぽつりとあるだけ。

 顔が熱くなった。
 昇っていく太陽に温められたせいではない。
 証拠に、一番熱い目から涙が零れた。

 両手で顔を隠し、露台にしゃがみ込む。
 声は出なかった。
 何度もしゃくりあげて喉が痛くなった。

 泣くたび痛む喉を心配してくれた人を思い出す。
 目を潤ませると渋面になり、涙が流れるとおろおろするのだ。
 もう二度と、彼の不器用な慰めも受けられない。

「……クラウス……」
「お友だち?」
 はっとしてウィリアムは顔を上げた。
 声のするように視線を向けると、両手で籠を抱えた少女が露台の下にいた。

「おはよう、王子様。
 朝ご飯、食べるでしょ? これから作るわ。
 あ、そうだ。何か食べれないものある?
 って言っても、食材が限られているから、わがままは言えないけど」
「あ、ない、と思う。
 ……生臭いのは苦手だが」

 了解、と少女は言い置いて、厨房の勝手口のほうへと歩いていった。
 昨日のうちに王宮内の二階までは見終わっているから、迷うことはないだろう。

 さてどうしようかと、ウィリアムは暗い気持ちになる。
 少女はいっこうに帰る気配がない。
 ばかりか、ウィリアムも連れて行こうと考えているらしい。
 昨夜、ウィリアムの寝室の敷布を替えながら、少女は明るく語ったものだ。

 困ったのはウィリアムである。
 途中まで行って姿を消そうにも、王命があるから迂闊に動けない。
 人がいれば丁重に連れて行ってもらえるだろうが、残念ながら誰もいない。
 説得はするだけ無駄なようだし。

 困ったとうなだれていると、少女の呼ぶ声がした。
「ねぇ、王子様ったら!」
「あ。え、な、何だ?」
 少女はすでにウィリアムの部屋で朝食の準備をしていた。
 ずいぶん長く熟考していたらしい。

「早く座って」
 言われるとおり、ウィリアムはいつもの机と対の椅子に着席した。
 パンとスープ、茹でた野菜。
 いつもは一人で座る机だから二人分は少々狭いが、その分ご馳走がたくさんあるように見える。

「パンは簡単に作れるのか?」
「小麦粉はたくさんあったわ。
 砂糖もまだあるから、お菓子もできるわよ。
 でもお肉は無理ね。鶏がいたけど、わたし捌けないもの。
 野菜ばっかりになるけどね、森からキノコは採れたの」

 献立としてはいつもの朝食からすれば格段に質素だ。
 だが一人になってから初めて、まともな食事にありつけるのは確か。

「さ。食べましょ」
「あ、あぁ、そうだな。
 いただこう」
 誰かと朝食をとるのはどれだけぶりだろうかと、ウィリアムは思った。
 誰かと向かいあうことなんて滅多になかったから。

 一時、城を離れ別宅に移されたときがあった。
 静かで、穏やかな数ヶ月だった。

 朝起きて、朝食をとって、散歩に出かけた。
 庭で昼寝をしたり、本を読んだ。
 天気のよい日は海辺まで乗馬に出かけ、雨の日は部屋の中で侍女たちのおしゃべりに付き合った。
 夕焼けを見ながら夕食をとり、静かな夜に眠る───。

 毎日が同じことの繰り返し。
 けれど小さな発見と、それ以前の騒々しさから逃れられた時間はとても貴重で、ありがたかった。
 宮廷にいたときと変わらず、友人は花を届けに来てくれたし。

 幸せな時間は短く、瞬きでしかなかった。

 別宅に移って三月もしないうちに呼び戻された。
 着替える間もなく王の執務室に案内され、王命を受けた。


 王宮に残り、敵を足止めせよ
 これは王命である

 ここまで育ててやったのだから


 シュワルド国王には恩がある。
 返すべきだろう。

 この身をもって、国とともに落ちるのもいい。
 この身を生み、この容姿を育んでくれた土地と最期まで一緒にいられる───そう思うと、心はどこまでも穏やかになる。

 このままどこか遠くへいけるのなら、たとえそれが敵中であろうと幸せだろう。


あなたが幸せならいいんだ


「…………」
 左手が視界にはいった。
 左手が近づいてくる。
 どんどん大きくなる。
 指先が鼻の先までたどり着いた。
 滑るように下降する。
 指の付け根で止まる。

 もう、あのときの跡はない。



「王子様?」
 呼ばれて、はっとする。
「大丈夫?」

 視界から左手がなくなっていた。
 ウィリアムは背筋を伸ばして座ったままで、両手はお行儀よく膝の上に置いている。

 机の上にはお茶が湯気を立てる茶器があった。
 いつのまにか食事を終えていたらしい。
「王子様?」
「大丈夫だ。
 少し、眩暈がしただけだ」
 まぁ、と少女が驚く。

「今ごはん食べたのに? だめね、王子様。
 もっとたくさん食べないと」
「は……?」

「腕なんてわたしより細いんじゃない? それって許せないわ!」
 ずい、と差し出される腕に沿って、ウィリアムも自分の腕を差し出した。
 細い。
 痩せたかどうかはわからないが、健康的な少女の腕からすれば骨の浮き出しようが恐ろしい。

「今日はだいぶいいけど、昨日は顔も真っ青だったのよ。
 ちゃんと食べてぐっすり寝なきゃ、体にも悪いわ。
 わたしが王子様みたいになったら、兄はうんと心配するわ」

「……いや、だが、わたしは、もう、心配してくれるものなんて……」
「あら。
 わたしは心配するわ。
 わたしじゃ役不足かしら?」
「え?」

「権力者ってね、よくわからないことをしたがるのよ。
 意味もないことをいかにも重大だって顔して言うの」

 少女は急に変わった。
 いたずらっぽい笑みをして、机に肘をついた手にあごを乗せる。
「何のことだ?」

「なぜ王様は、三番目といえどお子のあなたをおいて逃げたのかしら?
 兄君は亡くなって、あなたが王太子のはずよ」
「やめろ。
 陛下への侮辱はよせ」

「違う? 違わないでしょ。
 全部とはいかないだろうけど、金目のものは持ち出して、立派な馬車に詰め込んで。
 食料ももてるだけ持って行ったみたいね。
 馬も一頭もいないわ。

 もしわたしが国王で、自分の子を一人置いていくとしたら、せめて護衛を一人と、身の回りのことをしてくれる者を一人つけるわ。
 それと充分な食料ね」

「人は皆、わたしが引き取るように言った」
「最後に残っていたのは、剣を持つような人たちじゃなかったでしょ?」
「ここにいても、無駄に命を落とすだけだ」
 少女が眉を跳ね上げる。

「あなたの命は無駄ではないの?
 王族としてここで死んで、あるいは捕らわれて……どちらにしても屈辱を受けるわ。
 王族として、人として。

 あなたの心は鋼でできているのかしら?
 それともすべてを包み込んでしまう空のような色をしているの?
 自分の命の重さがどれくらあるのか知らないの?」

「………………」
 ウィリアムは言葉に詰まった。
 少女の雄弁な言葉に驚き、その声の強さに戸惑った。
 一介の平民とは思えないほど、目の前の人は威厳を含んでいる。

「……おまえは、だれだ?」
「え?」
「クラウスの知り合いか?」
 何度も連れ出そうとしてくれた彼の代理人だろうか……いいや、とウィリアムは首を振る。
「……いや。まさか」

 ふぅ、と少女がため息をつく。
 椅子の背もたれにもたれ、ウィリアムに注がれたままだった視線はやっと外した。
 ウィリアムは解放された。

「ねぇ。
 そのクラウスって人、だれ?」
「……え」
「朝も言ってたわね」
「彼は……友人だ。
 幼なじみなんだ」
「…………」

「花を、その……毎朝、花を届けてくれたんだ。
 別宅に移ったときも、毎朝来てくれたんだ。
 ……それだけだ」
「…………」
 ふーん、と少女。
「それだけ、ね」


 それだけで、いいんです


 ツキン、と胸が痛んだ。
 両手を当ててみた。
 治まらない。
 また、ツキンと痛む。
 ツキン、ツキンと、鼓動のように胸を打つ。


 ……あなたが幸せなら


 胸を押さえる手に力が入る。

 それに応えるとき、ときどきだけれど勇気がいった。
 応えたとき胸が痛んだ。
 ツキン、と。


 わたしの───……


 一度だけ、囁かれたことがある。
 耳元で。
 はしたないと思った。

 王より謹慎を言いつけられて落ち込んでいたときだった。
 喧騒から外れて静かに暮らしていたとき。

 別宅に移って最初の朝、露台から庭を見て驚いた。
 彼がそれまでと変わらず騎乗した姿で現れた。
 手に花を持って、それを差し出した。


 おはようございます


 声が出なかった。
 喉が震えて。

 崩れそうな足を賢明に突っ張り、差し出された花を受け取った。
 震える手を引き寄せ、その香りを楽しんだ。
 高揚した。
 香りにではなく、彼の変わらない姿に。

 嬉しかった。


 ありがとう、クラウス殿


 彼が初めて近づいた。
 互いの手を伸ばしてやっと届く距離にしてそれまで来なかったのに。

 ドキドキした。
 朝の白い光のなかで自分の頬が赤くなるのがわかった。
 胸に抱いた花を支えにして、逃げまいとするだけで精一杯だった。

 彼は馬の上から手を伸ばし、まだ櫛を通してもいない栗色の髪を撫でた。

 触れられたのは髪だけなのに、その手の温もりが全身に伝わるようで、ドキンと胸が打たれた。
 耳がジンと痛くなった。

 熱い。


 クーラ……


 髪が引っ張られた。
 体が自然と前に傾く。
 彼が近づいた。

 ドキン、と胸が鳴った。
 彼の目を見てドキンとなり、彼の鼻を見てドキンとなり、彼が近づいているのだとしると胸を打つ鼓動はいっそう早まった。
 唇が微かに震えた。

 目を閉じた。
 暖かな吐息が頬をかすめた。

 あごを引き寄せるのは大きな指。
 吐息は耳元で大きくなった。


 わたしの───……


 一度だけ、囁かれた。